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第17回 法實墓碑の掃苔
平成15年10月23日



現在、とある根付師の記録を調べていまして、その予備調査のため、山田法實の墓碑の掃苔をしてきました。

この「掃苔(そうたい)」とは、広辞苑によると「墓石の苔を掃く」の意。
すなわち「お墓参り」のことであり、墓地を歩いて故人の生前の姿を偲びながら、手を合わせて参詣することです。

この墓碑の掃苔は、根付研究家の上田令吉が昭和17年9月10日に森田藻己と共に行っており、その記録は『根付の研究』に写真付きで掲載されています。その記録を辿って私もフラリと行ってきました。


山田法實の墓碑は、小石川區原町二十三番地の日蓮宗蓮久寺にあります。
現在の住所で言えば、東京都文京区白山5丁目30番地です。
当時の白山4丁目及び5丁目は、原町と呼ばれていました。

『根付の研究』によると、山田法實は次のように記載されています。

「山田伊左衛門(伊右衛門とせるものあり)と称す、幕府の御家人(茶坊主とせるものあり)なりしかば将軍家お抱根付師の観あり、家紋は丸に桔梗を用い津軽公の庇護を受けたり、主として人物を作りしが英一蝶の書風により実写的にして緻密、豊麗、丁寧かつ上韻なり、し東都第一の名工なり、東京小石川原町鶏聲ヶ窪に住せしを以て明鶏齋と号せり、明治五年八月十三日(嘉永三年、或いは明治六年七月三日とせるものあれども誤ならん)没す、諡して是光院妙達と称し、小石川區原町二十三番地日蓮宗蓮久寺に葬る(彫銘、法實或は法實花押)。」


つまり、法實はこの蓮久寺近くの白山4丁目又は5丁目に住んでいたことが分かります。
地区の隣には、あの小石川養生所がありました。

東京に住んでいる方なら分かりますが、この小石川という場所は、江戸の中心だった日本橋や神田とは少々離れたところに位置しています。かといって、遠いはずれでもありません。幕末の絵図で確認すると、原町のまわりは寺院と大名屋敷、田畑がポツンポツンとありました。鶏聲ヶ窪とあるように、この辺りは坂が多い場所です。

この鶏聲ヶ窪が具体的にどの付近なのかはよく分かりません。
明治十一年の内務省地理局作製の地図を見ると”傾城ヶ窪”という地名があります。ちょうど蓮久寺が位置している窪地に記載されています。発音が似ているので、鶏聲ヶ窪とは傾城ヶ窪のことを指しているということで間違いないと思われますが、念のため地元の郷土資料で由来を確かめる必要があるでしょう。

ということで、法實の工房はこのお寺の付近にあったということになります。

ちなに、マイナーツハーゲンのカードインデックス(MCI)の人名録には、根付の題材やスタイルから判断すると法實と竹陽齋友親は一緒に働いていた可能性がある、と指摘しています。彼の推測は的確です。法實の家と友親の家は、お互いにわずか600mしか離れていませんでした。当時は当然何らかの親交があったのでしょう。また、上田令吉は、山田法實を幕府の御家人又は茶坊主としていますが、さらに研究が必要です。


日蓮宗蓮久寺(文京区白山五丁目) 山田法實の墓碑


墓碑は、60年前に上田令吉と森田藻己が並んで記念撮影をした時の墓碑と全く変わりません。
海石の天然石で、碑銘もうっすらと判別できます。
ただし『根付の研究』の写真と若干周りの風景が異なります。
60年の間に位置を整理したのだと思われます。


山田法實の墓碑(碑面)


碑面は『根付の研究』によれば次のように彫られています。

  「明治五年壬申 明 鶏 齋 法 實 之 墓
           八 月 十 三 日 卒
        是 光 院 妙 達 □ □ □
         明治二十七年十月十四日 」


上田令吉によると、碑面に破損があって一宇判読できない部分があるとのこと。おそらく、戒名の最後の文字は「信士」か「居士」ということになるのでしょう。

裏面は、
  「 □ □ 法 民
    荻 原 一 法 齋
      田中法玉
      櫻井法一
      齋藤孝實
      石岡法興  」


とあるようです。法實の門弟が並んでいます。上田令吉の人名録から推測すると、法民の名字には「福本」が入るのでしょうか。ただし、荻原一法齋の号も「寶民」です。一体どちらなのか、さらなる研究が必要です。




この墓碑は、明治27年に門弟及び親族が集まって建立したと上田令吉は書いています。
確かに碑には、明治27年10月14日の日付があります。
碑を建立した明治27年時点では、法一は66歳、一法齋は64歳でした。
竹陽齋友親は20人の弟子を擁していたといいます。
法實の工房もそれに近い繁盛があったのでしょう。

法實墓碑と山田氏の墓 法實の御令室の碑銘


法實の墓碑の横には2基の山田家の墓が建っています。

確認ができた9名の没年は、それぞれ宝暦五年(1755年)、宝暦七年(1757年)、文化九年(1812年)、宝暦十三年(1763年)、安永二年(1773年)、文化元年(1804年)、嘉永四年(1851年)、天保十四年(1843年)、寛政十二年(1800年)とあります。
すなわち、法實の山田家は、遅くとも18世紀初頭からこの地で続く家柄であったことが分かります。

この山田家と山田法實の関係は、法實の碑のすぐ横に立つ墓(写真の真ん中の墓)の碑銘で確認できます。
側面の碑には、

  「 是 光 院 妙 瑞 日 如 信 女
            明治二十六年十月三日  」


と刻してあります。

法實の戒名は「是光院妙達□□」でした。山田家の墓であること、没年が接近していること、戒名の四文字が一致することから、こちらは法實の御令室と推測できます。法實が亡くなって21年後に御令室が亡くなったのでした。

法實の墓碑を建立したのは、明治27年10月14日です。
すなわち、御令室が死去した一周忌を記念して、老境の弟子達が集まり、法實の墓碑を建てたということになります。

法實死後の21年の間、弟子達が御令室の面倒を大事にみてきた可能性を静かに物語ります。
おそらく弟子達は若い頃、師匠の元における厳しい伝習の際、おかみさんに心優しく面倒をみてもらったのでしょう。
当時の大きな工房の風景が目に浮かぶようです。


法實が一体何者であったのか。なぜ根付製作を始めたのか。
これはさらに研究が必要でしょう。




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