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第35回 ペアで集めたい根付コレクション
平成18年9月3日


 網羅的な根付コレクションを構築しようとすると、時間と財力が無限大に必要となります。なので、両方の資源に欠ける私は、極力、コレクションに「方向性」を持たせた、精鋭部隊による戦略的な蒐集をしようと心がけています。

 蒐集の方針はシンプルで、@(当たり前ですが)本物(本歌)を集めること、A他人の意見に惑わされず、自分の好みに忠実になること、B作品として“価値が高い”と評価されるもの(人気の意匠、高度な技術、良い構図、綺麗な仕上げ、保存状態等)を選ぶこと、です。

 私の場合は、Aの結果、主に18世紀の京都スクール好みを愚直に追求することとなり、外国人に多くの金持ちライバルがいるなか、苦難の道を歩んでいます。また、質感の嗜好の結果、木刻よりも象牙作品にひかれるものがあり、コレクションは10対1の割合で象牙のものが多いです。一般の人が聞いたら不審人物と疑われそうな“象牙マニア”といつコレクター仲間から命名されないかとハラハラした日々を過ごしています。好みを愚直に追求することは苦労することではありますが、エキスパートとしてその分野の専門性を極めることでもあります。

 世の中には、根付の世界でも、メダルや切手、キャラクタグッズなどの他の世界でも、まるでバキューム掃除機のように何百個も何千個もかき集める人がいます。まさかそれで百科事典を作るのではないと思いますが、それはそれで意味のあることだとは思います。網羅性と数で勝負をしているのですから。しかし、いつまでも底辺の樹海をグルグルと巡る掃除機方式のコレクターで終わってしまうか、それとも、雲上に頭を突き出して頂上(=専門性)を見通せるコレクターになれるかは、何かコレクションの方法や態度において差があるのだと思います。


 さて、良いコレクションを形成するためには、基本的なことですが、クオリティの高い上質な作品と「比較級」の形で観察して、取捨選択するプロセスを持たなければなりません。骨董美術やコレクティブルのすべての蒐集分野でも同じことが言えます。

 例えば、海外の図録の写真と見比べることによって、希少性があるのかそれとも平凡レベルの作品であるのかを確認することは、最も一般的な方法でしょう。また、蒐集の諸先輩方の意見を拝聴して、その作品のレベルについて意見を伺う方法もあるでしょう。私がお世話になっている一部の諸先輩方の素晴らしいコレクションは、拝見するたびに新たな発見と感動があります。良い作品とは、いつも感動できること、新たな発見があって飽きないこと、だと思い知らされます。最後にその作品の価値を知る究極的な方法は、オークションに出品して経済的価値に換算することです。しかし、これは即作品を放棄することとなるため、あまり使える方法ではありません。

このような考え方で、私の場合はこのような「比較級」ができる蒐集の工夫として“ペアで集める”ことを心がけています。このペアの意味は、対やグループで同じ傾向の作品を集めることで、具体的には、

  @同じ作家で同じ題材の二つ以上の作品を集めて、比べてみる
  A同じ作家で異なる題材の二つ以上の作品を集めて、比べてみる
  B異なる作家で同じ題材の二つ以上の作品を集めて、比べてみる


ことができるという意味です。

 作品の構図が優れているかどうか、仕上げが綺麗であるかどうか、保存状態が悪くないかどうかといった評価は、具体的に同系統の作品を横に並べて間近で観察すれば、比較級として判定できます。本歌の根付であっても、作家や題材によって出来不出来の差が大きくあります。同じ作者や同じ意匠であっても、少しでも質の高いコレクションを構築しようとすれば、それらを横に並べて取捨選択する必要があります(網羅性を追求する場合は話は別です。)。

 比較してみて、もし一方が満足できない場合は、その根付を処分してしまうか、お蔵入りすることになります。一方、同じ作家の異なる作品を比較してみて甲乙つけがたい場合が生じたときは、大変喜ばしいことです。その作家の高い技術レベルが改めて確認できることになりますし、(万が一、その両方とも贋作でない限り)その両方は、一応本歌である蓋然性が高まります。また、この比較作業は身内のコレクションでのみするのでなく、根付コレクター同志で様々な作品を比べてみる出張によっても可能です。子供達がデパートでトレーディングカード(トレカ)を見せ合って、自分のコレクションの地位を確認しながら質を高めていくのと同じですね。

