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第7回 友忠はなぜ牛を彫ったのか 〜臥牛根付の起源〜
平成15年3月26日

 

= 後 編 =




3.江戸時代の撫牛信仰

 臥牛根付の起源について説明をさらに展開する。

 友忠がこの臥牛像をもとにして臥牛根付を作製した、と説明できる証拠がある。
 北野天満宮に置かれている臥牛像は、例外なくツルツルと光っている。それは、参拝に来る人が、自分の体の悪い所と臥牛像の同じ所を撫でると病気が治る、という信仰があったからである。天満宮の参拝客がさかんに臥牛像を撫で回していたのを私は実際に目撃した。

 この信仰は
「撫牛(なでうし)信仰」と呼ばれる。

 この信仰は、既に江戸時代には土着の民間医療信仰として日本各地に広く存在し、手かざしなどによって病気治療を看板にする新興宗教とともに、病気平癒・健康長寿祈願の「願かけ」として撫牛は行われていた。このような撫牛像は、鳥取県の大山、福島県の岩角山、福島県柳津町などでも見ることができる。また、似たような信仰として、病気の者が自分の患部と同じ場所を撫でると病気が治ると信じられている木像も日本各地にある。この撫牛信仰は江戸時代に全国的に大流行したのである。


京都だけでなく江戸にも撫牛がいた

 この撫牛の信仰は、江戸にも存在していた。東京都の
牛嶋神社(墨田区向島1−4−5)には、この撫牛が名物として置かれている。私の行動範囲なので、さっそくこちらにも取材に出かけてきた。

 牛嶋神社は、浅草の浅草寺から隅田川を渡って5分の所にある。隅田川沿いの公園の一角にある。この辺り一帯は有名な江戸時代からの下町だ。
墨田区はあの遊女街・吉原が置かれていた台東区の隣に位置し、神社は吉原から徒歩20分の距離にある。牛嶋神社は付近一帯の総鎮守で、毎年9月には神輿を担ぐお祭りが行われている。ロケーションから判断して、神社は昔から付近の庶民から厚く信仰されてきたことが分かる。武家や公家の信仰のための神社ではない。一般庶民のための神社である。

 社伝では西暦860年の創建とされ、神社の名前は両国・向島の本所一帯が天武天皇の時代(701〜764年)に国営牧場が設けられ牛嶋といわれていたことに由来している。取材に行った当日は残念ながら雨模様であり、週末ながらも参拝客はポツリポツリと来ていた程度であった。境内はとても静かな雰囲気であった。

牛嶋神社(東京都墨田区) 牛嶋神社境内の撫牛像


 境内の一角に撫牛像が置かれている。像を覆うようにして雨よけの瓦屋根が立てられている。この撫牛は江戸時代の文政8年(1825年)に神社に奉納された。とても古い像である。撫牛信仰が京都だけではなく、江戸も含めて全国的に古くから広がっていたことを示している。この撫牛は当時、牛嶋の「牛いし」と呼ばれていて、江戸の名物として番付表に掲載されるほど有名であったらしい。(江戸末期の番付表”江都名産”(個人蔵)より)

 この撫牛には、
自分の身体の悪いところと同じ部位を撫でると病気が治る、という言い伝えがある。私が取材に出かけたときも、道すがらふらりと寄って撫牛を撫でていく御婦人にお会いした。注意して観察すると、この撫牛像は顔、頭、足、腰の部分が特にテカテカと光っている。江戸時代の古くから多くの人がこれらの部位の病気に悩まされてきただろうことが推測できる。また、子どもが生まれたときには、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するといういい伝えもある。北野天満宮では実際にそのような奉納されたよだれかけを数多く見かけた。同じようなものなのかもしれない。


撫牛像(正面) 撫牛像(うしろから) 撫牛像を撫でていく参拝者


 撫牛像をよく観察して欲しい。根付の臥牛と同じデザインなのである。出っ張りが少なく、両角は破損しにくいように折り曲げられている。背中から腰にかけてのラインは、どこかしら艶めかしい、なだらかなフォルムとなっている。尻尾の巻き方根付そっくりで、首が向けられた方向の後ろ足にへばりつくようにデザインされている。江戸時代の平均的な牛を模したように、体は大きくない。顔と体のプロポーションから想像して、体高は小さい。根付の臥牛との関連性を改めて実感せずにはいられなくなった取材であった。

