山岡鐵舟剣の修行
九歳(数え年。以下同)のとき飛騨高山において初め久須美閑適斎に真影流(直心影流とも)を学び、その後井上清虎に北辰一刀流を学ぶ。父の死去に伴って江戸に戻リ、千葉周作の玄武館、講武所等で修行を続け、二十一歳のときに講武所世話役となる。(ただし、このとき千葉周作はすでに最晩年であった。)
その後、二十八歳のとき浅利又七郎義明に弟子入りして刻苦精励、四十五歳のときに大悟徹底し、無刀流を開く。その後も工夫を重ね、五十歳のときに小野派一刀流九代目小野業雄を招いて組太刀を研究、小野業雄より瓶割刀、伝書を伝えられ、小野派一刀流の正統を継ぐ。これにより、一刀正伝の四字を冠し、一刀正伝無刀流と称することになった。
一刀流の系譜
一刀流は、小野忠明の後、伊藤忠也の系統と、小野忠常の系統に分かれる。忠常の系統は、忠常、忠於によって組太刀が完成されている。
忠於に続き、忠一が後を継いだが、忠於の弟子には津軽藩主津軽信政、信寿父子があり、また忠一の弟子に中西忠太子定があり、小野本家と三系統で受け継がれていった。小野家においては、忠一の後、忠久、忠方、忠喜、忠孝、忠政(業雄)と続いたのである。津軽藩ではその後中西道場との関係が強くなり、江戸出府の際に、中西道場で修行する藩士が多くなった。その系統を受け継いだのが笹森順造氏であり、現在一般に行われている小野派一刀流の組太刀はこの系統である。
鐵舟の師浅利義明は中西子定から数えて四代目の中西子正の次男であり、子正の弟子、浅利義信の養子になった人である。浅利義明に弟子入りする前に学んだ北辰一刀流もこの系統から出ている。
一刀正伝無刀流組太刀
鐵舟は、初め北辰一刀流、その後浅利義明について中西系の小野派一刀流を修行している。大悟徹底後、自分の思うところ、伝書等と照らして、それまで学んだ組太刀に納得できなかった。小野派一刀流九代小野業雄を招いてその組太刀を見るに及び、自分の思うところ、伝書にいちいち符合し、これが正しいと納得したとのことである。その後、自分の弟子の主だった者には、小野業雄から直接組太刀を学ばせ、小野業雄が伝えた組太刀を一刀正伝無刀流組太刀として受け継いでいくことになった。従って、一刀正伝無刀流の組太刀は、小野家伝来の小野派一刀流組太刀であり、山岡鐵舟は基本的に手を加えていない。ただし、相小太刀の八番、極意である正五典は、鐵舟の手が入っているものと思われる。中西道場で竹刀稽古を始めてから竹刀稽古が急速に普及したが、その過程で古来の組太刀も竹刀稽古の影響を受けて変わっていったのではないか。小野家では竹刀稽古を行わず、古伝の組太刀稽古を墨守していたものと思われる。
なお、鐵舟の師浅利義明は、組太刀においても名人と言われた人である。鐵舟と浅利義明の稽古では、互いに木刀を下段に構えて浅利義明が鐵舟を追い込んだ話が有名であるが、組太刀も相当稽古していたものと思われ、明治十六年の濟寧館の開館日には、浅利義明と山岡鐵舟が組太刀を演武している。大悟徹底したのが明治十三年、小野業雄から道統を受けたのが明治十八年、大往生が明治二十一年。大悟徹底した後も、死ぬまで工夫を続けていたのである。
参考(「劍道の發達」より)
抑も一刀流の初祖伊藤一刀齋が三十三回の實地眞劒の勝負と諸流とを究めし結果、五十本、刃引、相小太刀、正五點を組織したることは既に述べしが、『一刀流秘事』によれば一刀齋より傳はりたる組太刀は「刃引」「相小太刀」表の組は「越身」までとありていづれが正しきや明かならざるも要するに大差なし、然るに其高弟小野次郎右衞門忠明に至りて小太刀の組太刀五本と、小撓、拂捨刀を組織して之を傳來の組太刀に加へて其子忠也、忠常三代に傳へたり、忠常は更に研究の結果「切落」「同二本目」「寄身」「開」の四本を發明し、從來の組太刀と共に之を其子忠於に傳へたり、忠於は「合刃」「張」の二本を發明するに至りて一刀流の組太刀、即型完備するに至れり。後忠於の子忠一に至りて二派に分れ一は小野家九世の孫業雄に傳はり代々小野家の家傳として眞訣を確守し世上の流行を逐はず最も正確に傳承せり。此れを山岡鐵舟翁は一刀正傳と稱せり。他の一派は五代忠方より其門人中西子定に傳へ、子武、子啓、子正より淺利義信、同義明に傳はり義明より更に山岡鐵舟に傳はりしものなり。山岡鐵舟斯道を研究すること四十年、一々傳書と比較して此れを試みるに中西派の刀法は之れと符合せざる所ありしも、小野派に傳はるものは傳書と一々一致して世運の太平無事外見的華法に流るヽ弊少しもなかりきと云ふ、山岡鐵舟翁は明治十三年三月遂に一刀流正傳無刀流を開き一刀流の正傳を傳へ遂に三重、五十本、切落(寄身開)合刃、張、小太刀、刃引、小撓、拂捨刀、正五點を以て其組太刀を組織せり。
一刀正伝無刀流の稽古
無刀流の竹刀稽古は、現代剣道の竹刀稽古と違う点がいくつかある。
まず竹刀であるが、無刀流では、三尺二寸(即ち刀の長さ)の太くて重い竹刀を用いる。
胴、片手技は行わない。両手で全身全力を注いで撃突する。突は喉部に限らず、胸、腹にも行う。足は撞木足であり、踵を浮かせたりしない。
卯月会では、三尺二寸以下の竹刀を使う以外は余り拘らず、各自の考え方に任せている。
立切試合と誓願
立切試合は、香川善治郎が一週間数稽古に挑んだのが最初である。(明治十六年四月一日)このとき、三日目で山岡鐵舟の制止により香川善治郎の数稽古は終わり、第四日を前田忠擧、第五日を中村正行、松平莞爾、鯉淵政道、第六日を中田誠實、第七日を高橋道太郎、子林精一が引き受けている。誓願は、千日間修行誓願といって、朝四時から晩八時まで、道場に篭って一日も休まず千日間の稽古をすることであり、渡邉伊三郎(小倉鐵樹)が初めである。その後、立切試合と誓願が組み合わせられて、第一期誓願では、千日修行してその最終日に終日立切二百面の試合を行い、第二期誓願では、さらに千日修行して三日間立切六百面の試合を行い、第三期誓願では、さらに修行を積んで七日間千四百面の試合をする、ということになった。記録によると、七日間千四百面の立切を成就させたのは、小南易知(明治十八年四月二十四日より一週間)、佐野(東條)冶三郎(明治二十一年十一月二十九日より一週間)の二名である。このうち、佐野(東條)冶三郎の立切試合は、山岡鐵舟没後ということになる。立切の時間は、香川善治郎のときには朝六時から夕方五〜六時まで行ったようであるが、小南易知の一週間数稽古では朝八時〜夕方四時、佐野冶三郎のときには朝九−十時〜午後二−三時までと、時間は短くなっている。しかし、この立切試合では、大鋸助三郎のように、六十面で失神してしばらく昏睡状態だったという人もいるくらいで、凄まじい荒行であった。