草鹿龍之介自伝より(無刀流入門の頃)

 当時大阪に布井弥助といふ多分綿布問屋の主人であったと思ふが、非常に奇特な人があった。汐見橋駅の付近に、剣道道場を持ち、小南易知といふ無刀流の先生を聘して、同志の士を集めて稽古に励んだ。私共はこの道場に通ふことになった。従兄は大阪に居る間は、共に通ったが、私は一週間に日を決めて、二三回は通ふことになった。この無刀流は、維新の剣豪山岡鐵舟先生の発明に懸る流儀である。小南先生は山岡門下の双璧の一人であった。私はこの先生に稽古をつけられた。無刀流では、入門後三年間は、只管に打ち込みをやらされる。十歳そこそこの私も、熱心にこれをやった。その当時大阪にはまだ電車が無かった。稽古日には、曽根崎から汐見橋迄歩いて通った。雨の日も風の日も、雨の日は、高下駄を腰に結び付け、素足で通った。同時に無刀流組太刀を習った。子供であるから覚へることも早く、太刀筋も素直であるといって褒められた。従兄は私より背丈も高く、已に中学生であったので、将来を嘱望された。
道場には、時々山岡門下の直門の錚々たる先生方も来られて稽古をされた。香川善次郎、河村善益、藤里新吉、中条克太郎、中村余所吉、佐野冶三郎、その他香川先生の高弟、石川竜三、中島春海の諸先生であった。
佐野、中条の両先生は、背丈も低かったが、他の先生は孰れも雲突くばかりの大男であった。就中中島春海先生は、六尺二寸位もあったらうか、しかし痩躯鶴の如く、髪は由比正雪ばりの総髪にして、太く短き無刀流の竹刀を以て、当今流行の小手先の細き竹刀の他流と仕合しても、寸分の隙も見せなかった強豪であった。また香川先生は、流石山岡門下第一の俊鋒であった。体躯も偉大であり、如何にも剣豪といふ感じを、子供である私にも看取することが出来た。当時剣界に於ける豪傑が、香川先生に対し、見栄も外聞も打ち棄てて、掛り稽古をする壮観は、今日にあっては到底見ることの出来ぬ有様であった。

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