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第9回 根付と共箱
平成15年5月11日



 骨董の世界では、本体に共箱が付いていないと美術品としての価値が激減するものがあります。

 茶道具、茶杓、書画骨董、焼物などがそれです。これらは、共箱や箱書きがなければ、極端な話、本来の価値の10分の一程度の値段でしか評価がされません。箱書きに有名な茶人、宗匠、大名の筆跡が残されていれば、そのような古箱付きの道具類の価格は急騰します。茶道具・道具類の大部分は、その箱書きや伝来の価値でしかない、と言い切る者もいます(「骨董にせもの雑学ノート」(ダイヤモンド社)) 

 日本人の”共箱文化”は非常に面白いと思いますが、外国のアンティークの世界ではあまり見かけません。ルノアールの絵画に共箱が付いているといった話は聞いたことはありません。これはなぜなのでしょうか。

 美術品や骨董は本来、その本体自体が正当に評価されるべきだと思います。製作者の銘や権威で価値が上がることは、モノの付加価値を楽しむ骨董の世界ですから否定はしませんが、しょせん本体は10分の一の価値しかないことになります。もちろん、柄の細い茶杓にいちいち銘を入れることは困難だったという理由もあったのかもしれません。これは、包装文化の発達した日本の特異な文化かもしれませんが、外国人には奇異に映るようです。

 日本の共箱に関連した骨董が、世界でも大々的にきちんと通用しているとの話は聞いたことがありません。漆工芸品や浮世絵、根付は外国でも有名オークションハウスが定期的に取り扱うほどに、立派に流通しています。海外では日本以上にもの凄い量の美術品が取り引きされています。しかし、茶杓や備前焼が外国で大量に流通しているとは聞いたことがありません。

 一方、根付の場合は、海外では、根付本体のみで勝負されています。一部の現代根付を除いて、殆ど全ての根付には共箱は付いていません。根付に共箱がないのは、そもそもの発祥が一般庶民が日常生活で使用する民芸品だったからかもしれません。根付本来の意匠や彫り、仕上げ、保存状態で、価値が適正に評価され、価格に反映されています。

 一般的に外国人にはそのような傾向があるようですが、根付の銘で価値が判断されることはないとよく言われます。外国人は、根付本体の価値と自分の好みで、蒐集上の価値を定めます。共箱が付いているからといって、市場価格が5倍10倍になることはあり得ません。

 古根付で共箱が残されているのは非常に稀な場合です。Bernard Hurtig著「Masterpieces of NETSUKE ART:ONE THOUSAND FAVORITES OF LEADING COLLECTORS」には、懐玉齋正次の福禄寿三星根付とともに共箱及び書き付けの写真が掲載されています。文久二年(1862年)に姫路様のお姫様の輿入れ用として献上されたことが書き付けで残されており、代金は9両と書いてあります。三星の3体の根付には銘は入っておらず、共箱に初めて「懐玉齋」の銘の墨書きがあります。解説によると、大名などの位の高い層向けの根付には、根付師側が敬意を払い作品自体には銘を入れることは省かれた、とされています。このような特殊な場合には、共箱で初めて銘が分かるようになっていました。

 先日、平和島の骨董市で共箱付きの根付を見ました。それは現代根付でした。根付の後ろに共箱が一緒に並べられていました。共箱には銘がありましたが、根付本体にも銘がありました。価格は、根付本体の平均的な相場から判断して、2倍以上の値段が付けられていました。外国の骨董屋で共箱付きの現代根付を見たことがありますが、価格もそれなりの高いものとなっていて、外国人には見向きもされていませんでした。

 こんな映画やCMのシーンを見たことがあります。外国人は、他人からプレゼントをされると、包装紙をビリビリと破いて中身を取り出します。中身をみてから贈り主にニッコリと”サンキュ”と言います。日本人は違います。まず包装紙でどのデパートの買い物なのかを確認します。それが三越や高島屋の包装紙なら、ニッコリです。包装紙は、丁寧にはがして折り畳んで保管します。それから初めて中身を確認します。美術品に対する考え方の文化の違いなのかもしれません。

 このように考えると、他の骨董の分野と比較して、根付はとても素直な美術品だと思います。根付には、材質の嘘や銘の贋作が多くあります。しかし、そもそも共箱が付随しないため、茶道具の世界にあるような古箱を巡る贋作の話は聞いたことがありません。本体以外の虚飾で価値が決まるような世界ではありません。根付本体のみで、一匹狼のように堂々と世界で通用していきます。いや、虚飾で誤魔化しようのないものだからこそ、グローバルの評価基準が確立され、世界のどこに行っても正当に評価されているのでしょう。世界で受け入れられているということは、怪しいローカル・ルールではなく、万人に通用する美のルールがあるからでしょう。

 今後もそうあって欲しいと願います。

 



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