最初に戻る


第4回 七十年目の里帰り =商品タグを手がかりに=
平成15年3月3日



 根付というものはわずか数センチ立法に収まる小さな美術品です。根付が誰によって作られ、その後どのような持ち主の変遷をたどってきたのかについて分かることは滅多にありません。美術品のなかでは、作品に付随する情報が最も少ない部類に入ると思います。

 有名な作者の高額根付であれば、過去のオークションで一体誰が落札して、その後誰の手に渡っていったかに関する記録が残されている場合があります。サザビーズといったオークションカタログには、そのような説明が書かれてあることが時々あります。また、大英美術館が所蔵する根付コレクションには、それぞれ寄贈者が誰であるか分かるようになっています。しかし、その他の大部分の根付は自ら語りません。想像は幾らでもできますが、真実は分かりません。困ったものです。

 ここに、私が以前日本人から入手した面白い根付達があります。玉珪の木刻石持、舟民の櫻彫神主、光正の鯛車で遊ぶ童子、正一の象牙彫の玉獅子の4点です。入手したときは、なにやら古びた商品札(タグ)が紐で付けられていました。
今回のコラムでは、このタグを手がかりにして、これらの根付達が辿った運命を調査したいと思います。


          (左から)              
          玉珪   石持ち   3.5cm    1800年頃 江戸
          舟民   神主   4.0cm  1800年頃 江戸  櫻刻
          光正   鯛車で遊ぶ童   3.5cm  明治・大正時代   東京
          正一   玉獅子   3.4cm  19世紀中期 大阪
         



根付に付いていた商品タグ

  写真のとおり、タグには表側に商品番号と「MADE IN JAPAN」の文字があり、下には店の名前らしき文字が「From HARISHIN KOBE」と印刷されています。どうやら根付達は神戸のお店で買われたものらしいです。商品番号は手書きです。番号はそれぞれ、「50」、「51」、「20」、「42」となっています。

  タグの裏側には、根付の解説が手書きで記してあります。根付師の名前もアルファベットで書かれています。光正の場合、「Netsuke Ivory boy with toy by artist Mitsumasa」と記してあります。この手書きは、商品番号を記したものと同じペンで書かれています。よって、この解説は店の人が商品番号を記したと同時に商品説明に書いたものだと推測されます。

  タグの紙質は、かなり古いものです。乾燥しきっていて、折り曲げるとボロボロになりそうです。ところどころシミのような斑点もあります。紙質から推測して戦前のものではないか、と思いました。タグには根付を傷つけないように木綿の糸が付けられ、根付の紐通し穴に結わえてありました。

根付についていた商品タグ(表) 根付についていた商品タグ(裏)



ハリシン???

  このタグの正体は何でしょう。古い時代のものであることは分かりますが、一体いつ頃なのでしょうか。このハリシンとはどんな店なのでしょうか。誰がこの根付を購入したのでしょうか。根付を手に入れたときから、次々と疑問が湧いていました。

  まず、"KOBE"いう手がかりにインターネット検索をしたところ、兵庫県の神戸に
「播新(はりしん)」という古美術商が実際に存在することが判明しました。しかも、今でも営業しているらしいです。さっそく電話を入れて店の人にタグについて聞いてみました。しかし、これらの根付の入手経緯とタグの形状を説明して聞いたところ、


  "戦前のものは戦災で全て焼けてしまった。資料が残っていないので、いつ頃のものか分からない。"


とのことです。太平洋戦争の空襲によって神戸の商店街全域は、ほぼ完全に焼失してしまったそうです。手がかりはありませんでした。

  しかし、電話口ながらご年輩と思われる店の方が、"そのようなタグは見たことがない"と言うからには、逆に、これはかなり古いものだという確信が持てました。しかも、アルファベットで表記がされているということは、外国人相手に商売をしていた時期のものであるという証拠です。そのような時期は、もちろん現代ではありません。戦後の進駐軍全盛の時代か、または戦前に外国人が港に多く立ち寄ったレトロな神戸の時代のどちらかのはずです。時期は、なんとか特定できそうです。

  インターネットを使って播新について更に詳しく調べました。

 播新は明治14年8月に神戸の地で創業し、神戸にあった外国人居留地の外人に日本美術を紹介する商いを行ってきたそうです。とても歴史のある古美術商です。今でも、創業以来の四代目のご主人が、神戸元町の商店街で陶磁器や書画を中心に幅広く新古美術を扱っています。

