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第12回 根付と印章 〜光定・玉獅子鈕を参考に
平成15年7月8日



1.光定の玉獅子根付

 根付師・光定(みつさだ)は、江戸末期に活躍した大阪の根付師で、”洗練された美と完璧な技術の持主”と称されている。(バーブラ・テリ・オカダ)

 その作風や技術の類似性から判断して、大原光廣の一門と考えられている。上田令吉著『「根附の研究』によると、光定は「大原と稱し人物、面等を作る名工なり、寛政以降文政の人なり。」と記述されている。しかし、この活躍年代は上田令吉の誤りで、光廣の師匠に相当する年代ではなく、光廣一門又は光廣と同門の時代の根付師であったということが現在では世界的に定説になっている。

 光定は、作品は少ないが優品が多いとされ、鳥や亀といった動物の根付が残されている。(Paul Moss著 "Japanese Netsuke: Serious Art, Outstanding Works Selected from American Collections", No.49, Raymond Bushell 著"Collectors' Netsuke", p.100等) 

 光廣の影響を多分に受けているからであろうか。象牙の仕上げの具合がとても美しい。

 獅子根付で最も難しい彫刻は、巻き毛の部分である。巻き毛は、モコモコと立体的かつ等間隔の縞模様で表現しなければならないが、光定は難なくこなしている。おそらく根付師の中では最も美しい巻き毛を彫刻する根付師ではないだろうか。光定には他の玉獅子根付は発見されていない。よってこの根付は、現存している唯一の光定の玉獅子だと思われる。


光定 玉獅子鈕 印章根付 高 3.7cm 江戸時代末期 大阪

 


 獅子の台座側面に「雷紋」が丁寧に彫られている。幅わずか3mm足らずの帯の中に6本の線を寸分の狂いもなく彫り入れている。とても凄い技術に違いない。雷紋は、印章の飾り枠に好んで使用される紋様である。獅子の左前足が紐通し穴の役割を果たしている。幕末又は明治時代に実際に使用されたのであろう。足の周辺にわずかにスレが確認できる。両眼には、水牛と思われる角で象嵌されている。

 「吃 光定」の銘が獅子の後部の台座に彫られている。光定が吃り症であったことを示している。銘の前に堂々と「法橋」や「法眼」と冠するなら理解できる。しかし、わざわざ、自分の身体的特徴である「吃(どもり)」と刻するのは、一体どのような心境だったのだろうか。

 台座の部分には、以前、この根付を収蔵していたある有名美術館の管理用シールが貼られている。

 江戸末期から明治期にかけての根付に多いのだろうか。染めと磨きの技法により、形彫りの光と影の部分が美しいコントラストに仕上げる根付師がいる。光定もこの部類にはいるが、その極端な例が丹波の豊昌である。三重県津市の奥野氏によれば、彼は、お歯黒をベットリと塗り、乾きかけた頃にふき取る作業をしたという。つまり、彫刻の凹凸に従って、影の部分と光の部分を効果的に醸しだしたのである。

 まさか江戸時代の彼らが見ていたとは思わないが、彼らの根付は、同様に光と影のコントラストをより劇的に表現したレンブラントの絵画に似ている。キアロスクーロ( Chiaroscuro、明暗法、イタリア語で「明暗」の意味)と呼ばれる手法を完成の域にまで到達させたのがレンブラントであるが、同様の手法を江戸時代の根付にも適用していた根付師達がいたことを考えると、興味深い。

 印章の上部のツマミの部分を"鈕(ちゅう)"という。この鈕の部分が玉獅子になっている。この精巧にできた玉獅子は、実は、単なる印鑑の”ツマミ”なのである。なんとも贅沢な作りである。

 底面の印面には、陽刻の篆書体で「鴛鴦(おしどり)」の字が逆字で彫り込まれている。鴛と鴦の文字が上下逆に向かい合わせで彫刻されているのである。双方の文字に「鳥」のつくりがあり、その文字の最後の画数をお互いに共用している。鴛鴦の意味は、"仲むつまじい"ことを喩えているので、文字もその意味合いに掛けてこのような構成にしたものと推察される。


印 面  鴛鴦(逆字)

