鐵舟夫人英子談話より

山岡鐵舟の「武士道」は現在文庫本で出ているが、その後に出版された「鐵舟夫人英子談話女士道」は多分再版されることはないであろう。
ここにとりあえずその冒頭部分を紹介する。


英子女史曰く、私は全躰生れつきが天保時代と申して、世人の諺にも、饑饉時代と云ふ、貧乏な時に生れたものですから、貧乏は私の持前であります。こんな事を申しますと、世間の人は或はねぼけでも云ふとお笑になるかも知れませんが、決してさうではありません。話しと申すものは、聞く人が意をむかへ斟酌して聞かなければ分明に旨味を會得せられませぬ。先づ前置きは此處らとして、自分の幼少時代の譚を一つ致しませう、併し幼少時代の事は悉く記憶に留めても居りませず、又一々御話し申すも限りない事でありますから、其要點を摘みて御話し致しましやう。併し私は、話は極く不調法でもあるし、又人様にお聞かせ申す程の立派な事實がありません。そこらは前以て御推諒を願ひます。そこで御話申しますが、
元私の家は小石川の鷹匠町にありまして、生れ家が餘り裕かではありませんでした。しかし實父が至つて節儉にして勤勉な人でしたから、私の産れた當時は粗末ながら衣食住には事を欠ゐたことはありません。全體侍とか幕臣とか云へば、名前丈は立派ですが、丁度今日の華族さんのやうなもので、其實はさうはまゐりませぬ。そこで私も華族部類ですが、此の通りに貧乏ですよ。
私の兄弟は兄が二人、妹が一人、其下に弟が一人、私と都合五人です。所が私が六才の時、父が死んで仕舞ました。すると子供五人を母が一人で始末をするやら、家事を取締るやら、一身にこれを荷なはねばならぬ事になりました。而かるに母は全躰病身な人でありましたから、爲めに種々の負債も出來て、自然窮迫な姿に陥ゐりまして、結局私は親戚に預けられた位な事もありました。夫れから又八九年も經ますると、私が十五才になりまして復母から死なれて仕舞ました。是れより先き總領の兄が私より十二歳計りも上で既に槍術を以て天下の人士にも知られ、家督相續も致して居りましたが、母に先立ちて少しく前に死んで仕舞ました。其處で山岡家には相續人がなくなつたのです。最も二番目の兄がありました。之れは總領兄が死ぬるより遥か前に高橋家に養子に行き、戸主となつて既に一家をなして居る上に、又種々義理あゐがあつて、歸る譯にも參りません。終に不幸なるかな相續人が絶えたので、トウトウ貧乏くじが私の頭に流れかヽりました。處が私は婦人と云ふ譯ですから養子と云ふ騒になりました。
それより先き總領の兄が死ぬる頃の遺言に、おれが死んだならば、小野鐵太郎を我家に迎へて相續させたい、彼れは必らず有爲の人物であると、親戚や或は鐵太郎の劍師井上清虎なぞに相談した風です。是も鐵太郎は其當時總領兄の門人でありました。然るに爰に、談の理に合ぬ事がありますのは相續人がなくたつたと申す事であります。絶對になゐ筈はなゐ、末の弟がも一人ある筈です。然るに爰に仔細のあるのは、私が後日に至つて實兄高橋精一の談を聞きますに、山岡家は槍術を以て天下一と稱する家である、夫れ故に山岡家の相續人は何にか武藝に於て天下一なるものが欲しい、最も泥舟は山岡家の系統を得て頗ふる槍法にも秀出て居るも、前に申すが如く高橋家の戸主故山岡家に復歸する譯にまいらんから、そこで槍術と劍術と其名は異なれど同しく武術にして何に差閊はなゐ、何れにしても有望の人でさへあれば善ひと云ふ譯て、小野鐵太郎なれば未来必らず劍法を以て天下一となるに相違あるまゐと云ふので、愈々鐵太郎を迎ふる事になりました。其處で鐵太郎に此由を告げると、鐵太郎も山岡静山先生の跡なれば進んで相續を致さうと云ふ事になりました。然るに弟に相續をさせなかつたのは、未た幼少であるから、成長の事がなんとも図り難ひ、其處で愈々鐵太郎を迎へて養子とする事に決定致しました。鐵太郎二十歳私が十五歳で夫婦になつたと云ふ譯です。所が愈々結婚と云ふので、其婚禮の當日花婿鐵太郎様が御出になると云ふので静かに御窺申しますと、其姿と申せば骨格逞しくして六尺内外もある男で何んとも申し様のない武骨な所がありました。今日の御嬢さん方、こんな人を御覧なされましたならば、如何なる御觀念が起るでしやうか、定めて異様な感が湧き出でヽ快く夫婦にはなりますまい、私が様な格外な馬鹿者ですから黙って夫婦になりました。