  播新は昔、神戸港へ入ってくる外国船へ骨董を積極的に売りに行くこともしていました。当時の居留地にはオリエンタルホテルという明治以来の古いホテルがありました。居留地に住んでいたドイツ人が創業者だそうです。播新は、そちらのホテルにも出張して、観光に来ていた外国人に骨董を売りに行っていたこともあったようです。そのため店には、ポルトガル語、英語、オランダ語を喋る人もいた、という話があるそうです。先のタグ裏の説明書きが店の人によって書かれた、という推測に間違いがなければ、これは播新に外国語が堪能な店員が居た事実にぴったりと符合します。



入手の経緯


  これらの根付は、日本の知人を介して米国人がコレクトしていたものから譲り受けました。次の手がかりとして、その人に依頼して、前のコレクターに関して色々と調べてもらうことにしました。幸運なことに、調査の返事は1週間後に返ってきました。結果はとても興味深いものです。

  まず、前のコレクターは、テキサス州のヒューストンに在住していて、日本の根付や刀の鍔の蒐集家だったそうです。名前は分かりません。

  その人は太平洋戦争前の
1920年代から1930年代初頭(大正末期から昭和初期)にかけて来日し、米国の軍人として日本に駐在しました。根付はその期間に蒐集したものだそうです。当時、彼は実際に何度か神戸に行き、観光をしたそうです。観光の際には、彼の奥さんのコレクションのため、日本の美術品を買い集めたそうです。彼らが買い集めたコレクションは、最終的に200点以上になったそうです。実は、その人は数年前に95才で亡くなり、そのコレクションが放出されました。これらの根付はその一部でした。

  当時の購入価格を知りたいと思いましたが、目録などの資料は残っていなかったそうです。来日時の年齢から逆算して、20歳代に購入しているので、あまり高価な美術品は買えない経済状況にあったと推測できます。タグの商品番号には連番があるので、おそらくまとめ買いをしたのでしょう。つまり、当時の根付は、若者がまとめ買いできる程度に安かったのだと思います。

  普通であれば、商品タグは購入後に捨ててしまいます。なぜ彼の場合はタグは大切に保存していたのでしょうか。日本滞在中の良き思い出として残しておいたのか、骨董の由来を記録するため保存しておいたのか。それとも、購入してからそのまま箱の中に放ってあったため偶然タグが残っていたのか。手がかりはありませんが、その理由を想像するのは面白いことです。


戦前の外国人居留地と思われる写真
建物の上には「HIOGO HOTEL」
という文字が読める。
1905年頃の神戸の写真
神戸の元町通りと思われる通りに15人くらいの
外国人が写っている。看板には「キリンビール」、
「たばこ」という文字が読める。


  コレクターに関するこの調査報告から、このタグは神戸に今も店を構える播新(はりしん)のタグに間違いないと確信しました。  タグの保存状態から推測して、これらの根付は70年前に日本から米国に渡り、長い間同じ一家によって大切に所有され、最近になって再度海を渡ってきたものと思われます。他人の手に渡って散逸することなく、同じ人が所有していました。



神戸への取材旅行

 それでは、どのような店で根付達が買われていったのでしょうか。当時の根付売買の状況はどのようなものだったのでしょうか。電話では埒があきません。タグについての謎を探るべく、私は神戸への取材旅行に出かけてきました。播新に直接電話を入れ、”根付とタグを持っていくので見て欲しい”とアポイントを入れて行きました。

  播新は、兵庫県の神戸市中央区にあります。

  古くからの店舗が建ち並ぶ元町商店街にあります。神戸の山と海のちょうど中間に位置して、東西1.2キロにわたる元町商店街は、もともと西国街道沿いにあった神戸・二つ茶屋・走水の3村の道筋に生まれたそうです。その東側に外国人居留地ができると、明治3年には初めての写真館が開業し、明治6年には牛肉屋が開業しました。元町は神戸の商業、ファッション、グルメ、文化の中心街であり、外国人居留地や港町という環境と相まってとてもハイカラな街だったようです。現在でもその雰囲気は多分に漂わせています。雑然とした東京の渋谷原宿と異なります。とても余裕があって雰囲気の素敵な街です。そんな中で播新は、120年近い営業を続けてきました。

