Il mio tenore favorito

なつのお気に入りテノール 〜英雄編〜

 カラフ王子(「トゥーランドット」)
=フランコ・コレッリ

 

ジャコモ・プッチーニの遺作であり、イタリア・オペラ最後の華となった『トゥーランドット』。このオペラのヒーロー、「無名の王子」ことカラフは、イタリア・オペラのテノールとして、もっともドラマチックでもっとも輝かしい声を要求される役である。

物語の舞台は、いつの時代とも知れぬ中国。冷酷残忍にして絶世の美女トゥーランドット姫は、求婚者に謎をかけては、答えが解けない男たちの首を次々とはね、異民族に陵辱された祖先の王女の敵をとっていると称している。

国滅敗れて流浪の身のダッタンの王子カラフも、トゥーランドットの姿を垣間見るや、一目惚れ。やっと再会できた老父と、王子を慕う可憐な女奴隷リューが止めるのもいっこう意に介さず、カラフも謎解きに挑戦することになる。

「英雄」にふさわしく、カラフは単純そのものの男。彼は考えない。悩まない。ひたすらトゥーランドットを情熱的に求め、謎解きとかたくなな拒絶という試練に立ち向かい、ひるまない。トゥーランドットが平然と拷問・殺人を命令する女であろうが、けなげなリューがカラフの為に自らの命を犠牲にしようが、である。カラフは一応リューの死を嘆くが、あっという間に立ち直り −「リューの死」を書いたところで、プッチーニは亡くなり、その後は弟子のアルファーノが完成させた− さらに情熱的に必殺の歌と接吻で挑み、さしもの「氷の姫君」も陥落、大団円となる。

1926年のトスカニーニ指揮によるスカラ座初演以来、多くのテノーレ・ドラマーティコたちがこの役を歌ってきたが、1950年代から60年代にかけて、トゥーランドット役のブリギット・ニルソンとの強力コンビで、一世を風靡したフランコ・コレッリが、20世紀後半の最高のカラフだったとことはまちがいない。

数多い『トゥーランドット』の全曲盤の中でも、決定盤との誉れ高いのが、ニルソン、コレッリにくわえて、リュー役にレナータ・スコットを配した1965年録音のEMI盤。(フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ指揮・ローマ国立歌劇場o,cho)このオペラの華やかな巨大さを、声、演奏ともに完璧なまでに表現し尽くした、超強力盤である。かく言う筆者も、「エド・サリバン・ショー」のリバイバル放送で、えんじ色のタキシード姿で、粘っこい声でナポリ民謡を歌う姿を見て、「60年代のアメリカの保守的なおばさんのアイドル」と決め付けていたコレッリがすごい歌手だったのだと認識したのは、この録音を耳にしてから。

さらに現在、入手が可能なニルソン、コレッリの『トゥーランドット』に、新潮オペラCDブック『プッチーニ/トゥーランドット』がある。これは1961年メトロポリタン歌劇場でのライヴ録音。レオポルド・ストコフスキーのMETでの唯一のオペラ指揮という点でも、歴史的な記録である。個人的には、65年のやや重くなった声より、METでのコレッリの未だ若々しい声が好き。何よりライヴならではの熱気を味わうならこちら。プロンプターの声まで入っているのが、気にはなるが。ニルソンの歌唱もこちらでも申し分なく、リューを歌うアンナ・モッフォのか細さが、まさにはまり役。とにかく、どちらの盤においても、テノールvsソプラノの対決を思う存分堪能できる。

話がちょっとそれるが、このテノールvsソプラノというのが、戦後のイタリア・オペラ黄金時代=大歌手の時代の醍醐味のひとつだったのだろう。日本におけるライブ映像が残されているマリオ・デル・モナコとレナータ・テバルティの「アンドレア・シェニエ」のラストの二重唱など観ても、声のバトルのすさまじさに圧倒されてしまう。演技的には「愛の二重唱」?なのだが、有無を言わさず、聴き手をねじふせる絶対的な「芸」がある。

伝えられるところによると、何十回となく舞台で競演したコレッリとニルソンは、共演者というより、競演者というのがふさわしかったようで、様々な意地の張り合いの逸話が残されている。第2幕で、どちらが声を長く伸ばせるか張り合って、負けたコレッリがもう舞台を降りるとごねたなんてのもそのひとつ。さらにその後の幕で、、カラフに接吻されて突如ふつうの女に変貌したトゥーランドットが、”La mia gloria e’ finita”「我が栄光の時は過ぎ去りき」と歌うところで、ニルソンが”La tua gloria e’ finita”「あんたの栄光はもう終わったのよ!」とコレッリにあてつけたというエピソード。それを受けたコレッリはオリジナルの歌詞どおり ”No!Essa incomincia!”「いいえ、これから始まるのです!」と受け流したそうな。

