現代インド文学選集
『マレナード物語』
KP・プールナ・チャンドラ・テージャスウィ著
井上恭子訳

めこん刊/
1854円(送料別)


 インドを旅行する日本人は、年々増えつづけている。しかしそのなかで、“カルナータカ州の公用語たる言語「カンナダ語」で書かれた現代小説”を読んだことのあるひとは、いったいどれほどいるだろう。

 私ももちろん今回が初めてだった。十年以上前から、インドへは数回訪れており、インドに関連する書籍も多少は読んできたつもりであったが、この小説は、自分とかの地との関わりを、またあたらしく結びなおしてくれる、ひとつの幸運なきっかけとなったように思える。

 これは、ひじょうに正統的な、小説らしい小説だ。ストレートな筋立てに素直に乗っていくことができ、爽やかな読後感が残る。この世界の片隅で本当に起きているかもしれない、奇妙で、滑稽ともいえる人々の物語が、読むうちになぜかなつかしく、親密なものとして心に残っていく。

 マレナードとは、カンナダ語で「山国」を指すという。そこは自然の宝庫であり、多くの動植物が生息し、豊かな森林資源の恩恵を、人々は古来から受けてきた。しかし、最近、開墾や森林資源の過剰利用により、マレナードの森林破壊が急速に進んでいるという。

 本書の冒頭に、そのことが説明されている。まずここを読んだ読者は、ああ、この話はきっと森林保護に関する啓蒙的な内容のものにちがいない、と思うはずだ。だから、本章に入っていきなり展開される、田舎っぽくて、なんだかテンポがずれた人たちのやりとりや些細な事件に、始めは面食らう。非常に短い各章の、独特な余韻に満ちた結びの一文に引きずられるようにして、ついつい先へと進むうち、もうすっかり森林保護のことなんか忘れてしまう。

 翻訳者のセンスのよさにも、舌を巻くだろう。

 「ドドドン、ドドドンと大太鼓が最高潮に達した時、郡役場の壁や窓がガタガタ、ガタガタと震え始めた…(中略)、そこにあった二つの巣から雀蜂が怒り狂って飛び出した。蜂は、風にはためく国旗にも、それを掲げて後ろに退いたデブの大臣殿にも、ポリスにも、政治屋にも、太鼓叩きのマンダンナにも、子供たちにも、奥さんたちにも、通りすがりの人たちにも、次から次にビシバシ、ビシバシと刺し始めた。
 人々は、ひえーっと叫んで、うろたえ、あわてふためき、盲滅法逃げ回った。」

 “デブの”“大臣殿”“政治屋”“ビシバシ”“ひえーっ”などが、もとはどんなふうに書かれていたのか、カンナダ語なのだから知るよしもないけれども、こういうところに、作者と翻訳者双方の茶目っ気あるアイロニーが、十分に発揮されていると思う。

 しかし、幾度かクスッとさせられながら読んでいくのは前半までである。後半は、先史時代の生き残りであるまぼろしの動物を追うという、さいしょ予想もしなかった目的に向かって、一気に読ませていく。苔や羊歯や茸の茂る深い森に分け入り、ジャッカルの声を遠く聞きながら野営し、まぼろしの生き物“飛びトカゲ”を追いつめていく。クライマックスには、数千フィートもある断崖絶壁にまで来てしまう。

 マレナードのどん詰まりであるその断崖で、物語は突然に幕切れとなる。そしてそのとき、読者はやっと気づく、我々は登場人物たちとともに、こんなところにまで来てしまったのだ、不思議に満ちたマレナードの大いなる森を、はからずも堪能させられていたのだ、と。

 前半にばらまかれていた散文的エピソードは、すべてがこの旅へ向かうための布石だったのだ。ラストシーン、虚空に向かって、飛翔というよりゆるやかな落下を見せつける飛びトカゲの姿は、むしろ映画的だ。進化を放棄した生物“飛びトカゲ”が、現実に存在するのか、この小説で創りだされた架空の生物なのか。そんなことは、このラストを目の裏に鮮やかに想像してしまった読者には、もう判別できない。ただただ、主人公たちといっしょに、目の乾きと充血を感じながら、それでもまばたきすら惜しんで、ふわりふわりと飛んでいく小さな生きものの行く先を見つめつづけるばかりなのである。

 インドという国を、宗教の問屋のごとくイメージする人も多いはずだが、この本のなかでは、宗教が声高に語られることはない。
 通低音のように、折に触れ、かの地の宗教は顔を出す。しかしそれは、登場人物たちのバックグラウンドに厚みを持たせるにとどまっている。ヒンドゥーやイスラムのことが書かれる部分は、とくにあっさりしていて現代的なユーモアのある筆致なのだ。

 それに比べ、飛びトカゲを軸とする、地球上に生きてきたあらゆる生物の進化について書かれた箇所は、力づよく、感動的だ。

 「心の中に、時を司る神についての限りない想い、めくるめく想像が渦巻いてきて、言葉にならなかった。
 飛びトカゲについて、ある種の献身と尊敬の気持ちが芽生え始めた。たゆみない時の流れの中で、一体どれほどの時間の彼方に向かって遡っていけばいいのだろうか。それさえわかっていないのだと思うと、全身が震えてくる。」

 ここで突然、「時を司る“神”」と、まるで口をついて出たように、神が語られる。その神は、イスラムでもヒンドゥーでも他の特定の宗教に登場する神でもないはずだ。
 風に乗って飛んでいく飛びトカゲの姿は、宗教を超えたひとつの答えとして存在しているように見える。小さなその姿は、圧倒的な自然のなかでは、はかなげでもあり愛おしくもあり、しかし何かしらのくびきから解きはなたれたような自由さを感じさせる。身ひとつで、主人公以下何人もの男たちがさんざんくり広げてきた、間抜けで、取るに足りない物事や感情の彼岸に、かるがると飛んでいけるのだ。

 文中、飛びトカゲは“進化をやめた者”という表現をされていたけれど、本当にそうなのか?進化の極みにあるはずの我々と、かの飛びトカゲは、どちらがより“神”に近づけているのか…?

 思いきり深遠なものと、思いきり俗なものを、編み込むようにして進んでいく物語。その構築がひじょうにインドっぽいなと思う。
 本書を読むことが、そのまま現代のインドを旅することになっていく。なんといっても、なかなか触れる機会のない、カンナダ語小説を訳された井上氏に、最大の賛辞をおくりたいと思う。

(了)

神谷 眞紀/旅行(南アジア・アラブ中心)と文筆が趣味の3児の母。
「APAKABA」というミニコミ誌(不定期)を発行している。
将来は夢の印税生活をと、主婦業のかたわら文章の鍛錬を怠らない。

 

 

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