元町の商店街 播新の店神戸市中央区元町通3-10-3



  播新の店の人によると、戦前は、外国語が分かる播新の店員が神戸のオリエンタルホテルに駐在していたそうです。外国から船が神戸港に入ってくると、外国からのお客を播新の店舗まで連れてくる役目だったそうです。今の店舗の場所は、明治20年に神戸小学校の分校があった土地に店を構えたもので、根付が買われた1920年代には既にこの同じ場所に店があったそうです。当時の店舗は、木造3階建で大きな店でした。店には「ここは根付の部屋」、「ここは書画骨董の部屋」というように、商品毎に部屋が分かれていたそうです。


現在の店の内部


  残念ながら、今の店ではあまり根付は扱っていないそうです。つい前までは、硝子ショーケース一個分の根付コーナーが店内に設けられていたそうです。昔は、あのレイモンド・ブッシェルも、弁護士になった後ですが、根付を求めに播新にちょくちょく来ていたそうです。ブッシェルの著書「Wonderful World of Netsuke」には、播新の木刻無銘の羊根付が紹介されています(Plate No.81)。そんな経緯もあってブッシェルからサイン入りの本が贈呈されたそうで、その本を見せてもらいました。ちなみに、当時のブッシェルは比較的新しく細かい彫刻の根付よりも、彫りが荒くても古い手のものを好んで探していたとのことです。


(余談)
この播新については、明治末期に日本に滞在した英国の富豪・ゴードン・スミス氏の滞在日記の中にも記されている。神戸に滞在していた1904年2月の日記の中に、”ハリシン”の店に行って猩々について質問したり、”ハリシン”に根付探索の依頼をしていたという記述がある。また、氏は根付蒐集にも興味があったらしく、三輪の根付を手に入れた様子も日記に記されている。 (「ゴードン・スミスのニッポン仰天日記」(小学館、1993年)より)






70年目の里帰り


  さっそく、根付とタグを見て頂きました。

  やはり播新のタグで間違いがなさそうです。戦前のとても面白い物だそうです。神戸の地で、70年前に根付を購入することができて、かつ、「ハリシン」と名前の付く店は、この新古美術商・播新しか考えられません。

  ということで、この根付達は、大正末期・昭和初期に米国人によってこの店で買われ、船で海を渡って長い間愛蔵された後、こうして再び海を渡って別のコレクターの手に収まり、同じ店に戻ってきたわけです。70年目の里帰りが実現しました。

 根付達にとっては、再び日本に戻れて幸せだろうと思います。また、それ以上に、自分達が売られた店に無事帰還できたことは、更に幸福なことだろうと思います。なにせ、世界に散逸した仲間には、日本の地に二度と帰ることすらできないまま、滅失した根付が数多くあることでしょうから。


    
1920〜30年頃、神戸・播新で米国人が妻のコレクションのため一括購入する
 
その後海を渡り、米国テキサス州のヒューストンで長い間愛蔵される。
 
最近、そのコレクターが95才で亡くなり私の手元に届けられる。タグが気になり調査を開始する。
 
2003年3月、根付達は売られた店に約70年ぶりの里帰りを果たす。
根付達の里帰り
70年ぶりに自分たちが買われた店に再び戻ってきた
根付達が辿った経路


  参考までに、播新の現在の商品説明の札を写真に撮らせて頂きました。根付に付いていたものとは全く異なる日本語の商品札でした。商品の説明は手書きの墨で書かれていますが、日本語で「神戸 播新」と厚紙に印刷されています。70年前に「From HARISHIN KOBE」と札を付けていた名残が今でも微かに残っているようです。"神戸"という地名は、昔も今も魅力あるブランドを形成する大切な要素なのでしょう。


現在の播新の商品札(タグ) 70年前の商品札


   70年前のタグで興味深いのは、中央に大きなポイントで「MADE IN JAPAN」と印刷されていることです。今のタグには印刷されていません。
  戦前の日本製品は、安かろう悪かろうで粗悪品の代名詞であったと言われています。できることなら、原産地名は隠しておきたいはずです。しかし、当時の播新のタグには、堂々と中央部に大文字で「MADE IN JAPAN」が印刷されています。意図的に強調しているようで、とても目を惹きつけます。これはどうしたことでしょうか。考えられるのは、当時は、日本の美術品に関しては「MADE IN JAPAN」と名乗っても問題ないほどに評価が高く、魅力と質が十分に備わっていたのだと思います。他の工業製品とは異なる日本美術を堂々と海外に紹介していきたい、そんな心意気が当時の御主人にはあったのかもしれません。

