その女、悪魔憑きにつき・1



 「お気に入り」のカテゴリ名は、「召喚」にしていた。なんだかゲームやアニメにかぶれたオタクのようだったが、他にピンとくるものがなかったので、仕方がない。その「召喚」フォルダを展開していくと、二つのブックマークが現れる。少し迷ってから、上のほうを選んだ。
 数秒経ってから、大蔵田 景(おおくらた けい)のスマホには、いかにも素人が作りましたといった風な、洗練されていないサイトが表示された。もっさりとした重たい雰囲気の、奇妙な幾何学模様の背景に、種類が統一されていないフォント、そして目に優しくない配色と、「悪いホームページの例」に出てきそうなそこは、相変わらず少し眺めているだけでクラクラしてくる。

 「うーん……」

 携帯の液晶画面の上を、景の人差し指が逡巡する。操作に手間取っているのは、このサイトが見づらいだけではなくて、彼女のほうにも迷いがあるからだ。
 【☆☆妖精の呼び出し方☆☆】。しばらくしてから目的のリンクをタップすると、また違うページが表示された。

【この方法を試せば、あなたのところにもティンカー・ベルちゃんがやってきて、願いを叶えてくれますよ☆】。

 画面の一番上には、ご丁寧なことに太字で、そんな説明が書かれている。
 「ティンカー・ベル」と聞いて想像するのは、やはりあの有名なアニメ映画に出てくる、小さな妖精だろう。ほんの少し生意気で、だが、背中の羽でぶんぶん元気に飛び回る姿は、とても愛らしかった。
 あんな子が、本当に来てくれるのだろうか。そして、願いを叶えてくれるのだろうか。

 前もって調べておいた内容に従い、既に準備はしてあった。景の目の前の座卓には、花がらの紙ナプキンが敷かれ、その上にはクッキーが数枚と、蜂蜜を入れた小さなミルクピッチャーが置いてある。サイトによると、クッキーと蜂蜜が、妖精の大好物なのだそうだ。もう一度それらの位置を整えてから、景は液晶画面に表示されている、不思議な文字列を読み上げた。

 「うんにゃら、あんにゃら……」

 八畳一間のおんぼろアパートで、暗がりの中、怪しげな呪文を口にする女……。傍から見れば、頭がおかしいとしか思われないだろう。挫けそうになる心をなんとか奮い立たせ、景は奇妙な文章を声に出して読んだ。
 親切にもカタカナで羅列してあるそれは、サイトの作成者を信じるならば、古代ゲール語で「妖精さん、いらっしゃい。お友達になりましょう」という意味なのだそうだ。そして、「完璧に唱えることができれば、妖精さんは必ず来てくれます☆」とも。
 古代ゲール語……という以前に、ゲール? 青汁の原料? という程度の、しかも間違った知識しかない景は、とりあえず無心になって、一言一句正しく呪文を唱え続けた。
 それにしても、このサイトを作った人間は、語尾に「☆」を付けるのが趣味なのだろうか。微妙にイライラさせられながら、景は最後まで読み終えた。
 正直、景は、こんなのはデタラメだろうと思っている。科学全盛のこの世に、妖精なんているわけがない、とも。しかしうら若き乙女ならばダメ元で、こういった「おまじない」に頼りたいときもあるのだ。
 とにかくも、妖精を呼び出す呪文は唱えきった。しばらく待つ。――何も起こらない。

 ――ですよねー……。

 まあ、初めから信じていたわけではない。淡い失望と共に、当然至極と納得しかけたところで、景の眼前を白い煙が塞いだ。

 「えっ!?」

 火のないところに煙は……というが、室内に燃えるようなものは何もなかったはずだ。ガスの元栓だって閉めてある。

 「きゅ、救急車! じゃない、消防車!」

 景は、手にした携帯で助けを呼ぼうとしたが――表示されている怪しいサイトを消して、電話をかけるには、どうしたら良かっただろう?パニックに陥り、うんうん唸っていると、やがて座卓の向こう側、安物のカーペットの上が、切り取られたように丸く光り出した。大きめのクッションほどのその円の縁を、閃光がぐるぐる走っている。光が回る速度がどんどん加速していき、景は思わず目を覆った。
 爆発でもするのだろうか。意味も分からぬまま、このまま死ぬのだろうか。
 やっぱりこんな物騒な世の中、サイバー犯罪がどうこう言われている現代で、ネットなんて信じちゃ駄目だったのだ。
 後悔する景の頬を、熱くもなければ冷たくもない風が打った。キーンと耳鳴りがする。
 起こったことといえば、それだけだった。息も苦しくないし、もちろん痛みもない。
 恐る恐る瞼から手をどけて、そっと前を向けば、煙が噴き出す前と変わらぬ暗闇が戻っていた。ただひとつ、違うのは――。

