宮里(みやざと)新一(しんいち) プロフィル

 

l 1955年7月17日、沖縄県に生まれる。

l 8歳の時ハンセン病を発症し、1964年12月、わけもわからないまま沖縄愛楽園へ連れて行かれる。

l 愛楽園内の小学校を卒業し、同時に愛楽園を退所する。退所の際に入所者から「この病気のことは誰にも話してはいけない」と言われ、この言葉がその後ずっと彼の心を縛り続けることになる。

l 地元の中学を卒業し高校に入学。16歳のときにギターと出合う。ギターを覚え始めると同時に歌作りも始める。

l 17歳の時、詩を書いていた同級生が白血病で死亡したことに強い衝撃を受ける。以後本格的に詩を書き始める。

l 18歳の頃から、ハンセン病の後遺症である神経痛に悩まされるようになる。後遺症についての正しい知識もなく、ハンセン病の既往歴を隠したまま一般の病院への通院を続ける。何よりも園に連れ戻されることを恐れていた。

l 大学に入学し奨学金を受ける。勉強とアルバイトと音楽活動を続け、その無理がたたって神経痛が悪化する。学業を半ばにして卒業をあきらめる。

l 23歳の時、愛楽園に再入所する。後遺症のため、左手の薬指と小指が使えなくなり、ギターが以前の弾き方では弾けなくなる。

l 3年ほどの療養で愛楽園を外出し、社会での生活を試みる。音楽活動にも携わる。

l 以後具合が悪くなれば愛楽園に戻るという生活を繰り返すことになる。

l 結婚し家庭生活に入るが、音楽への思いを断ちがたく、1993年には仕事を辞めて奄美群島を旅する。旅の中で多くの啓示を受ける。音楽活動を再開し、沖縄県各地のライブハウスでライブを行う。しかし、ハンセン病の既往歴を隠し続けることからくる自信のなさから大きく踏み出すことができないまま、空回りしている自分に気づく。

l 2001年3月、家庭生活に破れ、すべてを失って沖縄愛楽園の部屋にこもってしまう。そこで熊本判決を知り、原告団に入り、ハンセン病全面解決のための闘いに加わる。

l 2001年9月、厚労副大臣との交渉で自分自身を語り、再び音楽活動を再開することを誓う。

l2002年、正式に退所して社会での生き直しを図るため、熊本でコンサートを開催する。