 撫牛像の横には墨田区が設置している看板が立ててあった。参考までにその撫牛の説明を記しておく。



撫 牛

 撫で牛は仏寺の御賓頭廬様とおなじように、自分の体の悪い部分をなで、牛の同じ所をなでると病気がなおるという信仰で、体だけでなく心もなおる心身回癒の祈願物である。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するといういい伝えもある。
 この牛の像は、牛御前または牛島という神社の名称に由来して作られたもので、文政八年(一八二五)ごろ奉納されたといわれている。
 明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれているように、撫牛の信仰はかなり古くから知られている。
                         昭和45年11月3日 建設 墨田区



撫牛は置物土産になっていた

 天満宮や牛嶋神社に置かれている撫牛像は、大きな実物大の像である。しかしこの撫牛、実はわずか10センチ程度の小型の置物土産にもなっていた。江戸時代には、撫牛は神社に出向いて撫でる対象だけではなく、手元に置ける置物になっていたのである。

 江戸時代の風俗を知るのに欠かせない前田勇編の「江戸語の辞典」(講談社学術文庫)によると、
「撫牛」とは「素焼きの臥牛の置物。商家など、これを蒲団の上に据え常に撫で吉事を祈る。吉事ある毎に蒲団を重ねる。」と説明されている。江戸時代には、素焼きの撫牛の置物が一般庶民の間で信仰の対象として広く普及していたことが分かる。

 また、寛政年間(1789年〜)の
「客衆一華表」では「部屋で撫牛ばかりなでゝゐなさるそうで、手へなでだこができたというふこつた」と記述されている。ちょうど友忠が生きていた時代ではあるが、既に撫牛という置物があり、物好きは家内安全・商売繁盛・如意吉祥の吉事のために、手にタコができるほどにグリグリと撫でまわしていたらしいことが記録されている。

 さらに、江戸時代の吉原や祇園の遊女の茶屋には「縁起棚」と呼ばれる神棚が通常の神棚とは別に設置され、これには恵比須神、大黒などが置かれていたが、その傍らには紙張男根形や紙製小判百両包のほか、撫牛が置かれていたとの記録もある。(喜田川守貞著「守貞謾稿」巻之二十二)
 
 撫牛の置物は、京都や江戸だけではなく日本全国に普及していた。例えば、撫牛は会津の民芸品である赤ベコのモデルとなったとも言われている。赤ベコは、約四百年以前、会津鶴ヶ城主の蒲生氏郷が殖産振興を図るため、京都より各種の技術者を招いて作らせたものであると伝えられている。

 置物として作られた小型の撫牛像は、商家などに奉り、撫でれば家内安全・商売繁盛・如意吉祥の吉事があると言われ、古来から信仰の対象として崇拝されてきたのである。根付師達は当然、その撫牛のことを知っていたはずだ。置物の一つや二つは所有していてもおかしくはない。


伏見人形と撫牛

 話は、友忠の臥牛根付の起源は、北野天満宮の撫牛の土産であった、ということを説明しようとしている。まず、なぜ撫牛が北野天満宮で土産物になっていたかというと、そのような推測を可能とする証拠がある。

 京都は、遷都以来1200年を超える古都として、由緒ある神社や寺院が数多く存在していた。そのため、伝統の祭礼や行事に集う人でにぎわい、その人出をあてこんで、参道では行事に関連した玩具が売られてきた。特に、伏見稲荷大社の門前で発達した
伏見人形という郷土玩具は、日本全国に名前が知られている。

 この玩具は、江戸時代よりもはるか以前の時代に作り始められた。起源は奈良時代に土着した埴輪や土器作りの職人達という説がある。江戸時代の京都では、経済生活の安定や稲荷社信仰の発達から、伏見人形が伏見稲荷大社の参詣の土産品として量産され、伏見街道の参道で売られていたのである。日本全国の80カ所にも及ぶ様々な郷土人形の原型はこの伏見人形に由来し、日本最古の土人形であるといわれている。そのため後世、日本全国で伏見人形を模した郷土人形が作られた。実は、この伏見人形のなかには臥牛・撫牛の人形もあったのである。(伏見人形に関する情報はこちらが詳しい)

 塩見青嵐著
「伏見人形」(河原書店、昭42年)によると、延亨3年(1746年)の「開運撫牛縁起」という文献には、家の棚などに伏見人形の撫牛を置いて、日ごろ撫でさすると吉事が増えて家運が向上するということが書かれているという。

