陳述書
沖縄愛楽園 宮里 新一
私は今46歳です。沖縄愛楽園に在園中です。
私の最初の入園は、小学校3年のころで、園内の小学校を卒業すると同時に、退園できました。
退園したころ、母は再婚相手とも死に別れて、貧しい生活でした。それでも幼い私のこころは退園した喜びでいっぱいでした。ただ一つ、私のこころを縛っていたのは、退園のとき、ある入所者から言われた、「この病気のことは一生誰にも話してはいけないよ」という言葉でした。この一言が私の一生を支配したのだと思います。この秘密が破られたら、社会から抹殺されるのではないかと恐れていました。
思春期を迎えて、私は自分の人生の大きな秘密を抱えたまま、ギターを弾き、フォークソングを歌うようになりました。音楽が私を支えてくれました。
地元の大学に進んだ私は奨学金を得るために一生懸命勉強しました。学費を稼ぐためのアルバイトと音楽活動も頑張りました。音楽では沖縄で少しは知られる存在になりました。しかし、音楽仲間の誰にも私の病気は打ち明けられませんでした。
無理がたたったのだと思います。24歳の時、神経痛や裏傷で体がまったく言うことをきかなくなって、やむなく愛楽園に再入所しました。
私は愛楽園で、これがハンセン病の後遺症で、体に無理をすると起こるものだと初めて知り、激しいショックを受けました。それまで私は後遺症の知識がなく、一般病院でハンセン病を内緒にして、神経痛の病名で治療を受けていたのです。
せめて私や病院の医者に、この病気の後遺症の正しい知識があれば、再入所せずにすんだのではないかと、残念でなりませんでした。
療養を数年続け、後遺症がおさまった1982年、27歳の私は、親戚の家で居候を始めました。しかし、正式に退園したわけではなく、療養所の籍は残してありました。正式に退園すると給与金がもらえなくなってしまうからです。アルバイトで無理をして再入園した私にとって、給与金をあきらめることはできませんでした。
大学は中退しましたが、社会で出会った女性と結婚し、働き始めました。私は幼い頃家族と離れた寂しさから、温かい家庭が欲しくてたまらなかったのです。私は妻にだけは病気を打ち明けることができました。
仕事の傍ら音楽活動を続ける中で、CDデビューの話が出ました。売れればプロとしてやっていけるかも知れませんでした。みんなが応援してくれましたが、打ち合わせをするうちに私はなぜか怖くなって来ました。私はCDの制作を「無期延期」にしました。みんな不思議がっていました。今思えば仲間に秘密を抱え続ける私の自信のなさが原因だったのです。
音楽は中途半端になってしまったけど、私はそれでも、家族の生活のためには努力したと思います。私は、病気を打ち明けた妻とは、しっかりした絆を作りたかった。私の子どもには私のような屈折した人間になって欲しくなかった。
しかし、今年の3月のある日、妻は子どもを連れて黙って家を出ていきました。
誰もいない部屋に帰ると、私は、妻から、お前は愛楽園に帰れ、と言われているように思いました。アパートを引き払って、愛楽園に転がり込みました。
私は、すべてを失って、愛楽園の小さな部屋で、かえって冷静に自分を振り返りました。私はもう一度社会で生き直したいとこころから思いました。
そのころ、5月11日に、熊本の判決が出て、療養所の雰囲気が変わったことを実感しました。すぐ裁判に参加しました。
賠償金でビデオデッキを買って、自分の演奏しているライブビデオを見ました。歌っている自分自身を、一晩中、繰り返し繰り返し見続けました。
私は今からでもCDを作るぞと決心しました。音楽仲間を訪ね歩き、みんなに今まで秘密にしていた病気のことを打ち明けました。みんな驚き、そして励ましてくれました。
私はハンセン病から解放されたい。私はハンセン病の中の歌ではなく、ハンセン病から出ていく歌を作りたい。
私は今度こそ、療養所の籍を抹消して、正式に退園したい。一生内緒にしろ、と言われたことからできた自分の心の鎖を断ち切りたい。父親として、その姿を息子に見せてやりたい。
政府の方にはわかって欲しいことがあります。再入所したり、園に籍を置いたまま長期外出する人がいるのは、退所した人に何の経済的援助もなく、本人や医者にも病気に関する知識が薄く、社会の理解もないから、自信もお金もなくて療養所と縁が切れないのです。
音楽が聴く人がいて初めて成り立つように、理解のない社会では、生きていくのは難しいです。
ぜひとも、真に人々を解放する政策を実現して下さい。我々も社会で努力します。
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