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第37回 象牙根付、常識のウソ。
平成18年9月20日


 象牙根付について様々な議論があるので、今回は”間違った常識”と”真実のホント”の形式で実例を基にしながらまとめてみました。



常識
  “象牙根付の肌色(茶色)は古色だ。時代を経てこのような色に変色した”
ホント
  基本的には、実は単なる夜叉染め。


 象牙の原木の中身そのものは、白色です。肌色系統の色が付いた象牙根付のほとんどは、その色の濃淡の差こそあれ、製作時の夜叉染め等の手法により染めたものです。象牙根付は、製作時に染めが施されていない状態においては、以後、外部から影響を及ぼさない自然な環境では、肌色に変色することはないと考えられています。
(何万年も前に生息していたマンモス象の牙は、現在では温暖化現象によってシベリア地域で多くが発掘されています。それらは表面が灰色や黒色には変色はしていますが、中身が根付のような肌色になっているものはありません。)

象牙の端材
(染色する前は白色)
黒竜江省で発見された約2万年前のマンモスの牙の化石
(「人民網日本語版」2004年8月11日より引用)
表面は黒いが内側は白色をしている。


 経年によって象牙が肌色に変化するかどうかについて確認する場合、同時期に製作された根付を見比べてみる方法もあります。その実例として、同じ京都スクールの吉長の作品には、白色に近い鍾馗根付と肌色に近い猿回し根付があります。もし象牙が、長年の自然による変色によって一律に肌色や茶色になるのであれば、同じ18世紀に製作された鍾馗根付も同様に変色するはずですが、そうではありません。象牙の肌色は製作時からの染めによるものであって、経年変化によるものではないと推測できます。

同時期(18世紀)に製作された吉長の猿回しと鍾馗


 象牙の染色について実証するため、以前、自宅で実験をしてみたことがあります。

 約4年前、象牙の染色について調べてみようと思い立ち、自分で材料を調合して、夜叉ぶしの染色液を作りました。製法はいたってノーマルで、夜叉五倍子(やしゃぶし)の約200個の玉を採取して、すり鉢ですり潰してローストしてから煮ました。某根付関連サイトで、お酒や酢、古釘も関係すると書いてあったので、これらも調合して染料を作り、約半年間貯蔵して寝かせました。寝かせている期間は定期的に中身を攪拌しました。

 実験試材はウニコール(イッカク鯨の角)の端材を用いました。同じ牙角ですから、染まり具合の程度の差はあれ、象牙材の染色の参考になると考えられます。染色の方法は、常温の染色液に試材を凧糸でつるして一昼夜おきました。実際にこれを腰にぶら下げて使用するつもりはなかったので、色止め等の処理は特に行っていません。染色の結果は写真のとおりで、染めを行わないものは白色で、染めの工程を経たものは人間の肌色(茶色)に近い色に染まりました。このように、牙角類は、夜叉染め等の染色によって肌色や茶色に染めることができることが実証されます。また、染料の成分や温度、染めの時間を調整すれば、より象牙根付の染め色に近づけることができると思われます。

夜叉ぶしの染色液 イッカク鯨の角
(素材(左)と染色したもの(右))

 なお、染色実験後約3年が経過しようとしていますが、現在のところ、間接的な日光が届く部屋のガラスキャビネット内に保管してある試材において、特段目立った退色変化はみられません。


 この夜叉染めの起源や目的は、実はよく分かっていません。

 ある現代根付作家の方の推測によると、染色は“明治時代頃に古びた味を偽って出すために骨董屋が考えだしたもの”との説明があります。骨董屋が古色を出すために茶碗を茶渋に漬けたり、土中に埋めたりするのと同じですね。しかしながら、18世紀の京都スクールの根付をみれば、もっと古くから夜叉染めは確かに行われていることが確認できますので、「明治以降の偽りのための染色起源説」は、ありえないことが分かります。

 一方、江戸時代の工芸品で純白色のものは少なく、日本人の色彩感覚上、純白は日用品としてあまり好まれなかったとする説があります。モノに暖かみを感じる暖色にすることによって、親近感をわかせる効果のためとする説、赤黄色や黄金色が桃山時代から江戸時代に好まれたため、色揚(いろあげ)と称してわざわざ染めた、とする説もあります。人物根付を表現する場合、白色よりも肌色の方が良いとする説には共感を覚えます。

