おなかいっぱいの恋・6




 ドライフルーツに熱湯をかけて、油を抜く。水分をよく拭き取ってから、ヨーグルトに入れて、ざっと混ぜた。
 カフェ「ファウスト」で使っているのは、クランベリーやレーズン、マンゴーを乾燥させたものだが、これらを漬けて一晩置いたヨーグルトは、チーズのように濃厚な風味に変化するのだ。それを焼きたてのパンケーキにトッピングして出す、「たっぷりフルーツのヨーグルト・パンケーキ」は、この店の人気メニューだった。

 「よいしょっと」

 これで、今日中に終わらせなければならない仕込みは、終了である。
 ヨーグルトがなみなみ詰まったボウルを仕舞うついでに、中のものを軽く点検して、景は冷蔵庫を閉めた。

 「景ちゃん、ありがとう。急に残業頼んじゃってごめんね。助かるわー」

 そう労うのは、店長の村田 灯里(むらた あかり)で、彼女は作業台の前で立ったまま、書きものをしていた。

 「商売繁盛なのはありがたいけど、ちょーっと最近、忙し過ぎるわよねえ」
 「この間、雑誌に載ったばかりですからね。ほら、『maumau』に」
 「うーん、しゃちょーに頼んで、取材はしばらく断ろうかなあ。最近のお客さんの数は、捌ききれるギリギリだよね。スタッフのみんなに、苦労かけちゃうし」

 贅沢な悩みを口にしながら、灯里は真面目な顔をして、首や肩の辺りを揉んでいる。
 彼女の言う「しゃちょー」とは実の兄のことで、実際にカフェ「ファウスト」の経営母体である会社の、社長でもあった。

 「でも、今日平気だったの〜? 誰かと約束あったんじゃないの〜?」

 赤いフレームの眼鏡の奥で、灯里の賢そうな瞳がわくわく輝いている。

 「えっ?」
 「だってさあ、最近、仕事が終わるとささっと帰っちゃうし、お洋服やメイクも可愛くなっちゃって。これはもう、男しかいないじゃない! みんな、噂してるんだからね!」

 灯里はもうじき五十歳の、夫と三人の子供を持つ主婦でもある。しかしこうやって明るく喋っていると、実年齢よりずっと若く思えてくる。
 それにしても、みんなよく見ているものだ。景はなんと答えて良いか分からず、愛想笑いを浮かべた。
 もし地味だった自分の雰囲気が、少しは華やかに変わったのだとしたら、それはあの悪魔のおかげだろう。青い悪魔、ティンカー・ベルの。
 しかし今、彼の話はしたくない。これ以上、追求の手が伸びるのを恐れて、景は厨房の壁に掛かっている時計を仰ぎ見、わざとらしく言った。

 「あっ、店長! 急いだほうがいいですよ! 一番下のお嬢さんが、塾から帰ってくる時間じゃないですか?」
 「あっ、やべっ!」

 灯里は店長室へ飛び込んだかと思うと、上着を羽織りながら、厨房の入り口に戻ってきた。

 「ごめん、景ちゃん! あとよろしくね! あ、まかないのご飯残ってるから、もし良かったら食べちゃって!」
 「はーい。お気を付けて!」
 「ホント、ごめんねー! また明日ー!」

 灯里が慌ただしく去って行くと、店内はスイッチを切ったように静かになった。シャッターが下ろされて、狭く暗く感じる職場で、景は重く息を吐いた。
 まかないの話を思い出して、炊飯器を開けてみると、白米が一合ちょっと残っていた。
 本日のまかない食は、灯里特製の二色丼だった。甘辛い牛肉のしぐれ煮と、ピリ辛に炒めた高菜を載せた丼である。作業台を確かめてみると、しぐれ煮も高菜も少し残っていた。景はそれらで、おにぎりを作ることにした。持って帰って、ティンカー・ベルに食べさせようと思ったのだ。――もし彼が、まだ自分を待っていてくれたら、の話だが。
 今日もティンカー・ベルは、景の元を訪れる予定だった。しかしあの悪魔が現れるいつもの時間から、もう三時間余りが過ぎている。
 もう帰ってしまっただろうか。だが景は、今日どうしても、まっすぐ家に帰る気にならなかった。いつもどおりティンカー・ベルの顔を見るのが、つらかったのだ。

