おなかいっぱいの恋・3
――誰かのために作った料理を、その誰かに美味しく食べてもらって。
悪魔の舌や手が動くたび、彼の体温が肌に染みこんでいくかのようだ。
「や、やめて……」
自分の吐く拒絶の言葉の、その白々しさに呆れてしまう。本当は少しも拒んでいないのに。むしろ、もっとして欲しいくせに。
ティンカー・ベルの振る舞いは、明らかに女に慣れている男のそれで、相手を不安にも不快にもさせない。強いて言えば、景はそれが嫌だ。
溺れていく自分を、快楽に弱い自分を、見せ付けられているようで――。
やはり抵抗するのは口だけで、スウェットのパンツと一緒に下着を下ろされても、景はティンカー・ベルを恨めしげに見上げるだけだった。
ところで、今日着ているスウェットの上下を合わせて、彼女が最近新調した部屋着は、これで三着目になる。よそ行きの服を選ぶよりもずっと時間をかけて吟味し、景はそれらを購入している。
――それなりに着飾り、女であることを意識して。
ティンカー・ベルは景を軽々と抱え、シンクの上に浅く腰掛けさせた。彼女の片方の膝に手をやって持ち上げると、その足の裏をシンクの縁に置く。片足が大きく開いたせいで、景の陰部はすっかり晒されてしまった。ティンカー・ベルは跪き、そこへ顔を寄せる。
「こんなのやだっ! 恥ずかしい……!」
足を下ろそうとしても、股間の隙間に入り込んだ悪魔の頭に阻止されて、できない。何とか逃げようとじたばた暴れている隙に、ティンカー・ベルは景の秘部に、ぱくりと齧り付いた。
「あっ……!」
悪魔の唇は、女性器の各部分を、ひとつひとつ丁寧に吸っていく。ひととおり口づけると、ティンカー・ベルは花弁を開き、奥の窪みに舌をねじ込んだ。
「やだあ……っ!」
「だが、よく濡れている。口がベタベタになったぞ」
「うっ……。違うもん! 違う……!」
無遠慮に侵入して、妖しい痺れを引き起こす悪魔の舌を拒もうと、景は下半身に力を入れる。しかし、入り口付近の壁をぐにぐにと舐め回され、そのたまらない快感にあっさりとほぐれされてしまった。
雌の器官がいやらしい体液を生み、垂れ流す。ティンカー・ベルはそれを口で受け止めると、わざと大きな音を立てて啜った。景の頬はカッと熱くなる。ティンカー・ベルは意地悪だ。
膣内に舌を沈めたまま、悪魔は硬く膨らんだ陰核に指で触れた。
「あっ、や、やっ……!」
景は急に抵抗を強め、自分の足の間にあるティンカー・ベルの頭を押した。だが悪魔はびくともせず、ますます楽しそうに笑って、縦の割れ目をペロリと舐め上げた。
――こうやって、気持ちがいいことをしてもらって。
「イキそうなんだろう? 遠慮するな」
「な、やだ……!」
悪魔の施す甘い責め苦は、巧みなうえにストレートで、経験の少ない景は真っ正直に全てを受け止め、すぐに上り詰めてしまう。
「あっ、ああ……!」
ティンカー・ベルは立ち上がると、羞恥と怯えに潤んでいる景の瞳を見詰めて、にんまりと笑った。唇を重ね、彼女の舌を奪う。吸い出されて、悪魔の口の中で翻弄されながら、景は目を閉じ、なすがままになった。
「お前の精気はどんどん芳しく、美味になっていくな……」
美食家のようにうっとりと語りながら、ティンカー・ベルはもう一度二度と、景の唇を貪った。
絶頂からゆっくりと降りていく景は、気だるさに身を浸しながら、ぼんやりと思った。
誰かのために作った料理を、その誰かに美味しく食べてもらって。
それなりに着飾り、女であることを意識して。
こうやって、気持ちがいいことをしてもらって。
――女の幸せって、こういうことを言うんじゃないの?
翌日の職場において、景は心ここにあらず、時を過ごした。任された仕事は、ロボットのように正確にこなしているし、客への受け答えや、同僚との雑談にも卒なく応じているのに、頭の中では別のことを考えているのだ。そう、あの悪魔のことだけを。
ティンカー・ベルのことを、好きか嫌いかと問われれば、好きだろう。
だが景は、恋や愛を知らない。――知ったつもりになっていて、前回は大失敗したのだ。
そんな彼女だから、あの悪魔に恋をしているのかと問われれば、答えられなかった。
――分からない。
ティンカー・ベルはひとりぼっちの自分の側にいてくれて、だから寄りかかりたいだけなのかもしれない。それを男女間の愛情と履き違えてしまえば、きっと不幸になる。
例えば、初恋の相手だと思い込んでいた、飯島 大吾の件がある。景は大吾への想いを、なかなか壮絶な形で断ち切ったのだが、思えば彼女が大吾のことを本当に本気で愛していたなら、また違う結末もあったのかもしれない。
傍から見れば、大吾はあまり褒められた男ではなかったが、景が彼に心底惚れていたならば、悪魔の力で結ばれて、それはそれで幸せだったのだろうから。
しかし景は大吾の胸に、己の自尊心を捨て去ってまで飛び込むような、そこまでの思い入れはなかった。
愛するだけじゃなくて、愛されたい。
そう願うのは、贅沢なことなのだろうか。
そんなことを考えているから、だから昨日の悪魔の所業が、余計引っかかる。
――なんでちゃんとセックスしないんだろう。
ティンカー・ベルは一方的に景を弄び、自分自身についてはお構いなしだ。昨日も、この間もそうだった。
そりゃあ景から精気とやらを吸い取っているらしいが、それがあれば満足なのか。
性的な欲求はないのか。
挿入寸前の、あそこまでしておいて?