 また、象牙根付への夜叉染めの理由として最も有力だと思えるのは、「輪郭強調説」です。象牙根付は、染色をしない場合は白色の彫刻物となり、それだけでは輪郭が明確になりません。根付は腰にぶら提げて他人に見せびらかすためのものですから、これでは根付の用を果たしません。上に写真を掲載した京都・吉長の鍾馗根付も、全体として白色に近い色合いですが、実はわずかに染色されていて、輪郭や陰影、衣装の模様が黒い染料によって強調されています。注意深く観察すれば、古い象牙根付のほとんどは、何かしらの色で必ずこの「輪郭」があることが分かります。これは染色(又はそれに近い技法)による人工的な着色です。考えられるのは、一度、全身を染料で染め上げてから、輪郭や衣装の模様に濃い染料がとどまり、その他の部分を拭き取って磨く工程があったのではないかと推測しています。拭き漆の技法と同じですね。この染料の拭き取り跡は、吉長の根付でも多く観察できます。筆を用いながら輪郭や衣装の部分のみをピンポイントで着色するのは非常に困難ですから、全体の染め上げは工程としては合理的なものです。


 なお、最初に、肌色は製作時の夜叉染めによるもの、と書きましたが、所有者の長年の使用により根付の肌色の色艶(いろつや)が変化する可能性はあります

 象牙が綺麗な飴色に変化したことをパティーナ(Patina、古色)と呼びますが、この変化は実際の使用による経年変化、すなわち時代性の証明に使える可能性があります。この飴色の変色は、日常的に手で触られながら時代を経て形成されるものです。象牙根付のコレクターであれば、長年の埃にまみれた象牙根付を手で触っていると、くすんだ象牙の肌色が明るく、透明な肌色に変化した経験はあると思います。

 この原理は、解明されていませんが、使用者の汗、垢、タンパク質等の科学的変化で説明がつくかもしれません。この飴色の変化は、象牙根付の表面全体には一様に変化しません。使用者や製作者の指の入らないところ(例えば、人物根付の脇の下など)には飴色の変化は原則としてみられません。これは、飴色の変化が、自然の経年変化であれば全体にまんべんなく変色するはずですから、これは自然によるものではないことを示しています。

吉長 張果老仙人
(手や顔の奥の部分はくすんだ色となっている。
顔や手の表面の艶やかな部分とは対照的。)

 また、人間が触ることによって、象牙の色が変化するとの報告もあります。例えば、象牙でできたピアノの鍵盤、象牙製の昔の聴診器、象牙製のステッキの柄、象牙製のタバコパイプ等です。原因は詳しく解明されていませんが、人間の汗や油などが考えられています。上記の例は、実際の使用によって人間が影響したことによる変色です。

 ここに人間が触ったことによって変色したピアノの象牙製の鍵盤の例があります。これは35年以上前のもので、持ち主の方によって毎日のように使用され、最近は20年近く使用されていません。写真のとおり、象牙でできた白鍵ですが、中央部は茶色に変色しており、逆に、ピアニストが滅多にタッチしない左右の端の部分(高音域と低音域)や黒鍵の間の部分は、変色はほとんどみられません。この例から、人間の汗などの作用による象牙の変色が説明できることになりますし、人間が触る回数の差(ピアノでいう音域ごとに分かれるタッチの頻度の差)によって、変色の濃さが異なることも分かります。もし、その触る回数の差が年月(期間)に比例することが係数的に言えれば、”変色の程度が、根付の時代を語る”と言えることになります。

ピアノの鍵盤
(中央部の変色と、左右両端と黒鍵の間の部分の無変色分に注目)

 その使用の回数や頻度、時間、接触の密度、気候や各種条件によって変色の度合いは異なると思われますが、その係数が分かれば、当該象牙製品の経年を知ることができるかもしれません。すなわち、時代を知ることができるかもしれません。ただし、そのような経年変化は、まさに人工的に起こすことも可能ですので、例えば骨董業者が人工的な方法を用いて「経年変化」を演出するような欺瞞にも注意を払わなければなりません。




