おなかいっぱいの恋・7



 漬物石ほどはある大きな赤い複眼と、樹の幹のようにガサガサの胸部。一対の羽に、足は全部で六本ある。針金のようなそのうちの二本を使って、大地に立つ。
 恐ろしいというよりも、おぞましい。その悪魔の名は――。

 「べるぜぶぶ……。どこかで聞いたことがあるかも……。ゲームとかに、よく出てこない?」

 ぺたりと地面に尻を付けたまま、気が抜けたように、景はつぶやく。

 「悪魔としては、ありふれた名だからな」

 どこかうっとりと、ティンカー・ベルは頷いた。
 「ありふれた」ということは、悪魔の世界において「ベルゼブブ」というその名は、こちらでいうところの「太郎」とか「一郎」といった、平凡なそれに該当するのだろうか。だから、いわゆるキラキラネームを付けられてしまったティンカー・ベルは、ベルゼブブが羨ましいのだろうか。

 景は立ち上がり、よろよろとティンカー・ベルの後ろに隠れた。ティンカー・ベルも当たり前のように、彼女を庇う。
 シワひとつ寄っていない、上等な仕立てのジャケットを着た大きな背中は、景にとってどんな壁よりも盾よりも、頼り甲斐があった。

 「ティンカー・ベルは、な、なんでここに?」

 ティンカー・ベルの腕に縋りながら、景はずっと高いところにある、彼の整った横顔を見上げた。

 「昨日、お前のその額の印に触れたとき、別の悪魔の気配がしたからな。今日は一日、お前を見張っていたのだ」
 「あ、そういえば、この額の印って……!」

 そうだ。額の刻印について、まだ何も聞いていない。質問を重ねようとする景の頭を、ティンカー・ベルは撫でた。

 「詳しい話は、またあとでな。しばらく我の後ろで、おとなしくしていなさい」

 そしてティンカー・ベルは、ベルゼブブに向き直った。
 ティンカー・ベルも長身だが、蝿と化したベルゼブブは更に大きい。三メートル以上はあるだろう。

 「さて、ベルゼブブ。お前も仕事中だろう? 我らに構っていていいのか?」

 親しみを込めて微笑むティンカー・ベルを前に、蝿男は苛立ちを募らせている。まるで長い間追っていた仇敵に、出くわしたかのようだ。

 「てめえには関係ないだろうが! それよりお前、そのクソ女はなんなんだよ! お前はそいつに憑いて……!」
 「……………………」

 ティンカー・ベルは口元に笑みを湛えたまま、黙ってベルゼブブを見詰めた。迫力ある目線を向けられて、ベルゼブブはつい言いかけた言葉を飲み込んでしまう。そしてそれ以上、話し続けることができなかった。
 そんな自分を不甲斐ないと思ったのか、蝿の悪魔はますますいきり立った。

 「〜〜〜とにかく、気に食わねえ! ぶっ殺してやる!」

 ベルゼブブは膨らんだ大きな体とは不釣り合いの、左右の細い手を、交差させるように払った。その手の先からは先ほどと同じ、しかし威力は増した黒色の衝撃波が繰り出される。それとほぼ同時に、ティンカー・ベルの手には、どこから出したのか、うちわが握られていた。なんの変哲もない、夏になればその辺で配られるような、ただのうちわである。
 ティンカー・ベルはそれを右手に構えると、まるでテニスのラケットでも振るかのように、美しいフォームでスイングした。
 まっすぐ襲い掛かってきた黒色の衝撃波と、うちわはぶつかり、そして衝撃波はあっさり消えてしまった。

 「えっ!」
 「えっ?」

 ティンカー・ベルの背後から覗き見ていた景も、そして攻撃手であるベルゼブブも、これにはぽかんとなった。

 「相変わらず、人をバカにしやがって……!」

 やがて我に返ったベルゼブブは、頭の複眼を更に赤く染めて、ブルブルと震え出した。激怒しているようだ。
 彼にしたら、確かに腹が立つだろうし、ショックだろう。名のあるマジックアイテムならいざ知らず、たかがうちわで、自分の渾身の攻撃をかわされてしまったのだから。
 怒りに囚われ生じた蝿男の隙を見逃さず、ティンカー・ベルは彼との間合いを詰め、跳躍した。うちわを頭上高く掲げると、今度は刀を振り下ろすかのように、ベルゼブブの脳天を打つ。その瞬間、蝿の悪魔の巨体は消え失せてしまった。まるでイリュージョンのようだ。

