大丈夫さ 僕には歌があるから

 宮里新一は時々「歌が暗いと言われた」とぼやく。

 確かに宮里新一の歌に底抜けに明るい歌はない。いつもライブのフィナーレに大合唱となって盛り上がる「マイペンライ」も、実は「悲しいくらいに 何もなかった僕に/風は冷たかったよ 心を引き裂くほど」という気持ちでいた彼が、誰かに言ってほしくてたまらなかった「マイペンライ=大丈夫さ」という一言について歌っている。マイペンライはタイ語で「大丈夫、気にしなくてもいいよ」といった意味の言葉である。

 ライブハウスで雰囲気を盛り上げるために歌われるMY LIVE NIGHTでもまた「幼いころから夢見てた 幸せな風景/僕の空しい心を充たしてほしい」と歌う。心の負の部分を彼は隠さない。

 彼の心の空虚さは、8歳でハンセン病に罹患し、9歳でハンセン病療養所沖縄愛楽園に入所し、12歳の小学校卒業時にはいったん退所したものの、19歳の頃には再発し、大学在学中の22歳の時には愛楽園に再入所となったという彼の経歴を抜きにしては語れない。

 沖縄愛楽園は沖縄県名護市の屋我地島にある。沖縄本島とは橋でつながる。「あの橋渡れば辿る風景 いつか僕にも辿れるならば」(「時間をください」)と歌われるあの橋である。この歌は退所して社会で生きることへのためらいを歌っている。「一人になれば悲しむことも/一人で背負えばそれですべてが済むんだ」という思いは、多くの入所者や退所者が家族に対して抱く思いである。小学校の3年間入所している間に義父は幼い妹たちを残したまま交通事故で亡くなっていた。経済的に苦境に立たされた母に何の力にもなってやれなかった。不甲斐ない病気の俺。そんな気持ちのいろいろがこの歌には込められている。

 22歳のとき、心寄せた人には愛を告げることもできずに療養所へと去った。激しい神経痛で左手が全く動かなくなった。垂足で歩けなくなり車椅子生活となった。それでもギターを離さず、無理やりに痛みをこらえて左手を動かし、第1指から第3指までの3本の指だけで何とかギターを弾きこなすようになる。だが依然将来は不透明のまま。そんなどん底での歌が「展望」であり「サヨナラ 僕の哀しい詩よ」である。彼はいつも逆説的である。

 その後彼は療養所を正式に退所することができなかった。全く感覚のない足はよく傷を作った。療養所を離れてしまう勇気がなかった。療養所に部屋を持ち、社会ではもう一つの生活を築いた。社会の側から見ると、彼は時々理由も告げず姿を隠した。療養所での自分は社会から忘れ去られた存在。社会での生活はそういう忘却と忘却の狭間での存在だった(「忘却の狭間で」)。それでも恋をし、失恋もする。臆病な愛。雨の日に窓から雨を眺めているといくつもの愛の場面が走馬灯のように頭をよぎる(「五月の雨」)。ボブ・ディランや拓郎を愛した青春は確かにあった(「Gの唄」「忘却の狭間で」)。

 そんな宮里新一を、決定的に変えたのは、ハンセン病国賠訴訟だった。判決を知った彼は、「何かが変わる」と感じて原告となり、東京での控訴断念を求める行動に参加し、首相官邸前に座り込む。彼はあきらめかけていた歌にもう一度向き合う。ハンセン病患者だったことを明らかにしてステージにあがるようになった。正式に退所もした。そして自分を変えてくれたあの東京行動をようやく歌にした(「五月の街」)。あの五月の街での思いを普遍化するのに2年はかかった。

 明るい歌の中に哀しみの心があり、哀しみの中で作られた歌にはけっして人生をあきらめないやや前のめりの生き抜く心がある。宮里新一の歌は暗いのではない。生き抜く覚悟としての歌なのだ。彼は自分のために歌う。自分が生きるために歌う。けれどその心こそが、心に哀しみを秘めた人たちに勇気を与えるのだ。「何があってもあきらめるな、マイペンライ」と。

(NK)