常識
  “象牙根付の背中の部分の色が濃いのは、謎だ。”
ホント
  象牙材の外皮の部分が残っていて、それが濃く染まったから


 古い象牙根付のなかは、夜叉染めによる一様な肌色ではなく、部分的にオレンジ色系統の更に濃い色に染まっているものをよく見かけます。これは、貿易が自由になって良質の象牙材を手に入れて、その中心部を贅沢に使用した明治時代の小ぶりの根付にはあまりみられません。このような濃い色は、根付の底面や背面、人物根付にたとえると背中の面に頻繁に見られます。このような、象牙根付のなかでの色の違いは、基本的には、象牙材の部位による染色の度合いの差によるものです。中村雅俊氏も同様に説明しています(後述)。

 また、この象牙根付の底面が濃いのは、”キャビネットに陳列して紫外線などの作用で正面に向いていた側が白く退色したため、退色しない部分の色が濃く残っているから”とする説があり、そのような象牙の退色現象は実際に確認されています。

 象牙材は中心から外に向かって様々な層があり、最後は象牙の原木に見られる外側の黒褐色の皮の部分になります。写真を見れば、構造上、なにか成分組成の異なる層によって構成されていることは理解できます。そして、その外側の部分で円周方向に濃く染まっている実例が多くあり、部位によって染まりやすさの違いがあることが分かります。(象牙の原木の写真は「根付彫刻のすすめ」(齋藤美州著)の32ページに掲載されています。)

 ちなみに、ウニコールの外皮の構造も同じで、最も外側にはガラス質の1〜10mmの厚さの特別な層があることが分かります。

象牙材の原木(生牙)
(層の構成は一様ではないことが分かる。中心部は白色できめが細かく、外皮の部分は目が粗いことが分かる。)
ウニコールの鏡蓋根付
(外皮と中身の層の違いが明瞭に分かる。外皮の部分はガラス質の層があることが分かる。)

正守 蝦蟇仙人
(典型的な三角根付で、底面を見ると下の曲線部分が外周であることが分かる。)
正吉 猿回し
(人物の顔は象牙の中心部、背中は濃く染まる外皮側に向けた構図であることが分かる。)

象牙の鏡蓋根付
(外周の目の粗い部分が外皮に近い部分であり、そこが濃く染まっていることが分かる。)
吉友 蝦蟇仙人

  
奉真 蛤根付   岡信 蛤根付

 根付師が象牙根付を製作する際には、この染まり具合の差を熟知していたようです。江戸時代当時の象牙材は高価でした。また、唐方(アジア象)と呼ばれる象牙の特徴は、アフリカ象のそれと比較して皮が厚いことだと言われています。よって、材料を無駄にすることなく、外皮の部分を少しでも残しながら象牙材を大きく面取りをして使用する必要がありました。このような場合に染色において外皮が濃く染まったのです。

 象牙の外側は濃く染まりやすい特徴があり、象牙の中心部分は目が細かく質のよい部分で人物の顔の表情を彫刻するのに向いています。根付師がこのような特徴を理解していたからこそ、人物根付の傾向として、色の濃い部分は決まって人物の底面か背中の部分に来て、人物の顔は決まって象牙の中心側に彫られています。

 なお、この外皮が濃く染まるかどうかについてですが、外皮が既に除去されていて表面がつるつるに磨かれている観賞用の象牙(法律上は原木(生牙)と区別されていて“磨牙”と呼ばれます。)を用いて実証実験する場合は、意味がありませんので注意が必要です。



 この象牙の構造や外皮の染まり具合については、最後の現代根付師と呼ばれた中村雅俊氏の図入りの説明(”The Art of Netsuke Carving. Masatoshi as Told to Raymond Bushell”、p.33-35より)が非常に参考になりますので、以下に抜粋した訳(一部意訳)を引用します。