 「あれ? あの人、どこに行ったの?」

 唖然としている景に、ティンカー・ベルはニヤニヤ笑いながら、うちわの表面を見せた。目を凝らしてようやく気付くほどの、黒い点がある。まじまじと眺めてようやく、それが潰れた虫――蝿だと分かった。

 「あっ……」

 景が気の毒そうな顔をして口を押さえると、ティンカー・ベルはふっとうちわに息を吹きかけた。潰れた蝿はひらひらと落ちていく。地面に当たると同時にそれは、冴えない小太りの男だった、人型のベルゼブブに戻った。
 ベルゼブブは、手足をついた四つん這いの格好で、憎々しげな面を持ち上げた。

 「デタラメな強さしやがって……! だからてめえは大嫌いなんだよ! クソガキが!」

 ベルゼブブは見た目大きく、凶暴で、とても強そうに見えたのに。
 彼とティンカー・ベルの勝負があっという間に終わったことが、景はどうにも信じられない。というより、普段暢気なティンカー・ベルが、あんなに強いなんて。

 「我ら悪魔は、生まれ出たそのときから、能力の優劣が定まっていてな。それは生涯変わらない。悪魔同士の戦いは、努力や根性でなんとかなったりはしないのだ。
 ま、このベルゼブブも、決して弱い悪魔というわけではない。単に我が、こいつより強いだけだ」
「うるっせえな!」

 怒鳴ったものの反論しないところを見ると、ティンカー・ベルの淡々とした説明は正しいらしい。
 人としてはかなり劣る容姿ではあるが、それでも蝿よりはだいぶマシな、ニキビの浮いたベルゼブブの顔を、ティンカー・ベルは見下ろした。

 「何度やり合っても己の弱さを理解できない、多分に人間に影響されたお前の愚かさを、我は嫌いではない。またいつでも相手をしてやろう。
 ――だが、この女は巻き込むな。
 大蔵田 景は、我の大事な贄だ。今度同じことをしでかしたならば、我はお前を殺す」

 決然と言い放つティンカー・ベルを見て、ベルゼブブの顔に戸惑いが浮かんだ。

 「同胞を殺してでも守ろうとするほど、そのクソ女が大事なのか。――分からん。お前は一体何を考えているんだ」

 そう返すのが、精一杯のようだ。
 ところで、ティンカー・ベルの言う「贄」とは、エサのことだろうか。

 ――ああ、遂にきっぱり言われてしまった。

 彼にとって、景はエサに過ぎない。特別な感情などないと、宣言されたようなものだ。

 ――でも、ただのエサじゃなくて、「大事な」エサだって言ってもらったもんね。

 そう思ってから、そんなことで喜んでしまう自分が、景は嫌になる。
 ともかく、エサならエサでもういいが、しかし――。ベルゼブブは、先ほど景の精気を吸った際に、「まずい」と連呼し、吐き気まで催していた。あの様子が演技とは思えない。そんな景の精気を絶賛する、ティンカー・ベルとは。

 ――もしかして、味オンチなんだろうか。

 そうだとしたら、今まで美味しそうに平らげてくれていた景自慢の手料理も、実はたいしたことはないというか、もしかしたら一般的には不味いということもあり得るのではないだろうか……。
 唯一の特技に対する自信が揺らぎ、混乱する景の目の端で、何かが点滅した。何だろうと光の方向を確かめると、カフェ「ファウスト」の厨房に、明かりが点いているではないか。景がゴミ捨てに行く際は、いつもの癖で、確かに電気を消したはずだ。客席側の出入口にはシャッターを下ろしてあるから、客が間違えて入ってくるということもないだろう。――と、いうことは。

 「泥棒!?」

 慌てた景は、「ファウスト」に向かって突進した。結界の壁にぶち当たるが、彼女は難なくそこを突き破り、駆け出す。
 悪魔二人は、その場に取り残された。

 「上級悪魔ティンカー・ベルの結果を破るとは、お前の贄って……」

 ベルゼブブは立つことも忘れて、店に飛び込んで行った景に、目を奪われている。

 「うむ。本当はあいつに、我など、必要ないのだ」

 そう答えるティンカー・ベルの口調は、冗談なのか本気なのか分からなかった。


つづく