おなかいっぱいの恋・9



 ひとしきり食べて、喋って、元気になった水谷 花憐は、家へ帰した。それから後片付けをして、景は悪魔二人とカフェ「ファウスト」を出た。
 深夜零時近くとあって、人通りはほとんどなく、狭い道を進むので、車も来ない。
 景とベルゼブブが先を歩き、その少し後ろを、景のママチャリを引いたティンカー・ベルがついて来る。

 「あの……。あなた、まだ花憐ちゃんに付き纏うの?」

 景は、隣を歩くベルゼブブの、顔色を伺うように尋ねた。
 この蝿男と契約した人間、すなわち神戸 あすなは、水谷 花憐を醜く貶めることを願ったという。しかし花憐は、相変わらず可愛い。その美貌が損なわれるまで、ベルゼブブは彼女に纏わり付くつもりだろうか。

 「はあ? 俺はしっかり仕事をやり遂げたじゃねえか」
 「え? だって……」
 「お前、どこに目ぇ付けてんだ? あの花憐って女、すっげえブサイクになってたじゃねえか」
 「え? え?」

 あんたこそ、どこに目が付いているのかと、景は聞き返したくなった。
 ベルゼブブは花憐に「暴食」の呪いをかけて、太らせようと企んだという。そして確かにこれからの花憐は、もう少し自分に甘くなって、己に課していた食事制限を緩めるかもしれないが、彼女が見苦しいまでに太るとすれば――景はそんな日は来ない気がするのだが、ともかくそれは、まだかなり先の話だろう。現在の花憐は、まだかなり痩せている。
 腑に落ちない顔をしている景に、ベルゼブブは自分の口元を指して見せた。

 「あの女、ここに、でっかいニキビが出来てただろう? ありゃ、ストレスだぜ! 俺の追い込みが効いたんだな! ひでえブスになっちまってただろ?」
 「ニキビ? そんなのあったっけ?」

 景は記憶を辿る。花憐の顔に、そんなニキビなど、あったような、なかったような、あったような……。
 そういえば「ファウスト」で、隣に座ってお喋りしたときに、彼女の顎に赤い発疹のようなものが、ぽつんと出来ていたような……。こうやってあえて言われなければ意識しない程度の、本当に小さくささやかなものだったが。

 「そんなテキトーな感じで、お客さんは納得してくれるの〜〜〜?」

 同じ客商売ということで、景はつい責めるように問い質してしまったが、これではどっちの味方なのか分からない。

 「いーんだよ。もう一つの願いもバッチリ叶えてやったんだからよ、そこは総合的に見てもらうさ」

 ベルゼブブはフレームの太い眼鏡をずり上げながら、静かに続けた。

 「花憐も覚悟を決めたみたいだし、これからはくだらねえ仕事は断るだろうよ。そうやって、本当に自分がしたいことをし始める。目に見える形での露出は減るだろう。それが、俺の契約者からは、落ち目に見えるはずだ。『水谷 花憐を表舞台から引きずり下ろせ』っていう願いは、見事叶ったってわけだ」
 「なるほどね……」

 別の目標のために花憐が退き、全てが丸く収まるなら、それが一番いいのかもしれない。
 神戸 あすなの歪んだ欲望が満たされるのは、少々納得いかないが……。

 ところで、水谷 花憐はこののち服飾関係の勉強に専念するため、芸能界からは引退。その二十年後、彼女が代表となって設立したファッションブランドは大好評を博し、世界のモードに多大な影響を与えるまでとなるのだが、それはまた別の話である。

 「ベルゼブブさんて、いい人だね」

 景はしみじみつぶやいた。
 結局この蝿男は、呪いの対象である水谷 花憐を害するどころか、無茶をしないか無理をしないか、ストーカーに間違われるほど親身になって、彼女を見守っていたことになる。当の花憐は、最後まで全く気付いていなかったようであるが。

 「うるっせえな。大体、俺は人じゃなくて、悪魔だっつーの。
 ――そろそろ行くぜ。神戸 あすなから、俺の嫁のDVDを受け取らねーとなんねえからな!」

 ふんと大きく鼻息を吐き出すと、脂肪のたっぷりついた彼の丸い背中に、虫に似た透明な羽が現れる。ブーンと不快な羽音を立てて、ベルゼブブは飛び立った。

 「またな、ベルたん」
 「さよなら、ベルたん」
 「たん付けするんじゃ――」

 よっぽど急いでいたのか、ベルゼブブの文句は、終わりまで聞こえなかった。




 景のアパートまで、あともう少しのところに来た。
 道はますます細くなり、まばらな街灯で照らされるだけの辺りは暗い。普段ならば不安を覚えるところだが、今日は同伴者がいて、それも人ならざる者、しかもかなり強い悪魔が一緒だから安心である。

 「ベルゼブブさんて、なんだか不思議な悪魔だね」
 「あれは、あの女に惚れていたな」

 ベルゼブブが去り、空いた景の隣へ、ティンカー・ベルは自転車を押しつつ、進んだ。

 「惚れてた? 花憐ちゃんに? でもベルゼブブさん、二次元がどうのこうの言ってたのに」
 「あの男は、素直じゃないからな」

 悪魔の引く自転車から、カラカラと、チェーンの巻かれる音がする。

 「悪魔はな、前向きで努力家の人間が大好きなのだ。だから手を貸してやりたくなって、しかしやり過ぎてしまう。まあ、我らはつまり、お節介なのだな」
 「……………………」

