その女、悪魔憑きにつき・4



 アルバイトを終えて自宅に帰り、座卓を挟んで互いに腰を下ろすと、開口一番悪魔は言った。

 「お前の願い、引き受けよう」
 「えっ、いいの?」

 飯島 大吾と引き合わせてから、とはいえ向こうに気付かれないように覗いていただけだが、ティンカー・ベルはずっとむっつり黙り込み、難しい顔をしていた。だから景は、「大吾と親しくなりたい」という自分の願いごとを、断られると思っていたのだ。

 「成功するかどうかは分からんが、ともかく、手助けをしてやろう。
 というのはだな、例えばあの男に恋人や妻がいた場合は、お前の願いを叶えてやるのは無理だ。
 もっとも、別の女から略奪してでも想いを成就させたいなら、話は別だがな。むしろそれくらい乱暴なことをしてもいいなら、そっちのほうが楽だ」
 「そ、そこまではしなくていいよ!」

 景はぶんぶんと首を横に振った。
 飯島 大吾のことは好きだが、彼の周囲を不幸にしてまで、自分の想いを遂げようとは思わない。

 「まあ、女の影は感じないが。あのあと、奴のFBやツイッターも見てみたが、見事に自分のことばかりだ」
 「よくそんなの見付けたね……」

 さすが悪魔というべきだろうか。ティンカー・ベルから、貸していた自分の携帯を受け取り、景は画面に表示されている大吾の書き込みを読んだ。
 大学に通い、服や小物を買いに行き、美味しいものを食べて、友達と遊んで……。楽しい毎日を送っているようだが、たいしたことはしていないようだ。ご丁寧にもいちいち写真まで添えられた、彼の薄っぺらい行動記録は、読者の目を過分に意識して書かれているような印象を受けた。まるでどこかの誰かと、どちらがより充実した生活を送っているのか、競争でもしているかのようだ。
 ところで景のバイト先である「ファウスト」は、時々マスコミに取り上げられるような、オシャレなカフェだ。それについても大吾は、SNS上で、「僕の行きつけの店」と紹介していた。彼が「ファウスト」に現れるようになってから、まだ一週間も経っていないのだが……。
 いつも、通りからよく見える窓際の席に腰を着けて、必死に打っているスマートフォンから、こんなことを発信していたのか。流行の最先端を歩きたがるが故に、後追いしかできない滑稽さを、景は大吾に感じてしまう。

 「でも、いい人なんだよ、飯島くん。私ね、実は中学時代、苛められてて……。女子にも男子にもひどいことをされたのに、飯島くんだけは何もしなかったの。こっそり話しかけてくれたり、優しく気遣ってくれたりもしたし」
 「そうか。――それより、報酬の件だが」

 義務感に駆られて、初恋の人のフォローをしようとする景を、ティンカー・ベルはあっさり遮った。

 「報酬……」

 景はごくりと唾を飲んだ。悪魔と契約し、その報酬として何を要求されるかといえば、恐ろしい予感しかしない。
 ティンカー・ベルは値踏みするように、景を眺め回した。

 「腎臓一個でどうだ?」
 「……………………」

 思ってもいなかった生々しい提案を受けて、景は反応に困った。

 「……あの、ティンカー・ベルは、本当に悪魔なんだよね? その筋の人じゃないんだよね?」

 どちらも闇の世界の住人ではあるだろうが、ティンカー・ベルは、悪魔などというファンタジーな生き物よりは、その巨体や凶悪な顔つきからして、クスリや銃を売ったりする反社会的勢力の一員だといわれるほうが、しっくりくるような気もする……。


 「貰った腎臓を、別に売り飛ばすわけじゃないぞ」
 「じゃあ、どうするの?」
 「――喰うのだ」

 尖った犬歯を見せて、ティンカー・ベルは笑った。景の背筋がぞっと凍る。

 「人肉は美味いぞ。特にホルモン系は特に」
 「うわあ……」

 網の上に乗せた肉が焼き上がるのを待つように、ティンカー・ベルは景をうっとりと見詰めている。

 ――こわい! でも……!

 浮きかけた腰をしっかりと座布団の上に据えて、景はきりっと凛々しく答えた。

 「――分かった。うまくいったら、腎臓でも肝臓でもあげる」
 「肝臓はひとつしかないから、大切にしろ。それにしても軽いな。お前、腎臓を舐めてないか?」
 「舐めてないよ! それくらい私にとっては、今回のことは大切なの! だから、しっかり手伝ってね」
 「心得た」

 重々しく頷くティンカー・ベルに、景は疑問をぶつけてみた。

 「ところで内臓以外だったら、どんなものを要求するの?」
 「まあ、あとは、精気をいただいたりするな」
 「そっちのほうが負担が軽そうだなあ……」

 精気というのが具体的にどういうものなのか、体力や気力とはどう違うのかピンとこないが、大切な内臓を奪われるよりはマシな気がする。

 「我の判断が不満か?」

 機嫌を損ねたら、話がまとまらなくなるかもしれない。景は急いで話を変えた。

 「いえいえ。ところで、腎臓ってどうやって取るの? やっぱり、お腹を裂いたりするの?」

 自分で言っておきながら、それはかなり痛そうだ。思わず景は、腹部を押さえた。

 「知りたいか?」

 ティンカー・ベルはひょいと座卓の向こうから身を乗り出し、大きな両手を、景の頬の左右に置いた。青い肌から受ける印象から、てっきり彼の肌は氷のように冷たいのかと思っていたが、そんなことはなく、とても温かかった。景と全く変わらない。