さて、スカラ座においても、METにおいても、その舞台の豪華さが未だ語り草になっている50〜60年代のニルソンvsコレッリの『トゥーランドット』の映像は、私の知る限り残されてはいないようだ。少なくとも商品として流通している様子はない。(60年代に、ふたりのコンビに加えて、リュー役をレオンタイン・プライスというキャスティングでハリウッドで映画化という話があったが、実現しなかったとのこと。)

フランコ・コレッリの『トゥーランドット』の映像記録として、輸入版のビデオで入手可能なのが、アメリカのBel canto societyからリリースされているもの。この映像は、RAI(イタリア国営放送)が1958年に製作、テレビ放映したスタジオ収録がソースと思われる。カラーでないのが残念な、豪華絢爛なセット。衣装は中華風?で、コーラスやダンサーは真っ白塗り。つまりは西洋人の思い浮かべる典型的な東洋像の視覚化を図ったものとおぼしい。ただし、道化役の宦官ピン、パン、ポンは、コメディア・デッラルテ風。(このオペラの原作は、カルロ・ゴッツィのコメディア・デッラルテ『トゥーランドット姫』)

トゥーランドットはニルソンではなく、Lucille Udovickなるソプラノだが、無論コレッリのカラフが見られる!という点で、貴重このうえない。なにしろ、「オペラ史上最高の美男テノール」と言われたコレッリである。その比類ないまでに強靭で輝かしい声だけでも、間違いなく20世紀を代表するテノールのひとりではあるが、残された舞台写真と数少ない映像で見ることのできるその美貌は、月並みな言い方ではあるが、「天は二物を与えた」。

この映像でのコレッリは、時に37才(35才?彼の生年は、どうもはっきりしない)。豪奢な衣装(流浪の身のカラフがなんでこんな派手な衣装を着ているかなどと詮索しては、オペラは楽しめない。ちなみに、ゴッツィの『トゥーランドット姫』では、乞食や人足をやって喰いつないできたとカラフ自ら語っている)を身にまとった精悍な美丈夫ぶりである。しかし、筆者をして突如熱病に罹ったかのようにコレッリ崇拝者に走らせたのは、このコレッリのカラフを観ているうち、視覚と聴覚が渾然一体となり、陶酔させられたがゆえ。

第2幕の謎かけのシーンの直前に、命知らずの求婚者にトゥーランドットは ”Gli enigimi sono tre, la morte e’ una!”「謎は三つだが、死はひとつじゃ!」と歌いかける。カラフは応じる。 ”No, no!Gli enigmi sono tre, una e’ la vita!” 「いいえ、謎は三つで、命はひとつです!」と。そのときのコレッリの異様なまでに輝く瞳、そしてカラフそのままに命を賭けたごとくの熱い声。役と歌手もまたも渾然一体となった奇跡のような瞬間であった。

もちろん第3幕冒頭のテノールの名アリア ”Nessun dorma” 「誰も寝てはならぬ」を始めとして、まさに全盛期を迎えようとしていた、若きコレッリの声と容姿を堪能できる優れた映像記録である。

その後、ファンになりたての筆者など、足元に及びもつかないコレッリ教信者の方々と知り合うご縁があったのは、まったくの幸いだった。おかげさまで、熱病にうかされた状態で2000年6月、コレッリの生地アンコーナで行われた第3回フランコ・コレッリ・コンコルソに飛び、コレッリご本人にお会いするという大胆不敵な行動に走った筆者であったが、その話はまた別のページにて後日披露の予定。

 

フランコ・コレッリ Franco Corelli 1921(1923?)〜2003

 イタリアのアンコーナに生まれ、造船会社に勤めながら、1950年フィレンツェ五月音楽祭コンクールで優勝。翌年、オペラ・デビュー。以後、強靭なリリコ・スピントの声と、華麗な舞台姿で、スカラ座を初めとしたイタリア各地のみならず世界の歌劇場で活躍、絶大な人気を誇った。特にソプラノのマリア・カラス、レナータ・テバルティ、或いはバリトンのエットレ・バスティアニーニら「イタリア・オペラ黄金時代」の歌手たちと多くの名舞台を残した。惜しむらくは、彼の歌手生活には常に舞台恐怖症がつきまとい(彼は舞台で演じた「英雄」たちと裏腹に極めて繊細な神経の持ち主だった)、そのことが1976年、50代半ばで現役を退いた理由のひとつになっていたのかもしれない。引退後も、プライベートな集いなどで、変わらぬ歌声を披露していたことが、現在ではネット上の動画などで確かめられる。

ちなみに2000年初夏、筆者がご本人におめもじかなったときは、いたってお元気そうでした。


2003年10月29日午後7時30分(イタリア時間)、ミラノの病院にて、マエストロ・フランコ・コレッリは逝去されました。慎んでご冥福をお祈りいたします。

 

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