――私としたくないのかな。私に魅力がないのかな……。
どれだけ気持ち良いことをしてもらっても、何かが物足りない。結局は、欲求不満に陥る。
――ティンカー・ベルのアレを、アレしてくれたら、どんな感じなんだろう……。
「景さあん」
「!」
人様には言えないような、いかがわしいことを想像している最中、いきなり声をかけられて、景は悲鳴を上げそうになった。汗をかきながら振り返ると、同僚の姫名が何やらニヤニヤ笑っている。景の表情は強張った。
自分に悪感情を持っているらしい姫名のことが、景はどうも苦手で、同じシフトに入ると、ついつい嫌な緊張をしてしまう。
「ねえ、あそこの人、見て下さいよぉ」
とりあえず今回の姫名の攻撃の矛先は、どうやら景ではなく、ほかに向いているらしい。彼女がそっと指した客席の、二人がけのテーブル席には、男性が一人座っていた。その男性に、景は見覚えがあった。最近よく見かけるお客様で、彼はいつもホイップクリームなどをトッピングした、甘いコーヒーを頼むのだ。
「なんかあいつぅ、水谷 花憐ちゃんのこと、見張ってるみたいなんですよ」
姫名がひそひそと囁くとおり、その男性客の斜め前のカウンター席には、モデルの水谷 花憐が腰掛け、雑誌を読んでいた。
「気持ち悪くありません? もしかして、ストーカーじゃね?」
気持ち悪いとは、彼の外見の話をしているのだろう。
その男性客は背が低く、丸々と太っていた。服装は、流行なんて意識しない、したら負けとばかりに、何年前から着続けているのか分からないような、くたびれたシャツとトレーナーに、下はサイズが合っていない、パツパツのジーンズである。あまり頻繁にカットしていないのだろう長めの髪と、団子鼻に眼鏡をかけており、ニキビが目立つ、脂ぎった顔をしていた。
確かに、あまり見目よろしくはないが……。しかし水谷 花憐は有名人だし、彼女のように美しい人にならば、誰だって自然と目が行ってしまうのではないか。それを変質者のように決め付けては、可哀想な気がする。
「……お客さんのこと、そんな風に言ったらダメだよ」
あまり厳しくならないように注意すると、姫名はみるみる目尻を吊り上げ、足音も荒く奥へ引っ込んでしまった。
――また嫌われてしまっただろうか。景はため息をついた。
客席に視線を戻すと、なぜかあの男性が、こちらを睨んでいた。姫名も景も小声だったし、彼からは距離もあるから、まさか先ほどの会話が聞こえていたわけではないだろう。
だが、どうして……? 思わず男から目を逸らした瞬間、額にちりっと、焼けつくような痛みが走った。
「いたっ……」
刻印のあたりだ。――そういえば聞こうと思っていたのに、昨晩はティンカー・ベルに、この印のことを聞くのを忘れてしまった。
額に触れるが、特に異常はないようだ。痛みがあったのも一瞬だけだったし、気のせいだったのだろうか。
出入口の開閉に伴うチャイムの音がしたので仰ぎ見ると、先ほどの男性客が、リュックを肩に掛け、出て行くところだった。
「あ、ありがとうございました!」
男の背中に声をかけると、今度はすぐ近くに人の気配を感じた。見れば、なんと水沢 花憐が、レジの前に立っている。
「あのー。さっき私、パンケーキ頼んだんだけど、それを焼いたのは、あなたですか?」
少し前まで調理を担当していたから、花憐のパンケーキを作ったのは、確かに景である。
「は、はい」
何か粗相があっただろうか。こういう風に客が話しかけてくる場合、大抵はクレームだ。景は身構えた。
「あのね、すごく美味しくて」
「……え?」
思ってもいなかったことを言われて、景はきょとんと目を丸くした。
「私ね、えーと、あんまり太ってはいけない仕事をしてるんです」
「も、モデルさんですよね? 知ってますよ。ファンです」
花憐は少し頬を緩めて、「ありがとう」と礼を言った。
「それでね、だから私、甘いものが大好きなんだけど、食べられないの。でも二週間に一度だけは、ここのパンケーキを食べることを、自分に許しててね。それで通ってるうちに、なんとなくいつも味が違うなって思ったの。や、美味しいんだよ? でもね、本当にちょっとだけ……。盛り付け方にも差があって。それで今日はね、すごく美味しくて。だから、なんの違いだろうって考えてたら、あなたがいたのね。そういえば私が美味しいなあって感動しているときは、あなたがいつもいるなあって気付いたの」
たいていの店と同じように、ここカフェ「ファウスト」のメニューにもそれぞれレシピが定められており、調理担当者はそのとおり作ることになっている。だがその約束事もチェーン店などよりはだいぶ緩く、出来上がった料理は、作る人間によって多少のバラつきがあった。もっとも本当に注意深く観察し、味合わなければ、分からない程度の差であるが。
「私、あなたのパンケーキが一番好きなんだあ。これからも美味しく作ってね」
「あ、ありがとうございます……!」
温かい言葉があまりに嬉しくて、景は泣きそうになった。
可憐はにっこり笑うと、ひらひらと手を振って、店を出て行った。景はその後ろ姿を、まるで天使か女神様を崇めるように見送った。
――それにしても、食べたいものも、食べられないのかあ。
やはりあれだけの美を保つには、それなりの努力と苦労が付きものなのだ。
景は、自分には無理だと思った。何か作るのも食べるのも、大好きだからだ。
颯爽と去っていた花憐の、抜群のスタイルを思い返して、景は自分の腹を摘んだ。……摘めてしまう。
そのとき、彼女の頭の中で、何かが閃いた。
つづく