 文字構成として巧妙に考えられており、篆書体としてみても熟練のセンスがうかがえる。篆刻の文字に精通した人でなければ、この印稿は書けないはずなので、篆書に学識のある文人からの依頼に基づくものか、または、文人との合作により商人等からの特別注文に対応したものと思われる。印面の枠も「子持ち輪」と呼ばれる二重の枠を用い、細工も細密であるが、印面の彫刻を詳細に観察すると、文字の線が凸凹しており、太さも区々の部分が見られる。どちらかというと、普通の技術を持った人が篆刻をした感がある。

 印面の文言と獅子との意匠上の関連性は無い。また、光定による鈕の形彫りと印面の彫刻技術には、差がある。よって、これらのことから、まず光定が中国の印材形式の形で玉獅子根付を先に作り、売り切りで販売。他人の手に渡った後、底の印面はその後に仕上げられたことが分かる。幕末明治の印章根付の生産はそのようなものであったのかもしれない。



2.印章と篆刻

 印の起源は古く、中国の殷代代(紀元前1800年〜紀元前1100年)にさかのぼるといわれる。

 印の上部に人物や山水、鳥獣、魚虫、花果などを彫刻をしたる印材がある。亀鈕、獅子鈕、龍鈕、兎鈕など、持ち主が気に入った意匠を彫っているようだ。この部分を「鈕(ちゅう)」と呼び、もともとは"つまみ"を意味している。

 篆刻とは、篆書を彫ることをいう。石、木、銅などの印材に篆書を用いて印を刻すこととなる。篆書という書体の範囲は、広義では中国の殷の時代の甲骨文や金文、秦時代の小篆に至るまでの1千年間に書かれた文字のことを指す。日本はちょうど江戸時代初期、榊原篁洲ら、当時の一流知識人たちが篆刻を学び、江戸中期からは、文人趣味として大流行したようである。

 古い時代からの根付として印章根付というものがある。中国から朝鮮を経て日本へ印鈕(いんちゅう)が伝わり、絵画や書の署名の捺印のために印章が絵師や書家や学者達に使われるようになるに連れて、印章の持ち運びの便宜のために印章のツマミの彫刻部分の隙間や孔開けした孔に紐を通して、印章根付と呼ばれる根付が出現した。(伊藤良一著「根付入門」、p.15)

 また、中国から象牙でできた印鈕という、今で言えば印材が豊富に輸入されていた。これに紐通しの孔を開けて、根付として重宝されたとする説もある。印鈕には唐獅子や龍といった彫り物がしてあったから、外国から伝わってきた珍しいものとして、滑り止めには適当な応用品であったという。(砂本清一郎著「根付の魅カ」、p.37)

 上田令吉も印鈕について言及している。江戸時代の日本人は、中国を文明の国、聖賢の国として敬慕し、中国渡来のものは唐風としてとして大いに愛好せられ、印鈕などの各種のものに直接孔を開け、これに紐を通して直に根付として使用した。このような関係により、日本人もこれに倣い唐風の根付を多数製作した。根付に獅子の構図が多いのは、中国からの印材の多くが獅子鈕であったからであると説明している。(上田令吉著「根附の研究」、p.14)

 印の形式には様々なものがある。(http://www.e-unica.jp/shopping/tenkoku/rtenkoku.html より引用)

 冠帽印(書画などの書き出しに押す印で、引首印とも呼ばれる。 )、姓名印(白文を用い姓名が各二文字なら、縦に二行が一般的。)、雅号印(表字印とも呼ばれ、字のことで、実名の他に別名をつけることを言う。)、遊印(日光、日吉、日利などの吉語を彫った印を、中国の漢時代に吉語印と言ったのが始まり。語句は、当時の人々が志や身の安泰を願ったもので、後には、好きな詩句や理想の語句を選ぶようになった。)、収蔵鑑賞印(コレクターが、収集物を手にした喜びを表現するため、押すもので、蔵書印が代表的。 )、斎堂館閣印(庵号のことで、詩仙堂、五合庵、聴氷閣(旧三井家〉、有竹斎などが有名。 )、図象印(秦、漢時代に、青竜〈東)、朱雀(南〉、白虎(西〉、玄武(武は亀の意味で北)の四神があり、その姿を印にして、間に自分の姓名を入れたりしたもの。現代でも、動物と文字、動物だけなど、実に楽しい印がある。 )

