おなかいっぱいの恋・1
今夜の予定を考えると、ついつい口元が緩む。誤魔化すように、大蔵田 景は短めの前髪をいじった。そのまま額を撫でると、指の腹にでこぼこの感触が当たる。
「景ちゃん、最近楽しそうだね」
ひょいと脇から景の顔を覗き込み、にんまりと笑うのは、同じカフェで働く同僚の聖(ひじり)だ。
「それに、なんか可愛くなったよねえ」
「えっ!」
続けざまにそんなことを言われて、褒められ慣れていない景は動揺してしまう。
「いや、そんな……! あっ、ちょっとメイク変えたからかな!? ほ、ほら、ここにアイライン入れてみたりしてね!」
「やだなー、景さん、そんなに興奮しないでくださいよー」
話に割り込んできたのは、聖の後ろで備品の補充をしていた、姫名(ひめな)である。彼女もまた、ここ「ファウスト」で働く女の子だ。聖は景の二歳上、姫名は逆に一歳下の、女子大生である。
「女の子同士の『可愛い』なんて、挨拶みたいなものなのにー。喜び過ぎー」
意地の悪い姫名の指摘にも、景は苦笑いするしかない。学生時代はぼっちで、仲の良い友達もいなかったから、確かに女子一般のやりとりについて、よく分かっていない自覚があったからだ。
「そんなことねーよ。てかあんた、友達と、かわいーかわいー言い合ってるの? キモいな」
「……………………」
聖がつっけんどんに言い返すと、姫名は黙って唇を尖らした。
聖は頭の回転が早く、さっぱりした性格をしていて、キビキビと働くその姿は見ていて気持ちがいい。対して姫名は、可愛らしい外見には似つかわしくないほど仕事が雑で、隙あらばサボって誰かと喋ったり、携帯をいじるようなタイプだ。そのうえ彼女は、きっぱりと自分を咎めたり、やり返してくる人間には逆らわないが、気が弱く、事なかれ主義の景のことは舐めてかかっているところがある。一応景は、この店のバイトリーダーなのだが……。
しかし今だって景は、自分がからかわれたことよりも、姫名がふくれっ面なことが気になってしまう。これだから下に見られてしまうのだと、自分自身よく分かっていたが、こればっかりはそういう性格だからどうしようもない。波風を立てたくないのだ。
「あっ、ほらほら、あそこ見て」
険悪になりかけた空気を払うように、景は目で客席を指した。
「水谷 花憐(みずたに かれん)ちゃんだよ! 『Mau Mau』の専属モデル! すごく可愛いよね〜!」
平日昼間の客席は、六割程度埋まっている。壁を向いて座る形のカウンター席に、若い女性が一人腰掛け、雑誌を読んでいた。景のもくろみどおり、聖と姫名の関心はそちらに移った。
「うわー、本当だ! 顔ちっさ! 細い!」
「へー、やっぱりああいう人たちって、普段からお洒落なんですね。どこの服だろう」
小声ではしゃぐ聖たちを見て、景はホッと胸を撫で下ろす。
「二人は初めてだっけ。花憐ちゃんは、うちの店のお得意様なんだよー」
そう説明を加えてから、さりげなく景はレジから離れて、逃げるように客席の清掃に向かった。
――それにしても、やっぱり見えていないんだ。
板張りの床を歩きながら、景は再び自分の額に手をやった。
大蔵田 景。二十歳。職業はフリーター。
普通の女の子にしか見えない、実際一週間前まではそれ以外の何者でもなかった彼女は、ある出会いを通じて、特殊な存在へ変化するに至った。
――悪魔憑き。
役に立つようで立たない、でもやっぱりちょっとだけ頼りになる、自称「上級悪魔」ティンカー・ベル。景はそんな人ならざる者に、取り憑かれてしまったのだ。
――我が全力をもって、お前を幸せにしてやろう。
そう言い残して、悪魔が消えた翌日、目覚めた景の額には、不思議な紋様が浮き出ていた。横に広い楕円の上に、ちょんちょんと短い五つの線が引かれたそれを、鏡でしばらく眺めて、景はこれはきっとクマの肉球を表したものなのだと、直感的にそう思った。ティンカー・ベルのもう一つの姿が、ヒグマだからだ。
