2002年7月17日
NHKホール
ワシントン・オペラの初引越し公演に、芸術監督を務めるプラシド・ドミンゴ自ら十八番『オテロ』を選んだ。伝説的なスカラ座引越し公演のクライバー指揮『オテロ』から20年。現在のドミンゴが、果たしてどのようなオテロを日本の聴衆の前に披露するのか?
『オテロ』は言うまでもなく、シェークスピアの悲劇を、台本作者アッリーゴ・ボイトの協力を得て、ジュゼッペ・ヴェルディが1887年完成させたイタリア・オペラ前人未到の高みに達した傑作。時にヴェルディ73歳。スカラ座での初演の夜、熱狂したミラノの聴衆は、夜が明けるまで”Viva
Verdi!”と歓呼し続けたという。
オペラの世紀の黄昏に創られた老大家の最高傑作。そしてそのタイトルロールを歌う、キャリアの黄昏に達したベテラン・テノール。今回の上演への私の興味は、この2点に絞られた。
結論から言えば、部下イヤーゴの奸計により、破滅していくオテロという人間を、ドミンゴは見事に表現してみせた。
冒頭、オテロが登場しての第一声の「喜べ!」”Esultare!”。ドミンゴの前の「オテロ歌い」マリオ・デル・モナコはここで「黄金のトランペット」といわれた巨声を鳴り響かせたというが、ドミンゴはもともと声そのものの力で勝負する歌手ではなかったし、現在の年齢を考えても、迫力に欠ける”Esultare”であることは免れなかった。正直なところ、老いて衰えた声を聴かされるのかと、早くも失望しかけてしまったが、それは早合点だった。ドミンゴは声をセーヴしながら、彼の創り上げたオテロ像を見事演じ切ってみせてくれたのだ。
まず、第一幕最後のワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の影響をも感じさせる、オテロと愛妻デズデーモナの二重唱が素晴らしかった。愛の陶酔の末にオテロは死を願う。それに対し、この幸福が末永く続くようにと歌う若いデズデーモナ。水も漏らさぬ仲の夫婦ではあるが、この部分でふたりの微かなずれが垣間見える。それにしても、70才を過ぎたヴェルディの書いたこの二重唱の官能性はどうだろう。やはり若い愛人テレサ・シュトルツが老大家に霊感を与えたのであろうか?
ドミンゴにリードされデズデーモナを歌うのは、若く美貌のソプラノ、ヴェロニカ・ヴィッラロエル。(それにしても、近頃の若い女性歌手、そろいもそろって美人でスタイルがよいですね。)ヴェネツィアの貴婦人の衣装が大変似合って、視覚的には、理想的なデズデーモナ。ただし一本調子の歌唱が気になったが(最後の幕間で不調の「ごめんなさいアナウンス」が入ったが、最後まで舞台は務めた。)、前半の無垢なデズデーモナには、表現力の深さはそれほど必要ないのかもしれない。
第二幕。イヤーゴは悪の信条(Credo)を歌い、上司オテロを陥れることを誓う。メフィストフェレスのような諧謔味のある悪魔は、それまでもオペラに登場してきたが、これほどまでに堂々と悪の信念を表明する人物が描かれたのも、やはり「世紀末」ゆえか?
演ずるセルゲイ・レイフェルクスは、柔らかい声のバリトンだが、冷血そうな風貌もあいまって、声がソフトな分、無気味なイヤーゴだった。
イヤーゴはカッシオをも巧みにあやつり、デズデーモナと若く美男のカッシオとの不義の「疑惑」という毒をオテロの耳に注ぎこんで行く。毒は「嫉妬」となり、次第にオテロの全身にまわっていく。この幕でのイヤーゴとオテロの心理戦は、手に汗握るような緊迫感があった。この心理劇を聴くだけでも、『オテロ』というオペラの高度な芸術性に感嘆させられた。
第三幕では有名なデズデーモナのハンカチが登場し、ついにオテロは妻の不義を確信してしまう。イヤーゴのたくらみによる小道具とも気付かず、「ハンカチ、ハンカチ・・・」”Fazzoletto,
fazzoletto”とうわごとのように繰り返すオテロ。剛毅な武将が妄執にとりつかれ、完全に理性を失った姿が哀れを誘う。そして「若くて悲しみを知らな」かったデズデーモナも、一気に地獄に突き落とされる。このあたりから、死を覚悟した終幕のデズデーモナの歌唱・演技は、ミレッラ・フレーニという理想的なデズデーモナを我々は知ってしまっているだけに、ヴィッラロエルの表現の浅さが露見してしまった。まあ、今の時点で大プリマドンナと比べるのは、酷ではあるが。
そしてこの幕の最後で、苦悩のあまり倒れ伏したオテロを、「これがサンマルコの獅子か!」と嘲るイヤーゴ、悪役バリトンならではの大見得であった。
終幕。前述したようにヴィッラロエルの歌唱には不満が残ったが、「柳の歌〜アヴェ・マリア」には、一日にして苦悩と恐れを知ってしまったデズデーモナの心情が切々と溢れている。
やがて床に伏したデズデーモナのもとにオテロが現われ、必死で潔白を訴える妻の言葉にも耳を貸さず、縊り殺してしまう。ベッドから長い黒髪を垂らして倒れたデズデーモナの死に姿の美しさは、息をのむばかり。ロマン派の画家フュスリ描く『夢魔』によく似たポーズだった。そこに駆けつけた人々から、すべてはイヤーゴのたくらみであったことを知ったオテロは後悔と絶望を歌った末に、短剣を自らの胸に突き立てる。「今一度くちづけを!」と、デズデーモナのなきがらににじり寄り、オテロは息絶える。
それは一幕での「愛と死の二重唱」と対応する感動的な幕切れだった。
そしてこの幕での歌唱・演技は、プラシド・ドミンゴというテノールの集大成といえるもの。ムーア人のヴェネツィア将軍という特殊性はほとんど問題にされず、普遍的な人間の弱さというものを見事に歌いきり、演じきった。私がドミンゴのオペラ実演に接するのは、あるいはこれが最初で最後になるかもしれないが、大歌手の至芸を堪能でき、貴重な体験となった。
ハインツ・フリッケの指揮は手堅く、をきれいにまとめていた。が、ワシントン・オペラのコーラスはやや声がひっこみ気味で、ヴェルディのオペラには力強さに欠けるように思えた。
演出はまったくオーソドックスで、それだからこそドミンゴも自ら築き上げたオテロ像を心置きなく表現しきれたともいえよう。堅固で美しい舞台美術も併せて、前衛に走ることの少ないアメリカ合衆国のオペラ上演の良質な面を見せてくれていた。
指揮 : ハインツ・フリッケ
管弦楽 : ワシントン・ケネディセンター歌劇場楽団
合唱 : ワシントン・オペラ合唱団
演出 : ソーニャ・フリーゼル
美術・衣装 : エジョーン・サリヴァン=ジェンテ
配役
オテロ プラシド・ドミンゴ
イヤーゴ セルゲイ・レイフェルクス
デズデーモナ ヴェロニカ・ヴィッラロエル
カッシオ コリー・エヴァン・ロッツ
ロドリーゴ ロバート・ベイカー
エミーリア ジェーン・バンネル