 昨日ひどい魔法をかけられたことで、景は彼と自分との温度差を思い知った。
 あのあとずっと泣き続けた彼女を、ティンカー・ベルはベッドへ運び、慰め続けた。
いつの間にか眠ってしまった景が起きたときに、悪魔はもう姿を消していた。
 ――くだんのローターを、残したまま。
 だから、目覚めてからすぐの景がやらなければならなかったのは、まずうんともすんとも言わなくなったローターを外し、濡れ汚れた股間を洗い清め、下着を代えて、それから先ほど取り出したローターを綺麗にしてから、中身が見えないよう厳重に梱包し、燃えないゴミの日用にためてあったゴミたちの底へ、隠すように押し込むことだった。起き抜けには、あまりに過酷な重労働である。景にとってこれほど虚しく、メンタルの削られる作業を強いられたのは、初めてのことかもしれない……。

 ベッドで泣いている最中、ティンカー・ベルはやたらと額を撫でてくれていた。そのせいか少しひりひりするおでこに、指先で触れながら、景は自分に言い聞かせる。

 ――別に。別にあんな人……悪魔なんて、好きじゃない。――まだ、好きになってなかったよ。多分。

 そう、居心地が良かったから、恋してしまったような錯覚に陥ったのだ。多分。
 いつも何かに誰かに遠慮してしまう自分が、彼の前では言いたいことを言えて、甘えて、甘えられたから。そういった時間が楽しかったから、だから誤解しただけなのだ。多分。

 ――それだけのことだよ。

 ラップでくるんだ上から力を込めて、ぎゅっぎゅっと白米を握ると、美味しそうなおにぎりが二つできた。




 帰る前に、ゴミを捨てなければならない。歩いて一、二分の、近隣の飲食店が共同で使っているゴミ捨て場へ向かう道すがら、随分足を重く感じて、景は驚いた。
 ここのところ絶好調で、仕事も楽しく、疲れなんて全く意識していなかったのに。それが、この有り様だ。

 ――単純っていうか、私、ティンカー・ベルに、勝手に振り回されてるなあ……。

 鬱々としながら、「ファウスト」所有の小さな駐車場を突っ切って帰る途中、男の声に呼び止められた。

 「おい、そこのブス」
 「はい?」

 ひどい言いように、しかし素直に振り返ってしまう景が悲しい。
 か細い街灯の下に、男がぽつんと一人、立っていた。小柄で小太りで、あまり見た目がよろしくない彼は、最近よく「ファウスト」に通ってくる客である。いつも甘い飲み物を頼み、そして……。

 「水谷 花憐が来なかったか?」
 「えっ」

 人気モデルで、「ファウスト」のお得意様である水谷 花憐は、今日は店に来ていないはずだ。しかし景は彼の問いに答えず、口を噤んだ。
 同僚の姫名の言葉が蘇る。この男は、水谷 花憐のストーカーかもしれない、と……。

 「お客様のプライバシーに関わることですので、お答えできません」
 「なんだと?」

 今にも飛び掛ってきそうなほど、険のある表情で睨まれて怖かったが、景はなんとか勇気を振り絞り、引かなかった。
 男に楯突いたとおり、プライバシー云々もそうだったが、なにより景は水谷 花憐が好きなのだ。自分の作ったパンケーキが美味しいと、微笑んでくれた彼女を、守ってあげたかった。
 男の値踏みするような目線が、景の額に止まった。

 「やっぱり、気のせいじゃなかったのか。昨日、そうじゃねえかと思ったんだが。
 ――お前、悪魔憑きだな?」
 「!」

 男は薄い唇を歪めて笑うと、芋虫のような指をパチンと鳴らした。直後、景は耳鳴りに襲われた。キーンと高い音がして、たまらず耳を押さえている間に、周囲に変化が起きた。いや、見た目は何も変わっていない。辺りの景色もそのままだ。だが、空気の流れが途絶えている。まるで透明な檻に閉じ込められたかのようで、妙に息苦しかった。

 「なにこれ……?」

 不安げに周りを見回す景に、男は不気味な笑いを浮かべながら、答えた。

 「結界を張った。俺たちの姿も声も、周囲には見えないし、聞こえない」

 「けっかい」。リアルでは、初めて聞く言葉だ。漫画やアニメでは、散々出てくるが。
 妄想癖を患っていないのであれば、目の前のこの男は、特殊な能力を持っていることになる。そして景は、男が「悪魔憑き」と自分の正体を口にしたときから、彼が何をしようともさほど驚かない、そんな心構えができていた。
 景が何者なのか分かるのならば、この男も、彼女が先に出会った不思議な生き物――悪魔と、そう変わらぬ性質の存在だろうからだ。