 「直接、口から吸うのだ。精気もそうだな。じゅるじゅる〜っと」
 「じゅるじゅる〜っと……」

 息が当たるくらいの距離に、悪魔の顔がゆっくり近付いてくる。景は動けなかった。
 内臓を口から吸い出されるという恐ろしい事実に、慄(おのの)いているというよりも、単に目を奪われている。
 ティンカー・ベル。この悪魔は本当に男性的な、精悍な顔だちをしている。

 「こんな風にな」

 ちゅっと音を立てて、ティンカー・ベルは、景の唇に口づけた。
 ――何が起こったのか分からない。景が正気に戻ったのは、悪魔が既に体を引っ込めたあとだった。

 「な、なななな……!」
 「美味だった」

 後味を確かめるように、ティンカー・ベルはぺろりと自らの唇を舐めた。

 「ひ、ひどいよ! 初めてだったのに!」

 景は顔を真っ赤にして叫ぶ。男の大きな唇の感触が、自分のそこにまだ残っていた。体中が熱くて、燃えてしまいそうだ。
 しかしティンカー・ベルは謝りもせず、さっさと次の話題を切り出した。

 「では、さっそくだが」

 悪魔の指先から、手品のように、パッと何かが現れる。左手からは本が、右手からは何やら細かい小物が出てきた。

 「だらだらと先延ばししても仕方がない。明日から動くとしよう」

 ティンカー・ベルは取り出した本を開いて、景に差し出すと、あるページの一角を指さした。

 「メイク方法について、ここ最近の中では、この雑誌のこのコーナーが一番分かりやすく説明している。面倒がらず、アイラインもちゃんと引け。ファンデも、お前はせっかく肌が綺麗なのだから、もうちょっと薄付きのものに変えたほうがいい」
 「う、うん……」

 男を落とすならば、まずは見た目ということか。身だしなみに手抜きをしている自覚があったから、景は素直に頷いた。

 「あとは適宜に我が指示を出すから、お前はそれに従えばいい」
 「指示って、ティンカー・ベルは近くにいてくれるの? でもあなたがいたら、怪しまれない?」

 景は、きっちり正座しているティンカー・ベルを、じろじろと眺めた。こんな大男が近くにいれば、誰だって警戒するに違いない。

 「変装する。悪魔はな、皆、仮の姿を持っているのだ。お前らが化身という、あれだな。我の場合は、姿を熊に変えることができる」

 クマと聞いた途端、景の目は輝いた。テディベアだとか、蜂蜜好きで有名な例のクマだとか、どれもこれも大変可愛らしいではないか。

 「見たい見たい!」
 「しょうがないな」

 ニヒルにふっと笑うと、ティンカー・ベルは立ち上がった。低い声で何やらごちゃごちゃと呪文を唱えると、彼の全身は煙に包まれる。白い煙が晴れると、そこには一頭のクマがいた。
 しかし――クマといえばクマなのだが、というより、本来は今ここで現れたものこそが、熊としては正しい姿なのだろうが。ともかく、景が想像していたものとは、かなり異なっていた。

 ――ティンカー・ベルが変身したのは、ヒグマだったのだ。

 「ぎゃ、ぎゃああああああ!!」

 景は絶叫する。
 熊の中では最長の大きさを誇るそれは、頭が天井にしっかり付いてしまっている。元の肌と同じ真っ青な色をした体は、あまりに強靭でたくましい。まさに、最強の獣である。この獰猛な生き物の爪や牙に、毎年多くの人間が犠牲になっているのだ。

 「がおー」

 一本調子で吠えながら、ティンカー・ベルはその太い腕をぶんぶんと振った。

 「やめてやめて! 洒落にならない!!!!」
 「なかなか強そうだろう」

 腕をだらんと前に垂らして、ヒグマは仁王立ちになっている。部屋の隅に逃げた景は、震える声で怒鳴った。

 「そんなのがいたら、目立つに決まってるでしょ!? てか猟友会の皆さんが、出動しちゃう!」
 「むう」

 次の瞬間ヒグマ、いやティンカー・ベルは、みるみる縮み出し、あっという間にバスケットボールほどの大きさになった。

 「これならどうだ。ぬいぐるみで通るだろう」
 「……………………」

 景はおずおずと四つん這いになって近付き、得意気に片手を上げているティンカー・ベルを持ち上げた。ずっしりと重いが、持ち運べないことはない。

 「うん。これなら、カバンに入れて運べる……」
 「よし」
 「最初から、このサイズで現れてよね……」

 文句を、景は途中で打ち切り、ティンカー・ベルをじっと見下ろした。
 今の彼は、二頭身しかない。つぶらな黒い瞳に、小さな鼻と口。耳は丸く、時折ぴくぴく動く。艶やかな青い毛で覆われた手足は短く、ふっくらとしている。
 どうしても我慢ができず、景はぎゅっとティンカー・ベルを抱き締めた。

 「ああ、もう、可愛いなあ! 可愛いなあ! 悪魔のくせにい!」

 激しく頬ずりをしていると、ティンカー・ベルの短い腕が、景の鼻先を押さえた。

 「そこまでだ。我を愛でたければ、ホットケーキをよこせ」

 声だけは太く低いままで、ティンカー・ベルはぴしゃりと命じた。

 「もう、もう! 可愛いと思って! ずるい!」
 「可愛いは正義である」

 景は悔しそうに唇を噛みながら、台所に走り、いそいそと調理を始めた。

 「バターと蜂蜜はたっぷりな」

 せっせと働く景の背中にそう言葉を投げかけると、動くぬいぐるみと化したティンカー・ベルは座卓の上によじ登り、ゴロリと寝そべって、テレビを見始めた。


つづく