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第29回 幸せづくしの根付、吉長の猿回し。
平成17年7月18日




 最近は「猿回し」と「吉長」がマイブーム。

 日本での「猿回し」の起源は、室町時代にまで遡るという説があり、また、インドや中国を経由して輸入されたとする説もある。猿回しは、猿に芸をさせる大道芸として、江戸時代に庶民芸能として栄えた。猿曳き、猿使い、猿飼いとも呼ばれる。現代でも猿回しが存在している。猿回し専門では日光猿軍団(栃木県)、日本猿軍団(福島県)、河口湖猿まわし劇場(山梨県)、加賀猿まわし企画(石川県)があり、地方の芸能プロダクションでは大道芸のメニューとして「猿回し」を提供しているところも数多い。

 江戸時代では猿回しが大活躍していたようで、かつて徳川家康の馬が病気になったとき、猿回しを呼んで祈祷させたところ、回復したため褒美が出たというエピソードがある。当時の武家にとって「馬」は戦役・物資輸送として大切にされていたという事情もあり、それ以来、猿回しは正月・5月・9月に江戸城の厩に馬の守護として祈祷に行き、更に諸大名の屋敷の厩にも呼ばれて出向いていたという。この伝承は、日光東照宮の神厩舎外壁に有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の「三猿」の彫刻があることからも確認できる。一説には、猿は「去る」に通じることから、「魔(凶事)を去る(追い払う)」とも信じられていたという。

 江戸時代の書物に猿回しのことが記録されている。天保年間(1830〜1843年)に喜田川守貞が記した『守貞漫稿』によると、江戸時代の猿回しは「身分の低い者が吉事・凶事に出向いて芸をした」と記録している。姿は、古手巾(手ぬぐい)をかぶり、弊依を着し、二尺ほどの竹棒を携えていたという。また、大名などに召されたときは羽織袴を着たとされる。猿回し根付は、この猿回しの容姿、風貌をそのままに現しているものが多い。

 日本根付研究家理事で横浜動物園ズーラシア園長の増井光子氏(故人)によると、猿には厄除け・招福の意味から、住居の一部、欄間や鴨居などの高所に彫り物として取り付けたという。氏によると、中世武家社会において貴重な動物であった馬の守護として、厩に猿を住まわせていたことがあったという。

 これらを確認するため、週末を利用して栃木県の日光東照宮に行ってみた。日光東照宮は、元和3年 (1617)、徳川家康公を奉祀し創建された神社で、二代将軍秀忠公により造営された創建当初の社殿は、20年後の寛永13年(1636)三代将軍 家光公により建て替えられ、今日の絢爛豪華な社殿群となっている。東照宮周辺には中禅寺湖、華厳の滝、戦場ヶ原、いろは坂等の観光名所が数多くあり、明治時代から外国人の観光名所としても知られてきた。有名な日光猿軍団の興行場もこの周辺にある。

 話題の神厩舎(しんきゅうしゃ)は、国宝・陽明門の前に位置している。重要文化財である。神厩舎は神様に仕える神馬を飼う建物。東照宮で漆を塗っていない唯一の素木造りの建物となっている。神厩舎の欄間には猿の彫刻が8面飾られている。たしかに、厩に猿を住まわせるがごとく彫刻が並べて置かれている。

東照宮入口 参道 国宝・陽明門
神厩舎 神厩舎の欄間1 神厩舎の欄間2
三猿1 三猿2 みやげの「三猿守」





 今、18世紀の京都の古い根付師・吉長が面白いので、彼の根付を中心に集めている。吉長を初めて見たのは、サザビーズのオークションカタログに掲載されていた一枚の「猿回し」の写真だった。それまでは、「根付」といえば動物根付ばかりに目が向き、人物根付にはほとんど興味が湧かなかった。外国の根付コレクションでも、日本や中国の難解な故事伝承を理解する必要がある人物根付よりも、単純で、愛嬌があり、題材の意味を考える必要のないイージーな動物根付に人気があると聞いていた。

 そのようななか、写真を見て、一発でその魅力的な表情に取り憑かれたのがくだんの根付。寝そべった構図は根付には滅多になく、珍しい。猿とともに上方を見上げた表情がなんとも面白い。人物根付も悪くないと思った。そのカタログで「猿回し」を見たのがきっかけで「吉長」という名前に注目するようになった。旧Floyd Segelコレクションとして1999年にオークションに出された根付は、しばらくは、「今頃は外国蒐集家の手に渡ってしまい、コレクションに納まってしまっているのだろうなぁ」と思いながら、何度も眺めてはため息をつく対象だった。

 その後、数年がたち、幸運のめぐり合わせか、その猿回しはある骨董商から偶然手に入れることができた。根付蒐集にはタイミングの運・不運があるが、これで一生の運の半分は使い果たしたと思われるくらい、ラッキーが重なった。全ての運の半分を消費したとしても良いと納得できるほど、好きな根付だった。