 また、印の種類として、陰刻(白文、文字の部分を彫り込む)と陽刻(朱文、文字と輪郭を残し、他を削り取る)がある。



3.印章と根付師

 明治以前は、印章といっても現代の実印のような使い方をしていたのは武士階級や僧侶、貴族などの姓を持つ人々に限られていたと言われる。一般庶民も判を持っていたが、「文字のようにみえる」図案で文字ではない意匠を彫っていた。上下左右の区別もない「遊印」と呼ばれる印で、名前よりむしろ縁起語や図章が多くバラエティに富んでいたという。江戸時代では、気軽に印章を持ち歩いて、現在でいえばスタンプやロゴマークのように、自分のマークとして、何にでも気軽にポンポン押していたらしい。すなわち、江戸時代の印章根付は、実用使用を前提として作られていた可能性が大きい。

 現に、光定の玉獅子根付も、印面の溝に朱肉の残りがあり、印面の陽刻部分にもうっすらと朱肉の赤が残っている。使用後に印面を拭き取った紙のかすも付着している。落款印を新調した時、朱肉の種で意図的に彩色をすることがあるが、それは近年の事だといわれている。すなわち、この根付は使用頻度は分からないが、実用されていたことが確認できる。

 更に、印面には逆字が刻されているので、このことからも、観賞用だけではなく、実用印であったことが分かる。この印章が実用に耐えられる芸術性のある印であることは、実際に篆刻用の印泥で押印して、篆刻家に見てもらえば分かることだと思われるが、当時の朱肉の跡が残るこの印面に現代の朱肉を付けることに抵抗があり、未だ実現させていない。何かうまい方法はあるのだろうか。

 この印章根付の印面は、文字性と篆刻の入れ方がしっかりしており、篆刻の文字に精通した人でなければ、この印稿は書けない。篆書に学識のある文人からの依頼に基づくものか、または、文人との合作により豪商等からの特別注文に対応して製作したものと思われる。ただし、その劣る技術から推察して、印面は光定が彫ったものとは思えない。このため、まず、光定が売り切りで真っ新な印面の印章根付を製作し、その後、誰かが印面をデザインし、篆刻したものと思われる。




 江戸時代・明治時代の根付師と印判師の関係を考えてみると面白い。明治時代はじめ、根付需要が輸出用と国内注文生産のみに激減したとき、根付師達は新しい仕事を模索したはずだと思われる。象牙彫刻や置物根付に生計の糧を求めた者がいたり、廃業した根付師もいたはずだ。

 その中で、印稿を描く篆刻家との合作などを前提として、豪勢な印鈕のついた印章根付を製作した根付師が居たのではないかと思う。根付師から印判師に転向した人も少なからずいたのではないだろうか。現に、バーブラによると、幕末の大阪の根付師・正一の弟の正利は、宮内庁の国璽を彫ったという。(バーブラ・テリ・オカダ解説「根付展 NETSUKE」、日本経済新聞社(1981年5月)より) 

 篆刻は、印刀を用いて石印材を彫刻するものである。素材が象牙・黄楊か石材かという違いはあるものの、根付師が篆刻作品をも作成していたことは容易に想定できる。印面の細密な彫りこそ根付師達が得意とした技能であり、実用に耐えられるもので、かつ、鑑賞性のある印章根付を大量に生産したに違いない。

 ある者は、この光定のように売り切りで印章根付を製作・販売したに違いない。またある者は、印面も含めて特別注文に対応して印章根付を製作したに違いない。

 江戸時代、武士と同様に名字を持つことを許されたのは、由緒ある庄屋・町年寄・名主・御用商人・本陣などの役柄のある家、学問・治世の功労者などに限られていた。しかし、明治を迎え、新政府は明治8年2月に「名字必称令」を出し、国民すべてが名字を名乗る制度を採用した。徴兵制度と納税制度のため、国民を管理する必要があったからだ。このため、明治時代に印章や印章根付を作成する需要は、相当大規模に発生したと推測される。失業同然の根付師達は、印章作りにも糧を求めたに違いない。




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