 塩見氏によると、撫牛には、黒色の臥牛の額に大黒天の像を彫ったもの、梅鉢紋を描いたもの、肩に宝珠を三個現したものなど、大小各種があったそうである。梅花紋のものは、梅がシンボルの北野天満宮のお使いとして
「お牛さん」と称し、庶民の崇敬をうけていた。また、大黒天の方は「開運撫牛縁起」の記述のとおり、これを祀れば福徳開運が授かるというありがたいものであった。このような撫牛が、江戸時代の1746年には既に売り出されていた。まさに友忠が生きた年代である。京都に住した友忠が、京都・伏見の撫牛人形を見ていたことは、これで確実となった。

 古い記録により、天和年間(1681年)には伏見人形を製造し、販売する店が沢山存在して、人形組合が結成されていたことがわかっている。伏見人形は、問屋を通じて各地方に届けられ繁盛した。記録では、岡山県の倉敷、広島県の尾道、徳島県の富岡などの土産問屋に卸されたそうである。また、大阪の今宮神社の十日戎や宝塚清荒神の縁日には、主として布袋の像が送られ販売されたそうである。

 伏見人形は伏見稲荷だけで販売されたものではなかったのである。江戸時代の幕藩体制下であっても、このように物品の流通性が相当程度確保されていたのであろうことが分かり、面白い。根付も京都・大阪と江戸の間で相当量やりとりがあったのであろう。ちなみに、当時は立派な人形が作られていたので、デザインを真似る者が多く、多くの偽作も出現したそうである。伏見人形には作者の銘や製造所の印が入れられた物があったが、それを偽造したのである。

 このように撫牛の置物は、神社や寺院の参道で信仰の対象として売られていた。
北野天満宮の梅花紋入りの撫牛の伏見人形が存在していたことに注目したい。それはどこで売られていたのであろうか。組合の問屋を通して、北野天満宮の近くや市中の土産物屋で売られていたのではないだろうか。


北野天満宮の撫牛土産

 実は面白いことに、
北野天満宮の社務所では現在でも「撫牛」や「神牛土鈴」を土産物として頒布している。しかも驚いたことに、その撫牛も京都スクールの臥牛根付とデザインや大きさが同じなのである。私は思わずその撫牛土産を買い求めてしまった。1体千円である。

 北野天満宮に置かれていた臥牛像も、神牛としての撫牛信仰の対象であり、江戸時代には盛んに人々から撫でられていた。ということは、伏見稲荷の伏見人形による撫牛以外の撫牛の土産が天満宮近くの土産物店で売られていた可能性がある。友忠はそれを見ていなかっただろうか。根付師として、自分もそのような土産を販売したい、という動機はなかっただろうか。

北野天満宮内の社務所
(授与品を売っているところ)
撫牛(千円)と神牛土鈴(千五百円)が
売られている
北野天満宮の絵”馬”には
黒い臥牛が描かれている


背中には伏見人形と同じく
梅鉢紋が刻まれている
撫牛の大きさは掌サイズで根付と同じ 岡言の臥牛根付




友忠の根付は"携帯型撫牛"

 ここで一つ面白い考え方ができる。

 置物の撫牛が存在したことは、既に述べた。普段であれば、撫牛の像を撫でさするためには北野天満宮の境内まで足を運ばなければならない。しかしそれはとても面倒だ。撫でさする回数が多いほど、授かる御利益は多い。物好きの中には、吉事のために手にタコができるほど激しく撫でまわしていた、という記録がある。とすると、


  撫牛を腰からぶら下げて携帯し、好きなときに撫でることができる


としたらどうだろうか。とても便利であるに違いない。そんな着想はなかっただろうか。

 日本では古来、旅行中でも信仰する仏を携帯するため、携帯用の小型の厨子があり、今でも美術品として数多く残されている。ケータイストラップには”ミニお守り”も発売されている。日本人は信仰心は厚いが、一方でそんな功利主義な面もある。友忠や天満宮近くの土産物屋は、きっとここに目を付けたに違いない。

 撫牛根付として、実用上の目的以外に、携帯型のお守りとしての機能を持たせたのではないだろうか。実際、根付には、ミニ日時計やミニ矢立などの機能を持たせたものが数多くある。信仰対象としての撫牛を
「携帯型撫牛」として売り出していたのではないだろうか。