 サザビーズのカタログには正面・上方の写真が一枚掲載されているだけだったが、実物の裏面を初めて見て驚いてしまった。正面以上に状態が良く、しかも、少ない面積の底面にデザインがギュッとコンパクトに収まっているのである。装着時には隠れる裏面にも手を抜かないところに根付彫刻の面白さがあるが、この猿回しはその模範のようなもの。これほど巧みに各パーツが収められた根付は未だかつて見たことがない。何度見てもこの小気味よい完全な構図には唸ってしまう。羽織の裾が必ず一部めくれているのがポイントで、動きがある。吉長はデザインを決める際、いくたびも下書きを書いたのではないだろうか。

廣葉軒吉長 猿回し 18世紀 京都
旧 Floyd Segelコレクション

唸らされる裏面




 吉長は1781年に書かれた「装劍奇賞」に掲載されている根付師の一人であるが、これまで十分に注目されてこなかった。同時代の友忠や岡友、京都正直と同様、吉長のことは18世紀に京都に住んでいたこと以外はほとんど知られていない。

マイナーツハーゲンは吉長のことを次のように解説している。

「吉長は京都スクールの三大名匠(principal masters)の一人。幅広い彼の作品内容と残された作品が少ないことからして、他の京都スクールの根付師よりも幾分早い時期に生きていたのかもしれない。事実、彼は京都スクールの創始者かもしれない。彼は独立した根付師で、おそらく京都・正直の先生だと思われる。彼の生徒や彼の作品をまねた根付師は大勢いる。清勝、正守、吉清、吉正、吉友、吉光、吉忠・・・・・。」(MCI、p.988)


 吉長の特長をいくつか挙げることができる。吉長は、犬や兎の動物も彫るが、圧倒的に数が多いのは人物である。根付の製作では、動物よりも人物の方が難しい。このことを知ったのは駒田柳之氏の根付教室に通ったときだが、人体骨格を十分に理解しないと、材料から人物の顔や体を図取りするのは難しい。でっぱりや角のない形が理想とされている根付においては、人間のひょろ長い手足はなんとも邪魔な存在で、その処理が難しい。

 その人物根付を難なくこなす根付師は、「装劍奇賞」根付師の中では、吉長以外には法眼舟月、法眼周山、三輪等わずかしか居ない。動物根付も面白いが、長年所有していて飽きがなく、深みや味が出てくるのは人物根付の方が多いように思う。人物根付が彫れる根付師は、実は凄いのではないだろうか。このようなことからも、吉長を注目する価値は十分にあると思っている。




 
 「18世紀の京都スクールの根付」といえばコレクター垂涎の的であるが、スクールの製作姿勢はふたつに大別することができる。

 ひとつは、大量の注文をこなすため、売れ筋の同じデザインを繰り返し工房で生産した根付師。もうひとつは、同じ題材ながら、必ずどこかしら工夫を加え、異なるデザインを創造的に製作した根付師。前者は、友忠や岡友の一派が当てはまり、後者は京都・正直と吉長が当てはまる。根付は腰にぶら下げる「見せびらかし」のためのアイテムである。他人と同じものを所有しているのは面白くない。毎日同じ提げ物をぶら下げていたら野暮と思われる。だとすれば、注文の際、依頼主から当然「他人のものとは極力異なる一品もののデザイン」が所望されていたはずだ。



この「見せびらかし」の文化を示す記録がある。江戸期の平戸藩主・松浦静山が1821〜1841年の間に書いた随筆「甲子夜話」(かっしやわ)は、所有していた50個以上の印籠・根付の提げ物について、それぞれの組み合わせを記録をしている。当時の大名が所有していた根付のことを示す貴重な記録なのだが、そのなかで提げ物の使われ方が語られている。つまり、松浦静山は大名なので、他の大名の屋敷におよばれすることがある。その際、屋敷の玄関から書院へ向かう廊下では、後ろから付きそう茶坊主に「今日の提げ物は○×ですな〜。」とお世辞を言われると書いている。また、江戸城に登営(登城)した折りには、提げ物は諸侯から見られ話題にされるので、同じ物ではなく数品を取っ替え引っ替えした、と記している。



廣葉軒吉長 猿回し 18世紀 京都

全て異なるデザイン。
その独特の衣装の模様には意味がある。

 
 友忠や岡友の場合は、「臥牛」や「犬と鮑」、「獅子」、「鹿」の根付を見れば分かるが、寸分違わぬデザインの根付が数多く残されている。大きな工房を抱えていたためか多産であった。もちろん、少しずつデザインを変化させた「シリーズ」も彼らは製作しており、その代表例が「狼」。狼が踏みつけている獲物を亀、鹿の足、蟹、猿、鬼の手、木の枝、髑髏とバリエーションを変えることにより、少しずつ変化を持たせている。安易な手法ではあるが、依頼主を満足させる「一品もの」を製作するために採用されたのであろう。