 ”象牙は私の好きな材料だ。象牙の材料を選ぶときは、ピンクがかったものやクリーム色のもので、目の細かくつまった縞模様、湿って油質(oily)、深い光沢、鮮やかなきめのあるものを選ぶようにしている。象牙材を買うときは丸ごと一本を買うことはしない。象牙の先端の部分(Tip marusaki)とその次の部分(second quater marumuku)の部分だけを買うようにしている。象牙の層は、4つに分かれている。外皮の皮、外皮の層、中心部と外皮の中間部分、そして中心部だ。”

 ”私は唐方の象牙材を1979年にビルマから購入したことがある。それは、ピンクがかった色で、光沢があり、縞目もほとんど見えない良質なものだった。ビルマの象牙材と同レベルの優れたものとして、”アフリカの唐方”もよい品質で、作品に使ったことがある。”

 ”昔の根付師は、象牙の外周の部分の暗い色合いを有効に使用した。立った人物を彫刻するときは、外皮の部分に背中を置き、顔と腕の部分が中心部の方に来るように彫刻した。外皮の部分は小さな穴が多数あいていて、染色や燻しによって、色をよく吸い、暗く染まる。象牙の中心部も中間部と比較して色によく染まるが、外皮ほどではない。”



 余談ですが、明らかに象牙の中心部なのに、部分的に濃く染まっている作品例がいくつかあります。これは根付師が意図的に濃く染めたのか、それとも、製作時にたまたま濃く染まってしまったのか(例えば、染める容器の底に不用意に寝かせてしまった、彫刻をするときに万力でその部分を強く締め上げて固定してしまった等)、はたまた、象牙の外周と同じように中心部であっても染まりやすい部分があるのか(雅俊の説明参照)は、まだよく分かっていません。今後の研究課題だと思われます。

吉長 猿回し 奉真 蛤根付




常識
  “18世紀と称している大きな象牙根付は、明治時代の外人向けの輸出ものだ”
ホント
  明治時代の外国向けの作品もあるが、18世紀以前の古いものもある。


 「江戸時代の象牙材は貴重でほとんど輸入されていなかった」ことは事実ですが、この事実をもって「江戸時代には大振りの象牙根付はあり得ない」と断定することはできません。

 象牙自体は、正倉院宝物に象牙製の撥鏤(ばちる)が収蔵されているとおり、古くから日本に輸入されていました。江戸時代においても長崎出島で輸入した記録は残されていて、鎖国下においても日本は消費国でした。貴重で高価だったとはいえ、大名・商人向けの根付の需要は確かにあったことから、対価を支払うことによって根付師達は入手する機会が確実にありました。

 大型の象牙根付のなかには、時代や作風が若く、明治時代の輸出ものと思われるものもありますが、だからといって大型の象牙根付が全て否定されるものではありません。日本の根付愛好家のなかには、明確な根拠なしに外国人所有の作品を「輸出品」と決めつける人が多いですが、何か外国人に対する他意を含んだものとしか受け止められません。客観的に証明されていない命題について、本歌の可能性のある作品群を軽々に贋作と決めつけることほど害のあるものはないと思います。

 また、象牙及び木刻を問わず、装身具として大ぶりの根付を否定する説もあります。しかし、実際には大ぶり根付が多数残されていますので、それらが本歌ではないと証明されない限りは、その説に説得力はありません。参考として、大ぶりの根付を例示するとすると、東京国立博物館の郷コレクション(10cmを超える吉村周山の蝦 蟇仙人根付、9cmの為隆の龍仙人根付、10cmの其水の幽霊根付、直径8cmの楽民の十六羅漢図の象牙饅頭根付)が挙げられます。

 おそらく、明治時代の日本人も、根付の価値についてろくろく真剣に論じることもなく、”輸出用”だとか”外人好み”、”装飾品”、”工芸品”、”非実用品”とひとくくりに蔑み、それが原因で、良質な作品を樽詰めで海外に大量放出してしまったのでしょう。歴史は繰り返します。

(最近の議論のしかたとして多いのは、たったひとつの資料を基に、妄想の議論を展開する方法です。例えば、18世紀の根付師と同じ名前が”19世紀の根付師”として文献に掲載されていたからといって、それが真実とは限りません。文献が間違えているおそれがあります。たったひとつの根拠を見つけたからといって、鬼の首を取ったかの議論は、あまり説得力がありません。多角的、客観的な判断をしてこそ、信頼される説明として他人に受け入れるのだと思います。)