 江戸時代には撫牛が置物として広く普及し、友忠は確実にそれを見ていた。彼が見ていたのは素焼きの伏見人形であったかもしれないし、北野天満宮の臥牛像であったかもしれない。もしかしたら参道で売られていたであろう、撫牛信仰の対象としての何らかの土産物であったかもしれない。

 臥牛は彼のオリジナルのデザインではない、ということになる。あの伏せた格好の牛のデザインは、あきらかに、当時既に存在していた臥牛像や撫牛土産を参考にしている。そんな身近な牛をモチーフにして根付を作製した、と考えることが適当であろう。彼の臥牛と北野天満宮に置かれている臥牛とがお互いに同一のデザインであることを踏まえれば、そのように考えてもおかしくはない。

 なお、撫牛については、中国にも似たような風習がある。毎年立春の頃、「春牛」と呼ばれる牛の像を飾り、庶民はこの春牛をこの春牛をなでて病気の回復を祈願したという。そんな古い風習が、後漢の王充の『論衡』に迎春の行事として掲載されているようである。この風習と日本の撫牛との関係については、更なる調査が必要であると思われる。





4.臥牛根付のありかた

 解題のまとめに入る前に、京都スクールの臥牛根付の観察ポイントを確認しておきたい。

臥牛根付のあるべき特徴

 昔から良い牛の選び方、というものがある。その相牛法は、牛を売買する博労(ばくろう)の経験から発したものであるらしい。牛の体型資質や性質を判断するものであるらしいが、
「天角、地眼、鼻たれて、一黒陸頭耳小歯違う」との歌が古くからあるそうで、この意味は、「角は天をさし(形よく)、眼は前方地面を見(性格温順)、鼻鏡乾かずつねに湿っていて(健康)、毛色は黒一色、頭直に、耳は小さく、歯は斜に磨滅して反芻をよくしている(健康)牛がよい」ということである。

 もし友忠がこの博労の歌を聞き知っていたとすれば、このような理想型の牛を根付に忠実に彫り込んでいた可能性がある。また、既に述べたように、江戸時代の牛は小型でがっしり型という点も非常に重要である。友忠の臥牛根付の真贋判定には、このような判定基準も参考になると思われる。

【理想型の臥牛根付(友忠臥牛の判定基準@)

 ・形の良い角を彫り込むこと(点角)
 ・目の象嵌に際しては細心の注意を払い、性格従順を表現すること(地眼)
 ・目はフラフラ脇を見ず、前方地面を見ていること(〃)
 ・健康な牛の鼻は常に塗れているので、象牙の地肌を良く磨き光らせること(鼻たれて)
 ・毛は黒色一色に毛彫りすること(一黒陸頭)
 ・耳は小さいこと(耳小)
 


 これに加え、先に述べたような江戸時代の牛の特徴を頭に入れておき、イメージを豊かにしておきたい。

【江戸時代の牛の特徴】(友忠臥牛の判定基準A)
 
 ・小型でがっしり型(背は低かった)
 ・力が強いので重荷を運ぶのに適していること
 ・性質が忍耐強いので長い仕事に耐えること
 ・粗悪な飼料をもって満足すること
 ・病気にかかることの少ないこと
 ・痩せていても、体型はがっしりしている和牛
 ・背・腰が丈夫で肢蹄が強く、安定感のある体格            
 ・毛色は様々。黒色系が大半
(後述)
 ・鼻輪と手綱の特徴
(後述)
 ・角の特徴
(後述)    



 友忠の臥牛の真贋判定には、重要な基準がもう一つある。もし友忠が北野天満宮の撫牛を根付で再現したとすれば、北野天満宮に置かれている臥牛像とスタイルが一致するはずである。北野天満宮の臥牛像の写真を参考にすることについても、一考の余地があると思われる。


毛色について

 江戸時代の牛の毛色は、産地毎に黒、褐色、白黒斑など様々な種類がいたようであるが、黒色系が大半を占めていたらしい。かといって、江戸時代に西国から京都に流れてきた牛を特定し、その毛色を特定することはできない。様々な毛色の牛を根付師は目撃したに違いない。

 例えば、Gabor Wilhelm と吉田ゆか里の共著『NETSUKE THE FRENCH CONNECTION』(提物屋(2000年)には、京都・正直と友忠の臥牛根付の写真が掲載されている。全面に黒色の毛彫りが入れられている両者の臥牛根付(p.89)は、実際の使用による作品の擦れと根付師の彫法の違いを考慮したとしても、明らかに黒色系の牛を写したと思われる。


