●逃げながらつかみたい夢
73年頃。神経痛が出始めた頃。人生をどう生きるかを模索していた。人嫌いだった。自分の夢をまわりに壊されたくなかった。家族も社会も自分には足枷のようだった。自立したかった。「逃げながらでも夢を掴んでやる」という居直りの気持ちと、「本当に逃げてるわけじゃないぞ、ぶつかって、ぶつかって、たたかってやるんだ」という挑戦的な気持ちが交錯していた。
●無題
80年頃。再入所していたこの時期、いくつか歌を作った。足が垂足になり手術して車椅子の生活をしていた。痛い指でこれがリハビリだと思ってギターを弾き続けた(「少女の詩」もこの時期に作った)。医者はやめろと言っていたけど、おかげでまたギターを弾けるようになった。
高校生の時、17歳の友人を白血病で失った。彼女が僕に詩を書くことを教えてくれた。彼女のためにそれまでたくさんの歌を作っていた。その想いのすべてをこの1曲に収斂させた。そしたらタイトルがつけられなくて「無題」にした。
●ひたすら
86年。全患協の仕事でしばらく東京にいた。心が疲れてしまった。帰ってきて病棟に入院していた時この歌を作った。人生、行き詰まっていた。
●五月の雨
86年頃。なぜか雨が好きだ。雨の歌は多い。これは療養所の部屋に一人いる時の雨の日のイメージ。大人びた悩ましい歌を作ってみたかった。
●南からの旅人
94年。前年の奄美群島への旅のイメージを歌った。
●ラングレー
87年頃。初めてローンで買った車がラングレーだった。ライブハウスに通うために買ったけど、ガソリン代もなくて乗れないときもあった。海岸をドライブしているとよくカップルに出会った。自分はもう恋愛なんてできないと思っていたから、「コンチクショーメ、あいつらは別れ話でもしてるのか」なんて思った。
左手に障害があって、ギターのテクニックにはコンプレックスがあった。オープンコードを使ってみた。工夫次第でいろんなテクニックが駆使できるとわかって、自信がついてきた。
●あの頃僕は
93年。奄美群島への旅に出る前に作った歌。失業した。これからどうしよう、そんな気持ちだった。
●さすらいの破片
82年頃。療養所のある沖縄のヤンバルの自然を歌った。わたぼうしコンサートをやっていた頃。
●ひと雨降れば
84年頃。東京へ行く前だった。恋をすることはあきらめていた。病気のための家族との断絶もあった。家族とまわりとのトラブルにも何も力になれなかった。転機を求めて東京へ旅立った。
●我執
86年頃。この歌をCDに入れるつもりはなかった。これは失意の時期の独り言。それまでの自分を振り返ってみるための自分のためだけの歌だった。人に聞かせるつもりはなかったんだ。録音の時練習のつもりで歌ったら収録されてしまった。歌っていたらなぜか想いがこもってしまった。
●忘却の狭間で
86年頃。実はちょっと失恋した。振られた。彼女が何を考えているのかわからなかった。人生はいつも療養所で途切れた。人生がつながらず断片になってしまった。療養所は人生の中で語られない自分史、忘れられた部分。「忘却」にはそんな思いもこめた。何かを歌えば「詩人」と言われた。「俺は詩人などではない。生身の人間だぞ」と言いたかった。