常識
  “象牙根付の慣れ(ナレ)は、全て実用されたことによるものだ”
ホント
  最初から目的を持って根付師が擦ったものもある。


 象牙根付の慣れは、実際の使用によって擦られてツルツルになったものと、根付師が根付を製作する際に表現方法の一つとしてツルツルに磨く場合があります。よって、根付の慣れは全てが経年変化と断定はできませんし、また同時に、全て根付師や骨董業者が作為的につけたものと断定もできません。

無銘 老子
(背中の部分がツルツルに慣れている。
使用によって慣れたものと推測。)
無銘 菊慈童
(背中の部分がツルツルに慣れている。
使用によって慣れたものと推測。)
無銘 台上の唐子
(顔の部分が慣れている。
使用によって慣れたものと推測。)

 例えば、京都スクールの吉長が衣装の部分をあえて濃密な模様で埋め尽くすことで、「衣装や小道具の部分を弱め、顔の豊かな表情と手足の動きを引き立てる」ことに成功しているように、岡友派も同じ効果を狙っています。動物の顔の輪郭、目の周り、口の周り、角、手脚の先などを、あえて色艶のある象牙の磨いた表面を残すことで、遠くからでもそれとわかる根付表現を追求しています。
岡友 臥牛
(目の周りの部分など磨かれて慣れのような表現)

 これは一つの推測ですが、京都スクールの毛彫りをみる際は、この意図的に施された慣れの部分を詳細に観察すると、よい情報が得られることがあります。

 中村雅俊が本の中で示しているように、象牙の中には、よい象牙と悪い象牙があります。また、同じ一本の象牙の中でも、部位によってよい部分(高価)と悪い部分(安価)があります。よって、象牙根付において、全身を毛彫りで埋めることがなく、岡友派のように磨いた面を一部残しているのは、高価な象牙材を使用している証拠として、意図的に残しているためと考えられます。事実、岡友派の磨いた象牙の表面は、非常に艶やかで綺麗です。ウニコールを使用した根付の一部分に、左巻きのウニコール独特のひだを意図的に残して彫刻するのと同じです。

 材料として象牙を使用するメリットは、その色艶です。中村雅俊が述べているように、根付師ならばコストをかけてでも、よい材料を得ようとしました。江戸時代の根付師が注文によって装飾品としての綺麗な作品を作ろうとした場合、よい部位を使用して、その証拠としてよい色艶の部分を垣間見せていた可能性があります。

 結論として、よい慣れの表現が施してある根付は、注文に基づいて高価な材料を用いることのできた根付師の上作品の可能性があると推定することが可能です。象牙の質を見極めましょう。逆に言えば、全身が毛彫りで覆われている根付は、象牙の質をお客に垣間見せたくない必要に迫られて、そのようにした可能性があります。事実、岡友派の根付のなかでも、岡友の弟子筋の作品には、全身が毛彫り状態であまり色艶の感じられないものが散見されます。




常識
  ”象牙根付の経年変化ではその製作年代の推定はできない”
ホント
  できる場合もある。


 象牙根付の時代の古さは、その経年変化をみることによって推定できる場合があります

 この経年変化とは、自然による経年変化使用による経年変化の両方を含みます。象牙のひび割れ、使用による表面の摩耗、使用によるランダムな痕(きず)、紐通し穴周辺の使用跡、素材や染めの乾燥の度合い、目などに象眼した素材の割れ、積年の堆積した埃(ほこり)、付着した使用者の着物の糸くず等を指します。

 このような経年変化だけで時代性を全て判断できるものではありませんが、推定するための判断材料にはなります。また、先に述べたように、所有者の長年の使用により根付の肌色の色艶が変化する可能性がありますので、これも推定材料にすることが可能です。

