起床後、バールで朝食を済ませ、サンタ・ルチア駅に向かいました。この日は、ヴェネツィア大で日本語・日本文化を学んでいる若い友人二人と会います。彼女達はパドヴァなどヴェネツィアの外から大学に通っているので、駅で待ち合わせになったのです。
ほぼ1年ぶりに再会した二人に、ヴェネツィア大学の校舎に案内されました。私の友人の友人がそこで日本語を教えているということで、もしかしたらご挨拶できるかもしれないということだったのですが、残念ながらその方は不在でした。しかし、図書館で熱心に勉強する学生たちの姿など、いかにも「学びの舎」らしい雰囲気に久しぶりに接することが出来ました。イタリアの大学は卒業するのが大変で、卒論を提出しないで(出来ず?)延々と留年をする学生がいるとは話には聞いていましたが、ほんとうに40才近そうな男子学生も見かけました。
バールで昼食を摂ってから、町を散策。家々のベランダに藤の花が咲き誇っているのが目に付きました(左の写真)。日本の藤とは種類が異なるように見えましたが、日本のように棚を使っていないことも違って見える一因だったのかもしれません。 ジュディッカ運河に面したザッテレ河岸に行き、三人で日向ぼっこしながら、おしゃべり。 そのうち、豪華客船が運河に入ってきました。デッキにいる人々がこちらに向かい手を振るので、こちらからも振り返しました。後になって気づいたのですが、その時私が手を振りながら立っていた小さな太鼓橋が架かっていた小運河の名前は、Rio degli incurabili 治る見込みのない運河。須賀敦子さんの著書に登場するので、この不吉な名前を覚えていたのですが、元はここに「治る見込みのない病気」=梅毒に感染してしまったヴェネツィアの娼婦を収容する病院があったのだとか…。 そんな風に三人で町をそぞろ歩きして午後を過ごし、夕方に家に泊めてくれている友人と落ち合い、若い友人二人とはここでお別れ。 |
今日、友人が案内してくれたのは、Museo Fortuny。マリアーノ・フォルトゥニ(1871〜1949))は、スペイン生まれのデザイナーであり、同名の父親は高名な画家だったそうです。息子フォルトゥニは、1889年に現在はフォルトゥニ博物館となっているヴェネツィアのこの館に移り住み、3階をアトリエとして、舞台美術・衣装(ワグナーのオペラに傾倒していたという)、テキスタイル、家具、写真等多岐にわたる分野のデザイン作品を手がけました。 私が訪問した日は、二十世紀初頭のヴェネツィア風景を写した写真の他、チェストや椅子、テキスタイル作品が飾られ、往時のアトリエを忍ばせるような展示のように見えました。展示品と併せて、館そのものの静謐な雰囲気にも浸れる、隠れた名博物館でした。 なんとなく、ヴェネツィアの地元の人々のとっておきの場所なのかもしれない…と今になって思い至り、案内しくれた友人に感謝の気持ちでいっぱいです。 その夜は、友人のご一家にTaverna San Trovasoというリストランテにご招待いただき、美味しいイカ墨料理を頂きながら、楽しい夕べを過ごしました。 トリノの友人ご一家もそうでしたが、今回の旅行ではイタリアの友人とそのご家族にほんとうに親切にもてなして頂きーイタリア語のospitareという言葉そのままに−、心より感謝しています。イタリアという国も大好きだけど、私にとってそこに住む友人たちも、かけがえのない宝です。 旅もいよいよこの日で終わりを迎えました。翌朝、友人に別れを告げ、バスでマルコ・ポーロ空港へ。日本への帰途につきました。 つたない旅日記でしたが、少しでもイタリアの空気が伝われば、幸甚です。 |
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