 景は悪魔が出てくる童話や、御伽噺を思い出していた。
 悪魔に関わった登場人物はろくな目に遭わず、大抵悲惨な結末を迎えている。それにはティンカー・ベルが言うような側面、つまり悪魔側の力が過剰だったからということも、確かにあるかもしれない。ならば、ほどほどに頼れば、ほどほどの結果に落ち着くのだろうか。
 景は、ティンカー・ベルが妙に細かく、願いごとの詳細を詰めてくる理由が、なんとなく分かった気がした。やり過ぎないように、景の望む範囲から逸脱しないように、全てを台無しにしないようにと、細心の注意を払っているのだろう。
 そして景には、聞きたいことがあった。
 ベルゼブブが本当に、水谷 花憐に恋心を抱いていたのだとしたら――。

 「――悪魔も人を好きになったりするの?」
 「人と悪魔の心のありようは、近い。そんなこと、しょっちゅうだ」

 ティンカー・ベルはあっさりと答えた。

 ――じゃああなたも、人を好きになることはあるの?

 続けて聞いてみたかったが、景が躊躇している間に、話題はベルゼブブのことに戻ってしまった。

 「ああ見えて、ベルゼブブは面倒見がいいんだ。長く生きているから、知識も豊富だしな」
 「長生きって、あの人いくつ?」
 「確か三百歳は越えている」
 「おお、悪魔っぽい」

 人間の姿のときの、オタク然としたベルゼブブは、三十手前の青年に見えるが、蝿男と化したときの彼は、確かに三百年だとかそういった長い年月を生きていると言われても納得の、禍々しさを漂わせていた。

 「ん? じゃあティンカー・ベルは何歳なの?」
 「多分、今年で二十二になる」

 軽く尋ねたら、軽く返ってきた悪魔の答えに、景は驚愕した。

 「にじゅうに!? 二十二万歳とか、二十二億歳とかの間違いじゃなくて!?」
 「失礼な。我はそんなに老けているのか?」

 自転車のハンドルから片手を離して、ティンカー・ベルは自身の青い頬を撫でている。
 いや、お肌だってまだピチピチだし、顔つきも体つきも若々しいし、言わてみれれば確かに、年寄りだと思わせるような衰えた箇所は、欠片も見付けられないのだが。
 しかし悪魔という特殊な生き物であることと、妙に落ち着いている言動や行動は老成していて、だから景は彼が自分より遥かに年上なのだと思い込んでいた。

 「私と二つしか違わないの……」

 その事実に愕然としながら、景はふらふらと歩いた。
 すると突然、くうと間抜けな音がした。ティンカー・ベルの腹の音である。

 「腹が減った……」
 「あ」

 きっと彼は、景の作る晩御飯をあてにして、何も食べていなかったのだろう。しかし、お土産にと握ったおにぎりは、先ほど可憐に食べさせてしまった。

 「コンビニでも寄って行く?」

 しかしティンカー・ベルは首を横に振り、自転車を近付けて来た。

 「精気が欲しい」

 景は悪魔が近寄った分、一歩引いた。しかしティンカー・ベルは懲りずに、自転車で突っ込んでくる。
 景の頭の中には、ベルゼブブとの一件がこびり付いている。彼のあの、「不味い」という絶叫が忘れられなかった。

 「わ、私の精気、美味しくないって言ってたよ……!」
 「ベルたんには、味の違いが分からないのだ」
 「う、嘘だあ……!」

 ぐいぐいと自転車の先に押されて、景は道の端に追いやられてしまう。ティンカー・ベルは、景をまっすぐ見下ろした。

 「ベルゼブブや他の悪魔がどう言おうと、我はお前の精気が大好きなのだ。それではダメか?」
 「……………………」

 何も言えなくなってしまった景に、ティンカー・ベルは顔を近付ける。間に自転車を挟んで、二人は唇を重ねた。

 「不味い。もう一回」
 「バカ……」

 つい笑ってしまった景の頬や額に口づけながら、ティンカー・ベルは尋ねた。

 「ベルゼブブの奴にだいぶ吸われたようだったが、大丈夫か?」

 そういえば、ベルゼブブに触れられた瞬間、目眩がした。

 「うん、今は平気」
 「ならばいいが。――まったく。今度奴に会ったら、羽を毟っておこう」
 「いやいや、せっかくのお友達なんだから、仲良くしなよ」

 自転車のハンドルを握るティンカー・ベルの大きな手に自分のそれを重ねて、ベルゼブブに会って知ったもう一つの疑問を、景は口にした。

 「別にこんな風にキスしなくても、触るだけで、精気は吸い取れるみたいだけど?」
 「せっかく可愛い女の子に口づけできるチャンスを使わないなんて、我はそこまで間抜けではない」
 「かっ……!」

 景は顔を真っ赤にする。
 本当に本当に、悪魔は、悪魔という生き物は、こういうことをさらっと言うから困るのだ。

 その言葉に深い意味なんてない。彼にとって自分は、ただのエサだ。目を覚ませ。しっかりしろ。ていうか、本当は何考えてるの、この悪魔!?
 頭の中で、何人もの景が声を張り上げている。

 それでも。
 景は青い悪魔に、引かれて惹かれて、墜ちていく。

 再び深く口づけてから、名残惜しげに、二人は離れた。
 ティンカー・ベルは右手で右の、景は左手で左のハンドルを持ち、片方の手は共にサドルに置いた。悪魔の手は温かい。
 晴れ渡った夜空の下、二人は一緒に自転車を押して、帰った。


〜終〜