所が夫婦になつたはよいが、鐵太郎と云ふ人は是れ亦飛でもない變人で何にも氣の附かない人です。妻子を養ふには斯くせねばならねと云ふが如き事には更に無頓着な人である、いかがでせう、今時の御若ひ女子方はこんな人と若しも夫婦になつたら女權主張論主義で夫が妻を養なはぬ奴は言語に絶した譯である、とか何んとか口實を設けて、直に離縁沙汰になりましやう、私の様な愚なものはさやうな口實を申す勢もなく、黙して其意に任せて置きました。
それから私は十九才までは無學でいろはが讀めませんでした。然るに或時鐵太郎の言葉に感ずる所がありまして、それから手習を始めましたが、始終鐵太郎か書き方を教へて呉れました。いろはの手本を始め、其他の手本を書ひて與へられますから、私は紙を百枚計り買つて參りまして、最初は墨を以て其紙の全部黒くなるまで手習をなし、其次は紙を乾かして水手習を致す事にして、一年ばかり立つ中に、一通り内外日用の手紙なぞには差支へのなゐ程になりました。それから學問にも心掛けて居りましたが、兎角に暇がありませぬから、時間を見計つては、書界に眼を注ぐ様にして居りました。
私は若年の頃は宗教なぞと云ふ事は心懸もありませず、又若年の頃は佛様なぞは大嫌でありました。所が二十二三の頃、鐵太郎の感化を第一とし、其他見聞上より宗教の必要を感じて、其後は佛教信者と申すも翹々敷くあれども、神佛に對し奉つて奉謝の意を表する様になりました。今頃の人たちの如く、議論や小理屈一偏では宗教はいけないものです。宗教は信じて後に始めて宗教です。此の事に就ては別に所感を物語る事に致しましやう。前にも已に述べましたる如く、兩親から死なれて哀れ愚な私が鐵太郎と夫婦になつて以来の貧乏と申す者は、今頃の人に話すも御嬢様の御姫様のと云ふ人方は寝とぼけでも言ふて居ると思はれるかも知れませぬが、その段は御免を蒙つて私の實歴談を致しましやう。私は或る質屋の質物をしばる紙繩を糾りて、其賃銭を以て飲食の料に當てヽ居りました。其頃幾多の浪人が何處の人とも知れず入り來つて居食して居りますから、少しばかりの家禄位では人並のものを喰ふ譯にも參りません。そこでやむを得ずトウモロコシを煮て食べたり、野邊に出て、アカザ其他の艸木の葉や根や實を採り來つて食べて居た事も往々ありました。又大根の頭を煮たり、鹽漬にしたりして食べて居た事も?々でありました。
維新の際、主人鐵太郎は東京に出て居りまして、私は幕臣一同と共に静岡に移されて材木町に居りましたが、愈々何にもなくなつた暁でありますから、拠り所なく百姓を始めました。百姓は生れて始めての事とて、随分不調法でありましたが、併し私でも麥粟大根や芋なそを根附け収納まで遣つた者ですよ。それから女の癖に諸國の書生さん方を澤山預つて居りますから、油斷をすれば食べさせんやうな事が生じますから、私が一番に鍬鎌を採つて?で居りました。麥舂やら米舂やら随分でしたよ。其頃の書生さん方で今頃は随分よい身分になつて居る人がある様です。其れからしばらくすると西郷さん(隆盛)が勝さん(勝海舟先生)に説ひて、是非鐵太郎が必要だから、宮内省に出仕して貰ひたゐとの御勸めに依つて、鐵太郎が朝廷に奉仕する事になつてから家内一同二度江戸(東京)に復歸する事になりました。
維新以前極赤貧であつた事に就て、御話申すも如何と思ふ位なお氣毒な談があります。併し事實でありますから申し上げましやう。元と静岡縣令をして居ました關口さんが維新以前私の宅に御來訪になつた當時の貧乏と申すは既に極點に達し、着替の衣類は絶えてなく、唯一枚の衣服が洗濯して乾してありますから、私は腰捲一つになつて居る所に御來客でありますから、御茶を差上げるには、六枚屏風の蔭に姿をかくして手丈外へ出して御茶を上げ、かくれながら應對をした事があります。其他名状すべからざる程の貧乏をして、猶ほ今日に至つて居ります。随分御推察がありませう。