 「その印、ティンカー・ベルだろ。お前、あいつのお手つきか。
 あいつは生意気なことに、味にうるさい。お前、相当美味い精気の持ち主なんだろうな。一口喰わせろよ」

 男が腕を伸ばしてくる。後退ると、背中が固いものに当たった。目に見えないのに、背後には確かに壁がある。これでは逃げられない。気が逸れたところを、景は男に捕まってしまった。

 「いや……っ!」

 掴まれた腕が熱い。腹の底から何かが、持ち上がっていく。クラクラと目眩がした。
 景が倒れる寸前、しかし男は絶叫を上げた。

 「まっずううううううう! うええええええええ!」

 景から手を離すと、男は地面に頭を向けて、おえおえとえずいている。
 唖然としている景を、男は吐き気を堪えながら、涙目で見上げた。

 「お前ええええ! なんだ、そのクッソまずい精気は! 俺を殺す気か!」
 「えっ!?」

 先ほどの接触で、男は景の精気を吸ったというのか。しかし精気を吸うには、「口からじゅるじゅると吸う」んじゃなかったのか。ティンカー・ベルは、そう説明してくれたが。

 そして、そう――。

 ティンカー・ベルは、景の精気は美味しいと、吸うたびに褒め称えてくれたのに。あの賛美はなんだったのか。

 何がなんだか分からなくなって、おろおろと狼狽えている景を前に、男は一人で勝手に結論を出し、納得し始めた。

 「お前、そうか……。その味は、そういうことか……! ティンカー・ベルは、何を企んでいる!?」

 男の全身が黒く霞んだかと思うと、太ましかった体型が更に膨らみ始めた。その身には、なにか小さな生き物が集(たか)っている。どうやらそれは虫――ハエのようだ。
 男の体は膨張を続け、やがて縦にも横にも倍以上の大きさになると、彼にまとわり付いていたハエたちが、一斉に飛び立った。景は男が膨らみ過ぎて、破裂したのかと思った。
 虫たちはブーンと聞き慣れた耳障りな音を残し、すぐに塵のように消えた。それらが消滅したあとに残ったのは、まるで彼らの親のように巨大な、一匹のハエであった。

 「ひっ……!」

 あまりに醜い、本能的に嫌悪感を催す異形の怪物を前に、景は立ちすくんだ。

 「今ここでお前を殺せば、『あいつ』の誕生を阻止できる……!」

 巨大な蝿は腕、いや足を払った。彼の発した衝撃は、禍々しい黒色の強風となり、景に襲いかかった。

 ――殺される……!

 為す術もない景を、誰かが後ろへ強く引く。景はよろけて、尻餅をついた。
 背後には結界とやらの壁があったはずなのに、どうして出て来られたのだろう? 景は不思議に思った。そう、確かに壁はあったのだ。
 地面に尻を付けたままの彼女が瞬きする間に、目の前が白く染まったかと思うと、ひび割れたガラス板のように、崩れ落ちた。
 この壁が壊れたのは、あの蝿男が放った何かのせいだろうか。自分に当っていたらどうなっていたのだろうと、景はゾッとした。

 「ケガはしていないな?」

 真上から声がして、景は慌てて頭を上げた。

 「ティンカー・ベル……!」
 「もう大丈夫だ」

 青い肌に、ダークグレーのスーツ。いつもどおりの颯爽とした姿で、景に微笑みかけると、ティンカー・ベルは、いまや破壊された結界の中で佇む巨大な蝿に、向き直った。

 「お前……! 人様の結界を見付け出した挙句、干渉しやがって……!」
 「我は昔から、目がいいのでな。久しぶりだな、ベルたん」
 「その呼び方はやめろ! 大体お前だって、ベルじゃねえか! 俺のことはきちんと、『ベルゼブブ』様と呼べ!」
 「このあだ名を、お前は好んでいなかったか? ベルたん」
 「俺様をたん付けしていいのは、嫁だけだ! 二次元のな!」

 蝿男は轟くような大声で怒鳴っているのに、すぐ側を通り過ぎていく通行人たちは、こちらを見向きもしない。どうやらまた新たな結界の中に、景たちはいるようだ。
つづく