 積年の堆積した埃により年代を推定できた例があります。

 京都・吉長派の吉正(よしまさ)ですが、彼は吉長の弟子であったことから18世紀後期〜19世紀初頭が製作期と推定できます。彼の東方朔仙人ですが、この根付の購入時には、顔の部分に褐色の埃のようなものが乾燥して、濃く、薄く堆積していました。購入後、少し湿った布で汚れを1〜2回ぬぐうと簡単に取れてしまいました。埃の成分は家庭にある繊維質の混じった埃ではなく、何か細かい粒子が積年の堆積によってできたもののようでした。古寺の仏像や柱に堆積している埃のようなものです。私の経験から言えば、この種の汚れは明治時代の根付ではあまり見たことがなく、明治時代よりもさらに100年古い18世紀以前の根付の多く見られるものです。

 ちなみに、私は京都・吉長派の特徴は豊かな顔の表現にあると考えていますので、汚れたものに対しては積極的にクリーニングをすることがあります。(クリーニングの方法は、「根付の題材」(里文出版)に掲載されているロベール・フレッシェル氏の手入れ方法の説明が参考になります。)

吉正
(現在の写真(左)と購入当時の写真(左)) 



常識
  “経年変化のひび割れで時代が分かる”
ホント
  製作時に既にひび割れていたひびもあるし、経年変化によるものもある。


 象牙根付には、ほとんど多少なりともひび割れが入っています。このひび割れは、根付師が根付を製作したときに既に材料にひび割れが生じていたものと、根付を製作後に経年変化として生じたものの2種類があります。後者の経年変化は、主に急激な気温の変化によるものや乾燥によるものが原因ではないかと考えられています。

 象牙根付のひび割れは、全てが時代の古さを示すひび割れとは断言できませんが、経年変化によるものもあります。どれが経年変化によるひび割れであるかを見抜くことができれば、時代の古さを証明する鍵となります

 まず、製作当時のひび割れの実例ですが。製作者がひび割れを意識して、デザインのなかに取り込んでいる例があります。これは製作当時からひび割れがあったことを示すよい実例です。また、製作当時にひび割れがあったということは、染色の工程でひび割れの中も染色と同じ色で染まっていることになります。

無銘 獅子(印紐)
(製作時に既にひび割れていて、そのひび割れが一様に染色時に染まったことを示す好例。体の他の部分の色とひび割れの色が一致している。)
吉長 猿回し
(製作時に既にひび割れていて、
根付師がそれを踏まえて彫刻)
正守 蝦蟇仙人

 一方、経年変化によるひび割れは、製作当時のようなひび割れの特徴はありません。

 ある知り合いのコレクターの方が所有している本歌の現代根付をみたことがありますが、予想もしない場所に突然ひび割れが生じていて、ひび割れの色は透明に近い無色(材料の色そのもの)でした。ひび割れの色は、ちょうどガラス窓にひびが入ったのと同じです。これに近い状態のひび割れも、写真のようにウニコール実験の後に生じて再現できています。

 経年変化によるひび割れの特徴は、ふたつあります。ひとつは、製作者があらかじめひび割れを意識してデザインのなかに取り込んでおらず、予想もしない場所に出てくること。ふたつめは、ひび割れの色は、染色の工程を経ていないわけですから、他の部分の染色と同じ色ではないことです。長い年月の使用を経た経年変化のひび割れの色は、使用者の垢や埃がひびの中に入り込んだことによるものでしょうか、一般的に褐色や黒色が多いようです。(ただし、染色過程で夜叉染め以外に黒色の染料を用いていた場合や製作時に既に大きなひび割れとなっていて、後に埃が堆積する場合も想定されますので一概には断定できません。) 

 写真のように、ひとつの根付のなかに複数の種類のひび割れをあわせもつ実例があります。このような実例を観察すれば、ひび割れの種類を特定することができることとなり、ひび割れの状態によって根付の製作時期を推定することが可能な場合があります。

染色実験に用いたウニコール
(染色後に小さなクラックが生じている。
ひび割れの色自体は無色)
無銘 巻物の上で眠る寒山
(古い時代の根付で使用の跡が見られるが、ひび割れの状況もそれを示している。)