私が弱年の頃より明治維新に移る頃は、誰れしも御存知の通り、取り分け内外多事の時節でありました。此時に當り、私は出過ぎた様ですが、御国の事が常に念頭に懸つて堪えられませんでした。私が安心して眠つたと云ふ事は、一生の間に六年計りでした。私が斯く物語るにつけ轉た今昔の感に打たれ、懐舊の情に堪えざるものがあります。實際に其境涯を出入した人でなければ眞實の味は分りません。今日氷川に隠居せられて居る勝さんの御令妹即ち佐久間象山翁の未亡人澤子さん方の如く、實地に其境涯を出入した御方でなければ、とても其實況は感ぜられませぬ。
其噺でありますが、主人鐵太郎は幕臣でありながら幕府の逆賊なりと同じ幕下人からも仇敵視せられて居りました。夫れ故始終打ち殺せの刺し殺せのと云ふ言が耳に絶ゑません。又諸國他藩の人よりも、非常の嫌疑を受けて居りました。其處で浪人等が私の家に幾度か遣つて來ました事は、指折り數へる限りでありません。而して鐵太郎は大抵不在で、其浪人等には女の貧乏腕で朝夕相手して居た様な事で、一例を示せば、私の宅には何處の人共知れず、浪人が來て寄食して居りますが、それら浪人の眞實の名は何んと申す人やら、何藩の方やら少しも分らず、然るに私は誰れでも分け隔てなく、來る者は拒まず去る者は追はずと云ふ様な態度を取つて居りました。其故に狼藉者でも或は憂國鬱勃たる傑士でも門を開ひて受付けて居りました。彼の維新騒動の際、八木良藏(北垣國造の偽名)、千葉十太郎の兩人が夜半十二時を過ぎて遣つて來て、喉が渇ひてたまらぬから水を出せと叫ひました。之れは自分が婦人だから馬鹿にして言ふたのです。其處で私も其意を酌み取りまして平氣で大きな手桶に一杯水を汲んで、そんなに喉がお渇きなら澤山めしあがれ、さぞおくたびれでしやうと、さも愛かしき人に接する如く挨拶をして、丁度持合せのようかんがありましたから、それを差出すと亂暴にも羊羹を刀のさきにつきさして、私にそら食へなそとて變な事を致しますから私は平氣で口を差出し、受けてたべました。其他種々の亂暴を働かんと致しましたが、總て私が相手の意表に出るものですから、二人とも詮方竭き唯々として立ち去りました。
又或時鐵太郎の知人で出羽の生れで清川八郎と云ふ人が嫌疑の爲め、他の人から殺されて首を取られましたが、其際に只今私の妹婿なる石坂周造が其首を奪ひ取つて來ましたから、私は其首を見て、こは清川の親戚知友の中から必らず首を尋ねて來るものがあらふと思ふて、其首を衣服に包んで戸棚に納めて置きました。一旦はさうしましたが、何分にも夏の事とて腐敗の恐れがありますから、鐵太郎の實弟小野飛馬吉をして首を砂糖漬にさせて蓄へて置きました。さうすると狼藉ものが遣つて來て、清川の首を出せと云ふ次第でありますから、飛馬吉をして屋敷の裏を掘り、これを埋めさせて狼藉者には私が相手をして刎つけて遣りました。それでも清川の首が私の宅にあるといふ事を彼れらが何んとなくう承知したものと見へて、狼藉者の來る事が數々でありました。私は其都度應對をして刎付けて遣りました。其後私は傳通院に葬りて置きました。而して後年出羽より清川の親戚が參りまして、其首を請求されますから、私が案内してそれを渡した事がありました。
明治戊辰の瓦解に際して、主人鐵太郎が不圖我家を立ち出でて、如何にせしやら、一向に行衛が知れません。此様な事は丈夫たる者の往々ある可き事で國家の危急存亡の秋に接しては、一々婦人や子供或は友朋輩に打ち明して物語る譯にも參らぬ秘密がありますのです。若しまた左様でなくとも非常の際は悉く妻子眷族でも相談をなす暇のない場合もあります。丁度鐵太郎も彼の時變に遭ふて東奔西走身命を擲ちて國家の爲めに謀りつヽある際でありますから、平素思ふて居ない事が臨機應變に生して來るものと見えて、明治元年二月末頃でありましたか例によつて講武所に出勤致しましたが、何程待つても歸つて參りません。