しかもこの印は、不思議なことに、彼女以外には見えていないようなのだ。景も印が浮き出てから数日はバンダナで隠していたのだが、ついうっかり額を晒してしまっても、周囲の人たちは無反応だった。こんな奇妙なものを見れば誰かしら、例えば景にいちいち突っかかってくる同僚の姫名などが、何も言ってこないわけがない。つまりこの印は、景以外、誰の目にも映っていないのではないだろうか。
このように悪魔憑きの烙印を刻まれた景だったが、それ以外の日々の生活に、何ひとつ変わりはなかった。
朝起きてはバイトに行き、終われば一人暮らしのアパートへ帰る。それから、ご飯を作って――。
――ご飯を作って。
ただし今夜だけは、普段と違うことが起こるかもしれない。
おんぼろアパートのくせに、意外に面積を取って作られた台所に、景は今、立っている。目の前でぐつぐつ音を立てる鍋の中見は、もうじき出来上がるというのに、彼女は往生際悪く未だうだうだと迷っていた。
辺りには、何をも打ち消す魅惑の香りが漂う。今晩のメニューはカレーである。万人が愛するそれに、だが当の作り手は不満があるようだ。
――他にも得意な料理はあるんだけどなあ。
カレーは誰が作っても平等に美味である。しかしそれ故に個性が出しにくく、料理人にとっては物足りない料理でもあるのかもしれない。
食道楽な祖母に仕込まれたおかげで、景の料理の腕前はなかなかのものだ。それを披露したい気持ちは強い。しかし。
――でも本当に来るか、分かんないもんなあ……。
だから食べる人数が増えても減ってもあまり影響がない、カレーを作ったのだ。
悪魔に精気を吸われた、具体的に言えば、性的な絶頂に導かれて、気を失ったあの日、景の部屋にはぺらっと一枚、手紙が残されていた。そこには、お爺さんやお婆さんが書くような達筆で、「一週間後の◯月◯日、十九時にまた来る」と記されていたのである。
嘘かもしれないし、からかわれただけかもしれない。なにしろあの男は、悪魔なのだから。だがティンカー・ベルは、変わってはいるけれど、誠実だ。人を騙したりするだろうか。
じゃあ、またこの部屋を訪れるとして、彼は一体何をするつもりなのだろう。
あの悪魔は、景を幸せにすると宣言した。だからそのために来るのだろうか。だがまさか今夜一晩で、幸せになれるとは思えない。そうすると、彼との付き合いは長くなるのだろうか。その間、この前のような精気を吸う――とは名ばかりの、破廉恥な行為を求められたら、どうしたらいいのか。あの恥ずかしさに、耐えられるのだろうか。
いや、嫌ではないのだ、嫌では。だがああいうことは、きっと恋人同士がするべきことだと思うし……。
怒涛のように湧いてくる想いに胸を焦がされながら、だがなぜかやっぱり顔はにやけて、景は自分の心の内がよく分からないまま、あっという間に一週間目のこの日を迎えてしまった。
ホーローの鍋で煮込んだ材料は、にんじん、じゃがいも、タマネギ、しめじ、そして豚の挽き肉である。いつもならトマトホール缶を加えるのだが、男の人は酸味を嫌うかもしれないからと、普通に水で煮込んだ、どこまでもオーソドックスなカレーである。
何か工夫できないかと考えて、景は冷蔵庫から玉子を出した。オムレツをのせてあげようと思ったのだ。ティンカー・ベルは甘いものが大好きだから、きっと玉子も好きではないかと、根拠があるような、ないような思い付きだった。
――あと、ほかに、できることはないかな。
コンロの前に立ったかと思えば、冷蔵庫と床下収納を覗き、景は落ち着きなく狭い部屋をぐるぐると回った。
そしてようやく約束の時間になる。つけっぱなしのテレビから十九時の時報が鳴ったかと思うと、ドアを叩かれて、景は飛び上がった。
――来た!
恐る恐るドアを開けると、のっそりと低い上枠をくぐって、ティンカー・ベルが現れる。
「今夜はカレーか」
形良い鼻をくんくんとひく付かせて、悪魔は開口一番そう言った。
つづく