  残念ながら、これらの根付達が70年前にどのように播新に仕入られたか、その経緯は全くの闇の中です。資料は戦災で焼けてしまいました。仮に資料が残っていたとしても、それ以上の経路はさかのぼれないでしょう。というのは、骨董を業として扱う以上、売り手と買い手の間のプライバシーは、極端に保護されるべき対象だからです。信用第一を旨とする歴史のある播新が、ここで売り手の情報を明らかにしてくれるとは思えません。



当時の根付流出
 
 1920〜30年代は、日本から海外への根付流出がまだ続いていた時代だと思われます。

 その頃の日本では、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、28年(昭和3年)には張作霖爆殺事件、30年(昭和4年)には昭和恐慌を迎えました。その後、31年(昭和5年)に満州事変、32年(昭和6年)に五・一五事件、翌年には国際連盟を脱退し、あの戦争への道に突入していく契機となりました。タグのついた根付達は、そんな時代に外国に買われていったのです。昔は数多くの良質な根付が海外に流出しました。

 
郷誠之助氏がグレードの高い根付の保存のためにコレクションを形成し始めたのも、同じ1920年代だそうです。氏の息子がアメリカ留学中(1915−1922)にボストン美術館に美術品として所蔵されている根付を発見し、氏に知らせたのがコレクションの発端だそうです。(荒川浩和編「根付 たくみとしゃれ」、p.54) このコレクションは、後に有名な東京国立博物館の所蔵となります。氏は遺言の中で、「根付は日本独自の工芸品であり、海外への散逸を止めなければならないもの」と位置づけています。

  また、三菱財閥の祖、
岩崎彌之助氏は、西欧文化偏重の世相の中で軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れたことにより、1892年(明治25年)頃から本格的に古美術品の収集を開始しました。東京・世田谷の静嘉堂文庫美術館には、岩崎彌之助・小彌太が収集した印籠・根付が数多く収蔵されています。

  このように明治20年から30年以降になって、日本の一部の財閥などが事の重大性に気がついて、日本美術の流出をとめようと必死にコレクションを始めます。しかし、日本に留めることができたのは、ほんの一部の美術品だったのでしょう。良質な根付の多くは海外に流出してしまっているのが現実であり、現に米国の若い軍人が根付をまとめ買いをして持って帰りました。日本人に評価されない根付が、正当な評価をする外国人に買われていく。日本には一部の根付だけが財閥の努力により残された。事実はそういうことだったのです。

  タグの連番から推測して、その米国人は一度に多くの根付を購入しています。単価がとても安かったのだと思います。もし、それらが現代のように高騰した根付の価格だったとしたら、若い軍人にはとても手が出なかったことでしょう。明治時代には、樽に根付を詰めて大量に輸出したと聞きます。ひとつひとつ吟味する労力も惜しいほどに、樽単位で、恐ろしいほどに安く取り引きされたのです。

  その状況として
、佐々木忠次郎の著書「日本の根付」(昭和10年)は、

「明治初年以来我國と外國との交通頻繁なるに従ひ本邦固有の根付は其の作の優雅なると小型彫刻物の精巧なると且外國にては斯くの如き小型彫刻物は容易に得難きが故に外人の注目する虜となり、従つてこれを嗜好する者輩出し、従て之を蒐集するの観念を抱ける者続出し一度び日本に来遊する者は必ず多く根付を携へ帰りて日本記念の一飾品となり、之を珍重し或は客間の飾品となし尊重するの傾向をなすに至り、、、」

と記しています。また、上田令吉は「根附の研究」(昭和18年)の中で、

「極最近に於いても外人の一観光團だけで、五百個、千個の根付を買ひ求めて持ち帰ったという事実談は、往々聞くところである」

と書いています。 さらに、ドイツ人の
アルベルト・ブロックハウスは著書「NETSUKE」(明治38年)の中で、

「パリの日本美術のディーラーであるPhilip Sichelという人物が、日本の美術品のすべてを買い上げる目的で1874年(明治7年)に日本中を旅して、5000個以上の非常に面白いコレクションを集めることに成功した。」

と書いています。これらと同じような状況が1920年代の神戸にもあったのだと思います。

   美術品は財閥といった裕福な者達だけの専有物ではありません。一般庶民が買える値段であったのに、当時の庶民はその民芸品を評価せず手を出さなかった。きちんと評価をした庶民レベルのふつうの外国人観光客が盛んに買っていった。そんな時代だったのです。
(戦前の根付の値段に関しては、ブッシェルの「NETSUKE FAMILIAR AND UNFAMILIAR」にも詳細に書かれています。)