 一方、吉長に関しては、全く同じデザインは存在していない。それぞれ、ゼロから構図を起こして根付を製作したかのようなダイナミックなバリエーションがある。

 吉長を研究するため、現在、過去の膨大なオークションカタログ等から吉長作品の写真や説明のデータベースを作成している。現在のところ、現存する約60体の吉長根付を写真で確認して、ファイルしている。データベースの成果として言えることは、吉長が取り上げた題材そのものは、鍾馗、猿回し、蝦蟇仙人、鉄拐仙人、布袋、寒山拾得といった程度で、種類は少ない。しかし、同じ題材の中であっても、同一のデザインは皆無である。普通ならば、ひと組くらいは同じデザインの根付があってもよさそうだが、実は全くないことがデータベースで証明できる。私の猿回しのコレクションも、3体とも全く異なるデザインをしている。驚くべきは顔のつくりや表情で、彫銘を見ない限りは、別人が彫刻したのではないかと勘違いしてしまいそうである。吉長は、注文主のそれぞれの顔に似せながら根付を製作していた可能性がある。京都・三十三間堂にある千一体の千手観音像のお顔が、それぞれ全て異なるのと同じである。

 ちなみに、時代が下がり19世紀に入ると、この「量産タイプ」の根付師は激増する。根付が18世紀から19世紀の変わり目に自立した町人を中心に大衆化し、需要が増えたためではないかと推測している。同じパターンを繰り返し使用した根付師を代表例で例示すると、虎渓(虎)、田中岷江(道成寺)、伊勢正直(蛙)、白龍(虎)、菊川(面根付、唐子)、懐玉齋(十二支)、亮長(蛙)、玉珪(人物)らが挙げられる。一方、創作的な新しいデザインを基本として製作した根付師として例示できるのは、吉長の他に、大原光廣、谷齋、豊昌、京都正直らが挙げられる。(※ 前者の根付師であっても一部、創作的な根付を製作し、後者であっても一部には売れ筋を繰り返し製作した場合もある。)




 
 吉長の一派は特に「猿回し」の題材を得意としたようである。弟子である吉友や正守も猿回しを製作している。吉事・凶事に出向いて芸をした猿回しは、武家、商人、町屋、農家を問わず見る者全員を魅了したのだろう。人間と格好が近似している猿に高度な芸をさせるのは、数ある大道芸の中でも特に夢中にさせるものがあったのだろう。東照宮では、現在でも三猿のケータイストラップやキーホルダのお守りを販売している。人気キャラクタをアクセサリとして身につけておきたい、という気持ちは現代の日本人でも変わらない。

吉長派の猿回し根付の特徴としては、

  一服図(肩肘をついて寝ている休憩の図)が多い
  当然であるが猿が猿回しの傍らに寄り添っている
  猿は傘など芸のための小道具を持っていること(又は小道具が入っている袋がある)
  猿回しは頭巾をかぶり、羽織を着て、裸足、芸のための竹の杖(棒)を持っている
  猿回しの衣装の一部がめくれ、足首が組まれているなどの特徴がある
  大小の紐通し穴は実用を前提として重心に空けられている(例外はない)

ことが挙げられる。ちなみに、寝姿をしている猿回しや鉄拐仙人は、必ず右手を枕にして右側に寝ている。これまで約10個の吉長の寝姿根付を見たが、ひとつの例外(Virginia Atchley氏旧蔵の鉄拐仙人)を除き残りは全て右手枕である。このことから、仏の涅槃図をも意識して製作していたのではないか、と想像を巡らすことは楽しい。

 猿回し根付は、小道具があり、しかも登場するのが「猿回し」と「猿」の2体。手足が合計8本もある。根付としてデザインするには混雑した構図で難しい。これを根付として実用に耐えられる大きさなの中で、コンパクトな構図に納めるのが根付師の力量の見せどころだが、吉長派の根付師は難なくこなしている。

日光猿軍団の猿山の猿

東照宮の帰りに寄ってみた




 吉長派はその独特の衣装の模様も特徴である。菊や雲、唐草などの模様を衣装にびっしりと彫刻していて、遠くからでも吉長派はそれと判別できる。この独特の衣装模様であるが、実は「デザイン上の視覚効果」を狙ったものと考えている。例えば猿回しの場合、既に述べたように構成要素が多くあり、単にデザインどおりにまじめに彫刻するだけでは、登場するそれぞれのパーツが自己主張し、いわば「うるさい」デザインになってしまう。腰に下げた根付を他人が遠目に眺めたとしても、それは何の題材なのか一発で分からなければ、根付をぶら下げる究極の「目的」は果たせない。