 「!」

 声を上げそうになったが、なんとか堪えた。刺激したら、まずい。
 ――金色の目。
 座卓の向こう側で、それが、爛々と光っていたのだ。
 鋭く、隙のない瞳は、大型の動物のようだったが、一体どこから入ったのだろう。景は一人暮らしだし、玄関も窓もしっかり鍵をかけてあるのに。
 不意に携帯から、場違いに明るいメロディーが、けたたましく流れ始めた。十九時にセットしてある、いつものアラームだ。携帯が輝き、その光が、金色の目の持ち主を照らす。

 「ぎっ、ぎやああああああああ!!!!」

 今度こそ我慢できず、景は悲鳴を上げた。
 彼女の前にいたのは、動物ではない。男、だった。体は大きく、たくましい。――しかし。
 尖った耳に、頭の左右には水牛のような、巨大な角が生えている。コスプレだとかじゃなければ、人間ではないだろう。しかしそれ以上に景を怯えさせたのは、男の格好だった。
 格好というか、それすらでない。つまり――彼は裸だったのである。

 「景ちゃん、どうしたの!?」

 ドアを激しくノックするのは、隣室で暮らす女性だろう。お互い一人暮らしなうえに、偶然同い歳だと知り、仲良くなったのだ。

 「た、助けて!」

 景は、もつれそうになる足をなんとか動かして、玄関に駆け寄った。ドアを開くと、果たしてそこには、心配そうな顔をした隣室の女性が立っていた。

 「景ちゃん! 今さっき、すごい悲鳴が聞こえたけど……」

 お隣さんの目は、しかし景の背後を覗いた途端、丸くなった。
 何かが近付いて来る気配を感じたが、もう遅い。景は後ろから、男に抱き締められてしまった。

 「すみませーん。ちょっと激しくしちゃったみたいで。ははは」

 男の大きな手が、さりげなく景の口を塞ぐ。景は暴れるが、体を押さえる男の力はあまりに強くて、逃れられなかった。隣室の女性の視線が、景の顔に移る。男の手が口から下がったかと思うと、景は首に小さな痛みを感じた。同時に、唇が勝手に動く。

 「ご、ごめんなさい……。ダーリンのが、あまりにすごかった……から……声が出ちゃって……」

 それを聞いた途端、隣室の女性はにんまりと笑った。

 「やだー! いつの間に、景ちゃんったら、こんな素敵な彼氏作ったのお?」
 「あなたも一緒にどうですか?」

 冗談めかして背後の男が誘うと、隣室の女性は景を抱いて離さない男の腕を、ぺちんと軽く叩いた。

 「やーねえ、エッチ! でも残念ながら、あなた、私の好みじゃないの。私、もうちょっと細い、中性的な子が好きなのよねえ」

 確かに景を抱えているこの男は筋骨隆々の、マッチョなアニキ的な外見ではあるが。今はそれどころじゃないと、景は助けを求めようとするが、口は虚しくパクパク動くだけで、うんともすんとも声は出てこなかった。

 「景ちゃん、じゃあ私、今夜はもう耳栓でもしとくから、気兼ねなく頑張って!」

 にまにま笑いながら、隣室の女性は帰っていった。女性の気配が遠ざかると、男はすぐに扉を施錠し、チェーンまで掛けて、景をズルズルと引き摺りながら、部屋に戻った。

 「は、離して……! け、警察、呼びますよ!」
 「わざわざ呼び出しておいて、その態度はなんだ。礼儀知らずにも程があるだろう」

 地面を這うような低い声で、男は静かに叱責する。
 男の背は高く、頭が天井に付いてしまいそうだ。二メートルはあるだろうか。不自由な体を何とか動かして、景は彼の顔を見上げた。
 そういえば、耳は尖っているし、角もある、男のこの異様な外見に、先ほどのお隣さんは、気付かなかったのだろうか。

 「私、あなたなんか呼んでません! 大体、あなた、誰!? ていうか、何!?」
 「お前は確かに我を呼んだ。この、ティンカー・ベル様をな」
 「……!?」

 景の頭の中に、小さく可愛らしい、妖精の姿が浮かぶ。どう贔屓目に見ても、自分を運ぶこのむくつけき大男と、あの妖精が同じ生き物だとは、到底思えなかった。


つづく