鼻輪と手綱

 臥牛根付の多くは、鼻輪がかけられ、手綱に結ばれている。また、その手綱は牛の背中から後ろ足のラインに至るまで長々と架けられたデザインとなっている。さらに、牛の角はクルンと丸く折り畳まれている。これが臥牛根付の特徴である。これらのディテールには何か特別な意味があるのだろうか。

 使役用の牛は当時、人間の手で操作しなければならなかった。そのためには、鼻輪に力を加えることで、牛の頭を上げさせ、前進、後進、右回り、左回り、停止をさせていた。現代でいう重機(ブルドーザー)のレバーの操作と同じである。そのための綱は、適宜に緊張させた程度で人間が右手の甲に1回転させて、固く握りしめておく必要があった。
(ちなみに、牛の調教のためには、様々なノウハウがあったようである。
(http://okayama.lin.go.jp/tosyo/s2508/tks05.htm))

 このため、臥牛根付に彫られている手綱は、ちょうど人間がそばに立って牛を操作できるのに適当な長さとなっていなければならない。また、手綱の先は、人間が手で握れるように輪になっているデザインが多い。臥牛根付の鼻輪と手綱には、このような意味がきちんと備わっていた。ちなみに、牛の調教のためには、様々なノウハウがあったようである。
(http://okayama.lin.go.jp/tosyo/s2508/tks05.htm)


角について

 角の観察は面白い。
臥牛根付の角はとても長い。現代ではあのように長く曲がった牛を見かけることは、滅多にない。現代の牛は、大量の牛を群管理しやすいように除角(または矯角)というものが行われている。仲間の牛や作業員を傷つけないように、早いうちに牛の角を根本から切断してしまうのである。古来、和牛の場合は、除角の習慣がなかったそうである。

 実際、友忠の臥牛も除角された角ではなく、伸びるにまかせた角がきちんと彫られていることに注目したい。根付の実用上で問題がないように角が巧みに折り畳んであるデザインになっているのは、根付師の想像上の工夫か、または、角の一部に手に入れることにより角の形を無害に変える矯角が江戸時代に行われていたことを示している。

岡言 臥牛 5.6cm 18世紀末〜19世紀初頭 京都


"友忠スタイル"にご注意

 ところで、カタログを見ると、友忠銘が入っていない臥牛根付が"友忠スタイル"として解説されているものを多く見かける。だがちょっと待って欲しい。もし、友忠の臥牛の起源が撫牛であるとすると、この考え方は改める必要があるのではないだろうか。

 臥牛は当時から伏見人形のデザインにも使われていたことは既に述べた。臥牛根付は友忠の専売特許ではない。あの臥せた牛の格好は友忠のオリジナルではない。天満宮で誰もが見慣れていた格好である。土産物や置物として臥牛は市中に氾濫していた。ということは、友忠以外の根付師京都以外の地方の根付師が臥牛を彫っていても、全くおかしくはない。

 ひょっとしたら真面目に彫られた臥牛根付であるが、たまたまデザインが似通っているために、"友忠の偽物"だとか"友忠スタイル"として扱われていることはないだろうか。「友忠」の銘が後銘である場合、銘の入っていなかった元々の臥牛根付は、真面目な土産用の根付であった可能性がある。単純な一括り的な解説はどうだろうか。






5.まとめ

 今回は友忠の臥牛根付の起源を探求した。
 一連の取材旅行が、将来の友忠の臥牛に関する解題研究の一助になれば幸甚である。


友忠臥牛の起源

 友忠本人が臥牛を彫り始めた真の動機は、おそらく永遠に知り得ないと思われる。しかし、根付は根付師が自分の好みを押しつけたものでなく、庶民の側が求めたものである。発注者側(需要家)の好みに合わせて生産されたものと考えるならば、撫牛を好んだ庶民が居て、彼らが臥牛根付を友忠に求めた、と考えるのが自然である。

 友忠は、西国各地から良質な牛が集められる京都に住み、農耕だけでなく運搬用や祭礼儀式用の牛を日常生活の中で眺めていた。また、北野天満宮の臥牛像を確実に目撃し、興味の目で眺めていた。彼は、北野天満宮の臥牛像からヒントを得つつ、当時流行していた撫牛信仰や伏見人形の撫牛と相まって、臥牛根付を大々的に製作したのだろう。彼のアイディアは、
”携帯型の撫牛”だったと言える。