 根付とはキャラクタ文化であり、キャラクタ化とは、不要な部分を簡略にしつつ、対象の本質的な特徴を抽出して意匠化すること。日本人は古来から、人物・動物・植物などのキャラクター化が得意だった。猿回しの場合、強調したいのは「人物や猿の表情や手足の動き」である。愛嬌のある一服図では、安らぎの表情があり、休息のために横たえている体の動きも表現したい。

 ここで、吉長は、衣装の部分をあえて濃密な模様で埋め尽くすことで、「衣装や小道具の部分を弱め、顔の表情と手足の動きを浮き立たせる」ことに成功している。吉長派のものによく似た無銘の根付を見かけるが、この効果を理解して徹底的に模様を彫り込んでいるか否かで、それが吉長派のものかどうかが判別できると考えられる。

 ちなみに、吉長派の根付の中では、師匠の吉長が最も仕上げを丁寧に行う傾向があり、象牙材の良い部分を贅沢に使用し、顔や手足の象牙の磨きが綺麗な飴色になっている。工房を経営して、弟子に手間隙をかけて丹念に磨かせた結果だと思われる。このため、この効果を最も良く使いこなしているのは吉長とも言える。


吉友 猿回し 18世紀 正守 猿回し 18世紀後期〜19世紀初頭
正吉 猿回し 18世紀後期〜19世紀初頭
 




 岡友が持っていたような繊細な毛彫り彫刻や完璧な目の象眼技術は、吉長は持っていない。19世紀の根付師と比較しても技術は下手な部類に入る。しかし、もし、根付が「美」として鑑賞される対象であるとしたら、それは実用性に配慮した「機能美」であり、細密彫刻や仕上げの優れた「工芸美」であり、デザインが独創的で奇抜な「意匠美」で評価されるのではないか。

 つまり、根付の評価は細密技術が全てではない。18世紀後半の京都といえば、円山応挙(1733〜95)、曾我蕭白(1730〜81)、池大雅(1723〜76)、呉春(1752〜1811)らが活躍していた時代である。1781年の『装劍奇賞』に掲載された京都の根付師達は、京都画壇の画家達と交流があったか、少なくとも作品くらいは見る機会があり、表現方法やデザイン面で影響を受けていた可能性がある。18世紀の京の文化興隆期での根付師達のかかわりを研究してみるのも面白い。

 例えば、蕭白の絵の面白さは、対象物のデフォルメやエキセントリック、ユーモアにある。彼の「群仙図屏風」は、それぞれのキャラクタが”いっちゃった”パターンだろう。根付におけるキャラクタ化も同じことで、例えば、吉長の猿廻し顔は、デフォルメされた巨大な三頭身(!)であり、表情が惚(ほう)けている。いつヨダレを垂らしてもおかしくない。また、稲田一郎の猿廻しは、頭がグーっと下がって、胸のところについていて、一見冷静に眺めれば人間の身体としてはスゴイことになっている。

 キャラクタ化とは「写実」と正反対のことで、デフォルメによって対象物の「本質」を表すもの。根付を楽しむなら、写実化だけでなく、キャラクタ化の妙にも気づかなければ損。現代根付が古根付ファンに飽きられている点は、写実偏重にあるのも一因ではないか。外国人のネツケ・アーティストは、ムカデやペンギンの写実的根付を製作している。彼らの作品のテクニックには感動するが、所有欲は沸かない。

 日本人は幕末・明治期以降の「細密工芸技術」ばかりを評価しがちであるが、美を評価する振幅は本来、もっと自由で広がりがあるはず。根付を単に「細密工芸」と括ってしまうから世間の評価も頭打ちになる。18世紀の根付は18世紀のものとして別に評価されるべき軸があるように思える。





 吉祥とは「めでたいしるし。よいきざし」(『新潮国語辞典』)の意味であり、古来日本人は、衣装や身のまわりの持ち物に吉祥文様を好んで用いた。七福神や宝づくし、蓬莱山、鴛鴦、雲鶴、鶴亀、老松、梅花、雲立涌(くもたてわく)、牡丹唐草文様などがそれにあたる。吉長が得意とした猿回しや鍾馗、仙人は吉祥図、衣装模様にある菊や雲は吉祥模様であり、そもそも「吉長」の名前自体が「長き吉祥」を意味するもの。つまり、吉長の根付は、持ち主にとって幸運づくしなのである。

 動きのあるデザインを創作し、コンパクトな構図に知恵を絞り、所有者の癒しと幸福を狙う表情は、吉長のユニークなスタイルである。持ち主の「幸せを願う気持ち」を一番に汲みながら製作した根付師だったのだろう。


稲田一郎(1891-1977) 猿回し 1960年代頃 東京



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