続けられるべき根付研究

  当時の根付の流出状況を考えれば、美術品は正当に評価されるべきで、美術品を正当に評価するためには、適切な研究作業による評価が欠かせないと感じます。

  上田令吉が名著「根附の研究」の前身となる「趣味の根附」を著したのは、昭和9年です。佐々木忠次郎が「日本の根付」を書いたのは昭和10年です。この2冊は今では権威ある根付研究書となっていますが、それ以前は日本人による本格的な研究書はほとんど皆無でした。これらの本が出版されて初めて、日本国内で本格的に根付が見直されるようになったと思われます。

  それまでの根付研究は、例えば、ブロックハウス(1905年(明治38年)に本を出版)やF・M・ジョナス(1928年(昭和3年)に本を出版)といった外国人によって主に行われました。上田令吉によれば、「趣味の根附」を執筆するに当たっては、ジョナスの指導を受けたと書いています(「趣味の根付」の巻頭言)。播新で根付を購入したこの米国軍人は、ひょっとしたらジョナスの著書を読んで根付のことを知っていたのかもしれません。

 研究リサーチは、労力と時間をとても要する作業です。根付に関しては、日本人よりも外国人が先に多くの汗をかきました。汗の結晶が根付研究書となり、その研究書を読んだ外国人が根付を評価し、購入する。根付が大量に流出した背景には、そんな因果関係があったのだと思います。現代においても根付研究は一部の専門家によって細々と続けられています。しかし、彼らには、十分な支援とリソースは与えられていません。我々は、戦前の出来事を教訓にできるのでしょうか。

  ひとつ興味深い資料があります。根付に関する文献のリストを集めた「The Ultimate Netsuke Bibliography. An Annotated Guide to Miniature Japanese Carvings」という本をNorman L.Sandfieldという人が書いています。根付に関する研究書やオークションカタログなど、ほぼ全ての書籍が網羅されて整理されています。本の中には年代毎に根付に関して出版された文献数を調べた表が載っています。これによると、根付に関する文献は、1990年代を境に確実に減少傾向にあります。根付に関するオークションも減少傾向にあります。もし、美術品の評価は、文献などの研究に支えられて循環的に行われているという仮説が正しいとすれば、日本の根付は、正当な評価を受ける機会は減少しつつあり、確実に衰退の道を歩んでいると言っても過言ではありません。我々は何をすべきでしょうか。

年 代 出版された全文献数
(オークションカタログ、書籍、雑誌記事など)
     -1870 10 件
1870−1879
1880−1889 23
1890−1899 33
1900−1909 55
1910−1919 60
1920−1929 137
1930−1939 107
1940−1949 88
1950−1959 149
1960−1969 414
1970−1979 914
1980−1989 1211
1990−1999 1095
Norman L.Sandfield「The Ultimate Netsuke Bibliography」より引用



最後に

  そんなこんなで、この小さな商品タグを手がかりに色々なことを知ることができました。手のひらサイズの小さな美術品が、一体どのような経路をたどって来たのか。とても興味深いことでした。今回は、戦前の根付流出の状況も、その一端をおぼろげながら垣間見ることができた気がします。そんな時代に生きていて良質な根付にアクセスすることのできた人たちが、羨ましくも思います。

  この根付達は、いつかは私の手を離れて新しい持ち主の手に渡っていくことでしょう。100年後には朽ちて、破損してしまうかもしれません。その根付の価値を知らない者によって、偶然に捨てられてしまうかもしれません。いや、ひょっとしたら、お金持ちのコレクターの暗い貸金庫の中で永い眠りについてしまうかもしれませんし、有名美術館のショーケースに飾られるほどに大出世しているかもしれません。

 そんなことに想いを巡らせながら、夜な夜な掌の上で転がしています。ただし、この根付達に限っては、特別な紙片が付いているので少々転がしにくいのが難点ですが。



【播新に関する情報】(執筆当時)
 取扱品目   新古美術品、茶花道具、陶磁器蒔絵販売 
 住   所  神戸市中央区元町通3-10-3
 電話番号   078-331-2516
 FAX番号   078-331-2486
 営業時間   午前10時〜午後7時
 定  休  日   水曜日





最初に戻る