大橋弓談話

 大橋弓は、会津藩の大橋亀吉という武士の娘で、会津戦争で両親を失い、越後を流浪していたとき北陸御巡幸に従っていた鐵舟に拾われたということである。


 山岡先生はな、毎朝四時半に起きられたものじゃ。それから水垢離をおとりになってね。その湯呑みよりゃ、もっと大きい、このくらいな(手で寸法をして)ギヤマンのコップに、五、六杯冷酒を引っかけるんだが、それは内緒、奥さまに秘密の、盗み酒だよ。はははは−私なぞ、そっと注いでさしあげたものよ。晩酌はね、それぁ奥様おゆるしの天下晴れての一升、一升が毎晩のおしきせだった。
 先生は酒飲みでしたよ。天下に有名な大酒家だったねえ、それで、惜しむべき偉人が、胃癌のために、あたら五十一歳で早逝されてしまったんです。
酒を飲んでも、酒に飲まれるような先生じゃなかった。おまえさんがた、すぐ酔っぱらって取り乱すだろう。心ができておらんと酒を飲んでも醜態ばかりするものだよ。山岡先生なぞ、五升飲んでも一斗飲んでも、顔色すら変わらなかった。飲んでいるのかいないのか、わかりゃせん。だから奥様だって、まさか毎朝盗み飲みされているとはご存知なしさ、もっとも一升瓶の子買いならわかるだろうが、樽だからね、気がつかんさ。
 私は十二歳のとき山岡先生の門に入ったんですよ。たった一人の女弟子としてね。むろん剣道の弟子さ。十二から竹刀をもって−十二どころか、若い男弟子だと、六つ、七つというのがざらにあったよ。
 山岡先生の稽古というものは、それぁ烈しいものでしたねえ。なんしろ鬼鐵といわれたほどの勇猛な先生だからねえ。道場の板羽目など傷だらけでしたよ。七分板をぶすりっと突き破るようなことはしょっちゅうだったからな。
 突きの一手、ほとんど突きばかりなんですよ、無刀流というのは。必死の力で、捨身になって突きまくるんだから、たまったものではない。
 私なぞ、娘ざかりを、毎日どたぁり、どたぁりと突き倒されてね。仰向けにひっくり返ったり、お尻をどすんと突いて気絶したり、たいへんだったよ。
 朝六時というと、ぽんぽんと竹刀の音だ。
 正面に先生がいなさる。右側が幹部の上級者、左側が未熟者、右側の先輩が先ず稽古をつけてくれる。それから先生だ。ええ、ええ、それぁ私なぞにも、ちゃんと手をとってご教授くださるんです。
 娘二十の頃を、私は先生に勧められて諸国武者修行に出ました。明治十七、八年の頃だったろう。娘剣士が単身、一本の竹刀を背に、日本六十四州を歩いたものです。
 小説にあるように、頼もう!なぞと知らぬ道場の玄関へ出かけて行く。むろん、ちゃんと紹介状をもってはいるが−。そこで、何流の奥義、思想、精神はどんなものかということを研究していくんです。(後略)

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