彼是れする内、世評を漏れ聞くに官軍が江戸城總攻撃の爲め東下しつヽ大總督は有栖川宮を戴きて、既に駿府まで後來着の趣き江戸市中は一方ならぬ大混雑の折柄山岡鐵太郎が将軍慶喜公の命を奉して單騎駿府に到り、西郷參謀と和順の盟を卒へたる趣き、江戸市中所々に高札を以て布達せられたるとて其評判を耳にしました。夫れ故に私は坐ながらにして鐵太郎の擧動を承知して居りますから、其氣合以て、總てに應對する態度を取つて居りました。さうすると亂暴者がヒシヒシと私の宅に遣つて參ります。併し私は平氣に應對掛け引きを致して一度も辱を受けた事はありませんでした。又私が耳に留め居りまするのは狼藉ものが來るも來るも口を揃へて山岡の悪漢、勝の國賊め、二人連にて幕府を賣る奴だとか、舊來の君恩を知らぬだとか、否日本をして毛唐人の餌にするだとか、一方ならぬ悪口狼藉を極め、私に向つて貴様の親類は残らず殺し盡すだとか、家を焦土にして遣るだとか、其の亂暴狼藉といふものは言語に絶した沙汰でした。又私に平素鐵太郎が交際往來して居るものはどんな奴だ、明白に白状せよ言はずば打殺すとか、私を刧やかしますから、私は平氣で春風の面を拂ひ來るが如く聞き流して、打つて替つて彼れらの意表に出て遣りました。
其處で私は彼れらに向つて御身方は苟も丈夫でありながら、武士道を心得ぬとはさてもさても御氣の毒千万の事ではありませんか。一度たりとも武士教育を耳にしたるものが設へ殺されたりとて武士道の禁ずる秘密を浅墓にも敵に物語るが如き馬鹿者が櫻花國の武門にあるものか、妾が御身方によい手段を教へて上げましやう。御身方は未だ孫呉の兵法は御心得なきか、抑も世界万事の状態は都て表裏二面のあるものにして、之れを譬ふれば若し敵の事情を探らんとならば、敵の裏面にある間隙を認むる事が第一の要訣である、言葉を換えて申せば敵の事情を探らんが爲には先づ心を許さするにありましやう。夫れ故に御身方が妾が宅に來つて鐵太郎の消息を探らんと思はば、先第一に妾が氣を迎ふる秘法を用ゐなければなりますまゐ。然る時は、或は女の浅智恵でうかうかと秘密をも漏すかも知れませぬ、と打ち笑ひつヽ答へなからマー御茶でも召しあがれとて、平氣にすましておりました。すると彼れらも呆に取られて寶の山に入りながらの姿勢でずんずんと出て行きました。後窃に漏れ聞く所に據れば、其當時私の宅を出ては、氷川の勝さんの所に至り、勝さんの御妹から例の如く冷かされ、或は勝さんの宅を去つては私の宅に遣つて來る、さうして終にあぶはち取らずであつた風です。妾が經歴なぞ?々人の求めによつて平氣に事情を物語れば、聞く方も亦た平氣に聞取つて聞き流します。夫れゆゑに其の間に存して居る妙味少しも會得しません。此く申すと、英子が小天狗で手柄話でも遣るやうですが、決して左様な譯ではありません。それを手柄話と思ふやうな邪見があつて御聞きなさると、直に其邪見心が向ふの鏡に映して己が心に反射して來ますから、眞實の事が聞き取れません。一口に申しますれば、心を白日の如く持ちて一點の邪なくして諸事に接すれば、一切の觸目皆すきはたつて、心の鏡に映ずるものです。言を換へて申せば、自信する所は至誠を以て貫く考へでありますれば、天下に心の敵は皆無の筈です。復た言を換へて申せば、之れが則ち天道である、否人道である。此の意が我物になれは、孔子の教への如く、行を二つにせず、君子は其の獨を愼むといふ心得を以て、復た釋迦牟尼佛の教の如く、天地の萬物は之れを一切衆生と覺悟し、敵味方老幼男女の區別なく、己が心を清めて之れに接すれば、少しも心に凝滞する事がありません。夫れ故に亂暴者に出逢つても、如何なる大變時に處しても、少しも畏怖する念が生しなゐ、乃ち我れといふものがなゐ、亦元來我れはなゐ筈でありますから、つまらぬ我流を出さす、心を無我平等に持ちて居ますれば、之れが大砲の丸よりも、正宗の名刀よりも猶ほ強き、無上の大利器であります。

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