 具体的な例で見ていきたいと思います。


@同じ作家で同じ題材の二つ以上の作品を集めてみる

 同じ作家で同じ題材の作品を比べるケースでは、18世紀の吉長(よしなが)の猿回しの作品があります。一方は寝そべった格好の猿回し。もう一方は立ち根付スタイルの猿回しです。

 猿回しは、友忠や岡友と並ぶ京都スクールの三大開祖の一人としての吉長の得意な意匠でした。様々な姿の猿回しを数多く残したことで知られていて、同じ猿廻しでもデザインが創造的に少しずつ異なっていて、同じデザインは存在しません。この二つの作品を確認することによって、まずこのことが理解できます。吉長の作品が見つかるたびに“今回はどれくらい意外性のある格好をしているのだろう?!”と期待します。もし、天才としての芸術家(アーティスト)とテクニシャンとしての工芸家(クラフトマン)の差が“独創性・創造性・意外性”にあるとしたら、吉長は前者のひとりだと思います。

 一方、デザインが異なっていても、吉長の場合は用いられているテクニックには共通性が見られます。象牙をいちど肌色に染めて、その上に更に彫刻刀で彫り込んだ衣服の模様に茶褐色の濃い染めを加えて磨きとる独特の手法。法則性のある大小の紐通し穴の開け方。特徴的な埋め尽くされた衣服模様。人間と猿の豊かな表情。作品を並べてみることによって用いられている共通の技法が確認できます。その根付師の特徴的な技法が判別できます。もし、通例とは異なる技法の作品が出現したときには、真贋の鑑定の材料になるでしょう。

 このように、作品を並べて比較してみることによって、作者の独創性・創造性、用いられた技法を推し量ることが可能になります。


廣葉軒吉長
猿回し(立ち根付)
廣葉軒吉長
猿回し(寝姿)




A同じ作家で異なる題材の二つ以上の作品を集めてみる

 同じ作家で異なる題材の作品を比べるケースでは、正一(まさかず)の玉獅子と豫譲(よじょう)のペア、京都の岡言(おかこと)の臥牛とラッパを持つ阿蘭陀人の作品のペアがあります。これらは同じ作家でありながら、一方は動物、もう一方は人物である面白い例です。

 どちらのペアを見ても分かるとおり、同じ作家の作品に用いられているテクニックの水準は非常に接近しています。まず、正一の方は、両者の背の高さや大きさがほぼ同じで、まるで規格化されているようです。写真では分かりにくいのですが、両眼の象眼の材質や入れ方も似ています。獅子の毛彫りと豫譲の衣服の細密模様は、他の根付師と比較して運刀の技術が高いレベルにあることが分かります。ちなみに、豫譲とは昔の中国の武将の物語の主人公です。主君の仇を討とうと何度も挑戦するがかなわず、形だけ敵の衣服に刀を突き刺し、その後自害したというものです。物語では「衣服」が重要なアイテムであって、正一はそれをきちんと理解した上で衣服にゴージャスな彫刻をしていることが分かります。

 次は、岡言(おかこと)の臥牛とラッパを持つ阿蘭陀人を見てみます。比較して分かることは、どちらの作品も非常に質の良い象牙材を使用しています。阿蘭陀人の方は中心に象牙の神経の芯が通った跡があり、透明感のある良質な材料の中心部分を使用していることが分かります。牛の方は、裏面が特にそうですが、毛彫りと染め具合、滑らかな紐通し穴の形状と相まって、艶やかな象牙の質感があります。

 おそらく当時は材料代だけで高価だったと思います。貿易や国内流通が未発達の江戸時代では、京都・大阪の根付師は象牙材を容易に入手できましたが、名古屋や江戸その他の地方では難しく、主に木刻で根付を製作しました。そのような時代に京都とはいえ、さらに上質の象牙を手に入れることができた岡言は、それなりに作品の引き合いがあり、需要に恵まれていたことが作品の観察によって推測できます。

 この岡言の二つの作品のもうひとつの共通項は、根付として機能的であるように「構図がコンパクトに作られている」ことです。京都スクールの“ロケット型の牛”と称されるように、この牛は前後から見ると円筒形のように真ん丸です。後ろ足は宙に浮いていて一見すると不自然ですが、これが京都スクールの牛の特徴です。でっぱりのない動物デザインを岡友派は得意としていました。阿蘭陀人の方は二人の人間で手足が合計8本、しかも片手にラッパを持っている構図です。凡庸な根付師が作品を作れば作品に出っ張りができてしまいますが、この作品はまったく手に引っかかりません。手のひらの中にやすやすと収まります。