常識
  “『根付の研究』で書いている象牙材の「唐方」は、全て中国由来だ”
ホント
  貿易船はアフリカ周りでも来航していたので、アフリカ産の可能性もある。


 上田令吉は著書のなかで「懐玉齋は、質が緻密で美しい唐方(とうかた)を使用した」旨を記述しています。

 当時の日本が輸入していた象牙材は、唐船とよばれた中国船だけで運ばれたものではありません。当時のオランダとの貿易ルートを調べてみれば、アフリカ経由がルートであったことが分かっていますので、懐玉齋が使用した象牙はアフリカ産の可能性もあります。

 象牙材の運搬には船の場所をとりませんし、腐敗しないものです。船底に転がしておけば距離は無関係にアフリカからも運搬可能だと考えられます。広いアフリカ大陸でオランダ人が捕獲しにくいアフリカ象を捕らえられるか?との疑問があるかもしれませんが、なにもオランダ人が自ら内陸に入ってわざわざ狩猟をするわけではなく、船が沿岸に立ち寄ったときにアフリカの内陸ルートで運ばれていたものを購入して積んだものと思われます。アフリカ象は、幕末頃はアフリカ全土に生息していて、南アフリカのケープタウン南部まで分布していたようですので、入手のしやすさはアジア象と比較して、ことさら困難であるとは断定できません。むしろ、当時はヨーロッパでも象牙材は大量に消費されていて、その原産地はアフリカでした。当時のヨーロッパ人が内陸の現地部族との間で交易ルートを既に開拓していたならば、アフリカ象の牙が貿易船に乗って日本まで運ばれて来ることは容易に想像できます。

 また、なぜ近くのアジアから輸入しなかったかとの疑問があるかもしれませんが、オランダ人もアフリカ人も日本人も、それが商売になる重要な貿易産品だと思えば、アフリカから日本まで運ばれていたことはありえます。すなわち、象牙材は個体差が大きいのですから、あちらのアジア象の牙よりもこちらのアフリカ象の象牙材が上質だ、と懐玉齋が判断していたならば、遠くから運搬することによって船賃が多少多くかかったとしても、懐玉齋クラスならば余分なコストをかけてでもそれを入手したでしょう。実際、中村雅俊も”ビルマの象牙材と同レベルの優れたものとして、”アフリカの唐方”もよい品質で、作品に使ったことがある。”と述べています。

 唐方については、以前、象牙商のお店に遊びに行って、事細かにお聞きして調べたことがあります。唐方は、一般的に、タイ・ミャンマー産などの東南アジア産の象牙のことを指していると思われていますが、東南アジア産はアフリカ産とは性質が大きく異なり、皮は厚く白色かうす茶色。材質はソフトで光沢は出にくいのが一般的なのだそうです。一方、アフリカ産は、皮は薄く茶・黒、ハードで光沢が出やすいとのこと。実際の象牙材をもとに見分け方を教わりました。ただ、産地は同じであっても良い悪いの個体差は大きかったようで、根付師によって見分けるポイントがそれぞれあったようです。いずれにしても、産地や個体差によって、根付師にとって上質なものとそうでないもののの差があったことは事実で、力のある売れ筋の根付師は当時、産地を問わず良質な材料を手に入れていたと思われます。よって、唐方(とうかた)なる呼称の象牙材はあったと思いますが、上田令吉がどのような根拠をもって唐方のことをそのように書いているのか調べてみる必要があります。

 それでは、なぜ、上田令吉が上質な象牙材を”唐方”と呼称したかについてですが、当時は外国の産品で上質なものは一般的に”唐方”と呼称していて、象牙材も産地を問わず上質なものをアジア産・アフリカ産を問わず”唐方”と表記した可能性があります。もし上田令吉が”清方”と表記したならば、由来が生々しく、懐玉齋使用の材料は唐船で運ばれてきたのだろうと理解できますが、唐方の” 唐”という国は、幕末当時は存在しません。これは、漢方と言いながら、現在では中国以外のインド発祥などの広い範囲の伝承医薬を含んで指しているのと同じですね。オランダ産の金唐革(きんからかわ)を金” 唐”革と呼称するのも一緒です。



※今後内容を更新する場合があります。

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