 友忠の臥牛は、彼のオリジナルのデザインではなかったことが今回分かった。オリジナルは、撫牛信仰の牛である。これを基に、天神信仰、農業繁栄の守り神としての神牛的な性格や、道真伝説のストーリー性、日常生活で絶えず接する忍耐強いキャラクタ性は、動物ものを得意とする友忠を根付彫刻に向かわせるに十分な動機になったのだろう。

 当時、人間は牛に助けられて生きていた。生活は一心同体だったのである。牛は祭りにも引き出されるほど存在感があり、当時は庶民にとって愛らしい人気キャラクタだったに違いない。また、農家にとって牛は一財産であり、象牙根付を購入する財力のある富農は、愛育している牛の根付を喜んで特別に発注したに違いない。現代よりもずっと身近な動物であったに違いない。


なぜ江戸でも賞玩されたか

 装剣奇賞の根付師人名録では、友忠の牛に関してのみ「関東にて特に賞玩す」と特記されている。この理由が全くの謎であった。これについては解釈の糸口が見つかった。

 当時は京都以外でも全国的に撫牛信仰があり、江戸でも神社に像が置かれるほど撫牛が大流行していた。江戸の吉原の神棚にも、撫牛の置物が置かれていたのである。伏見人形の撫牛は、土産物として日本各地に送られていた。このような背景で、臥牛型の根付も江戸で愛玩されるような需要があったのだろう。撫牛置物と同じように、便利で携帯型の撫牛が根付として売られ、または神牛を祀る北野天満宮の土産として、有名ブランドの友忠の撫牛根付は、江戸庶民の間で人気があったに違いない。こう考えれば、装剣奇賞の特記は納得がいく。


なぜ友忠に偽物が多いのか

 友忠はこの旺盛な臥牛根付の需要に対して、友忠工房の全態勢を動員して対応したに違いない。甥の岡友やその弟・岡隹、岡友の弟子の岡言といった一族郎党を総動員して製作に取り組んだはずだ。1680年頃には伏見人形を製造・販売する店の組合が結成されていた。同じ工芸品である根付製作の工房でも、そのような仲間で分業する組合があったのかもしれない。

 しかし、それでも旺盛な需要を満たすことは叶わず、結果、大量の偽造友忠が発生したと考えられる。伏見人形がそうであったように、友忠の撫牛は全国的な有名ブランドだったのだ。有名ブランドには偽物がついてまわる。友忠の根付には当時から相当のプレミア価格がついていたと思われる。手作りの友忠根付は当時、希少であったに違いない。本物を見る機会が少なかったであろう江戸の庶民にとっては、真贋の見分けが難しかった。京都以外の地では多くの偽物が出回ったのであろう。

 ということで、根付の中で、友忠の臥牛に特に多くの偽造が見られるのは、撫牛信仰に基づく幅広い庶民層からの旺盛な需要が遠因だと考えられる。そのため、友忠の存命中でも既に偽造が発生していたのである。そして、偽造も含めて数多くの臥牛が市中に出回ったからこそ、"根付師といえば友忠、友忠といえば牛"と根付師の代表選手のように友忠が表現されるようになったのだろう。


根付の楽しみ方は今も江戸時代も同じ

 根付は指で撫でて鑑賞するものだ。しかし、江戸時代においても、果たして同じような愛玩方法があったかのどうか、これまでよく分からなかった。しかしもし友忠臥牛の起源が撫牛であって、健康安全を願うお守りとして使われていたとすれば、この携帯型の撫牛は江戸時代においても現代と同様、大いに撫でられていた、という証になる。ご主人様の腰や懐の中で、グリグリと撫で回されていたのであろう。撫で回しには軽くて摩耗しやすい黄楊材よりも、重量感があってツルツルしている象牙材が適している。とても面白いことではないだろうか。


 もし、臥牛根付の中に衣擦れと疑われる"慣れ"があったら、これからは注意して観察して欲しい。ひょっとしたらそれは指で集中的に撫でられた跡かもしれない。根付を撫でる楽しみ方は昔も今も同じだということが分かった。そんな風に撫でられた牛達は、古色が付いて現代になっていっそう飴色に輝いている。




参考文献
・「岡山県畜産史」(昭和55年(1980年)3月発行)
・Gabor Wilhelm と吉田ゆか里の共著『NETSUKE THE FRENCH CONNECTION』(提物屋(2000年)
・塩見青嵐著「伏見人形」(河原書店、昭42年)


(おわり)

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