 このように、作品単体だと気がつきにくい作者の特徴やレベルが、異なる題材の作品を並べることによって判然となることを示しています。逆に言えば、この特徴や傾向からはずれる作品は、その作者の作品として極端に希少性の高い貴重な作品であるか、または贋作であるかのどちらかということになります。また、作品毎に技術が一定しているということは、現在風にいえば品質管理がきちんとなされていた証拠であって、当時も需要者の期待を裏切らない根付師として多いに賞賛されていたと考えることができると思います。


奇峰堂正一
豫譲と玉獅子
(正面)
同(裏面) 岡言
ラッパを持つ阿蘭陀人
岡言
臥牛(側面)
同(裏面)




B異なる作家で同じ題材の二つ以上の作品を集めてみる

 異なる作家で同じ題材の作品を比べるケースでは、岡信(おかのぶ)の蛤根付と奉真(ほうしん)の蛤根付の作品があります。どちらも18世紀の京都の根付師ですが、奉真の名前は、1781年に大阪で書かれた『装劍奇賞』に掲載されていて、同時に掲載された岡友(おかとも)の弟子である岡信よりも一世代古い作家だと思われます。

 滑らかな形をした蛤の中に細密彫刻の竜宮城があるのですが、これは海に出現する蜃気楼は大蛤が吐く息であり、その息の中に美しい竜宮城があるという伝説に基づいています。この蛤の中に風景を彫り入れる独特のスタイルは”奉真彫(ほうしんぼり)”と呼ばれ、『装劍奇賞』の奉真の紹介でも”象牙にて蛤の内に宮殿などを彫れり”と紹介されています。おそらく奉真の代表的な売れ筋根付だったのでしょう。(ちなみに、個人的にはこの意匠の根付が大好きです。曲線によって凸凹しない機能的な外形(蛤)と細密彫刻の内部(竜宮城)を両立させる、いわば根付彫刻として「最も完璧な形状」ではないでしょうか。)

 両者を横に並べてみて分かることは、世代の古い方の奉真の作品は、素朴で大胆な印象を受けます。岡信のものよりひとまわり大振りで、重量が重く、屋根のところなど細密彫刻はやや荒いです。一方、時代が下がる岡信の作品は、小ぶりでディテールが細かく、蛤の形も手のひらで持ったときの感触が心地よい洗練された曲線となっています。なんとなく女性的な艶めかしさを与えていますが、これは師匠の岡友の影響を岡信が受けたためと推測されます。岡友の作品の特徴は、デッサンやプロポーションが適切で、高級な装飾品として仕上げが綺麗なことです。

 このように、作品を並べて比較してみることによって、同じ題材同じ地域(京都)の作品であっても、作者によって作風や完成度のだいぶ異なる作品が残されていることが理解できます。

 ということは、つまり、題材や意匠によっては本歌の根付師であっても、レベルのあまり高くない作品も残されている可能性があることが分かります。例えば、岡友派は霊獣や動物根付が得意でしたが、草木や小動物の表現は浅草派(谷齋、蓮斎、正之)の方がレベルが高いです。また、18世紀の根付師は勢いと凄みのある、何か精神的なものを感じさせる作品が多いですが、一方、19世紀の根付師は気品のある、高い技術の緻密な作品が多いようです。このように、根付師の得意分野(意匠、材質、テクニックなど)をおさえておけば、個体差が大きな根付の中ではハズレをひいてしまうおそれは薄まると思います。

 なお、この岡信と奉真の場合は、作品単体の完成度は岡信の方が上であることが分かりましたが、『装劍奇賞』に書かれた奉真彫の歴史的資料としての重要性を考えると、どちらもコレクションとしては不可欠のアイテムとなります。

左 岡信
右 奉真
岡信(裏面) 奉真(裏面)
 



※ 奉真の蛤と同様の作品がエジンバラのNational Museums of Scotlandに収蔵されています。この博物館には約1000個の根付が収蔵されており、キュレーターによると他にも4つの蛤根付(“Clams Dream”と呼ばれている。)が収蔵されているとのこと。今後、先方と連絡を取って”奉真彫”の情報を交換する予定です。



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