その女、悪魔憑きにつき・5
いよいよ決行の日がやってきた。
朝から落ち着かず、景はそわそわと一日を過ごしている。バイト先のカフェで、来客を告げるチャイムが鳴るたびに小さく飛び上がり、目的の人物でなければホッと胸を撫で下ろして、オーダーを取る。そんなことを繰り返しているうちに、十六時になった。
いつもの時間、飯島 大吾はカフェ「ファウスト」に現れた。彼は、いつものとおりアメリカン・コーヒーを頼むと、いつものとおり窓際の席に進んだ。
店内の客はまばらだった。同僚に声をかけてから、景は客席の清掃に出る。そして、ひとつひとつ机を拭きながら、じわじわと大吾の元へ近付いていった。
もうちょっと、もう一席で……。緊張のあまり、景は濡れた柔らかいダスターと、その下の硬い板の感触も分からなくなっており、渾身の力で机を磨く。
「机が割れるぞ」
短い手にポンポンと腹を叩かれ、景は我に返った。見れば、カフェテーブルの天板は、宝石のようにキラキラと輝いている。
深呼吸をして、どうにか大吾の後ろに立った。
――うわああ、うわああああ……! ちょ、ちょっと、もう一回出直そう……!
結局怖気付き、引き返そうとした足は、しかしその場に縫い付けられたように、動かなかった。
「もしかして、飯島くんじゃなあい?」
景の口は勝手に開き、他人のような声が飛び出した。大吾がスマフォ片手に振り向く。不審そうな目がちらりと下がり、彼はまず突然話しかけてきた店員の、黒いカフェエプロンを注視した。
――カフェの店員が、腹に青いクマのぬいぐるみを仕込んでいるのは、いかがなものか。
だがとりあえず何も言わず、彼は視線を景の顔に戻した。
「覚えてないかな? 私、大蔵田 景だよ。中学、一緒だったよね」
「ああ……」
しばらく沈黙した大吾は、それでも景のことを完全に忘れたわけではないようだ。今彼は、記憶を収めているハードディスクを、検索しているところだろう。
「そうそう、大蔵田さん。覚えてる、覚えてる。久しぶりだね」
思い出したところで警戒を解いたのか、大吾は表情を緩めた。
「ホント、久しぶりだよね」
「うんうん」
「懐かしいよねー……」
何か言わないとと思うのだが、焦れば焦るほど、次の台詞が出てこない。昨晩からずっと、あれほどシミュレーションしたというのに。
景は自身のエプロンの、大きな前ポケットを見下ろした。そこにちょこんと収まっている青いぬいぐるみの頭が、まるでため息でも吐くかのように、小さく揺れた。次の瞬間、景の口は、また滑らかに動き出した。
「私、ここでバイトしてるんだ。あとちょっとで終わるんだけど、良かったら、このあとご飯でも行かない?」
「うん、いいよ」
突然の誘いにも関わらず、大吾はあっさり了承してくれた。
「じゃあ、またあとでね」
景は軽く手を振ると、大吾に背中を向けた。あれほど重かった彼女の足取りは軽やかになり、うきうきと今にも踊り出しそうだ。
カウンターに戻る短い道すがら、景は腹のポケットの中でぬいぐるみのフリをしている悪魔の頭を、感謝の念を込めて盛大にわしゃわしゃと撫でた。
十七時にバイトが終わると、景は大吾を伴い、近くのスペインバルに向かった。
訪れた店は内装が小洒落ていて、手頃な値段の割に、料理が美味しい。大吾は店内をきょろきょろと見回しつつ、声を弾ませた。
「良い店、知ってるんだね」
「バイト仲間と、前に来たことがあるんだ」
ジャガイモ入りのオムレツと数品を肴に、二人は飲んだ。
料理や酒が来るたび、大吾は携帯でいちいち写真を撮ったが、喜んでくれていると思えば、景は気にならなかった。彼が撮った画像をネットに上げている間、放っておかれるのも都合が良かった。ぬいぐるみに身をやつしている、自称「上級悪魔」ティンカー・ベルが、机の上のご馳走を食べたがるので、こっそり横流ししてやることができるからだ。
「美味しい?」
誰にも聞こえないよう、景は小声で尋ねた。
「食べログだったら、星三つというところだな」
小さな口でもぐもぐと生ハムを噛み締めながら、悪魔は微妙な評価を下した。
肝心の大吾との会話は、最初のうちは中学時代の思い出や、誰それの進路などについてなどの話題だったのだが、そのうち彼自身の話になり、景は一方的に聞くだけになった。それでも大学生活を満喫している大吾の話は、知らない世界を覗かせてもらっているようで、楽しかった。
景が高校を出てすぐに働いていることを知ると、大吾は信じられないというように、目を丸くした。
「そうなんだ。エライね」
褒められたというよりは、同情されてしまったようだ。反応に困り、景は苦笑する。 その間もティンカー・ベルは、景の隣に腰掛け、黙々とチーズを齧っていた。
店に入って二時間が経った。景と大吾はそれぞれ生ビールと、赤、白ワインを二杯ずつ飲んでいる。ちなみに景は、顔に似合わず、酒に強い。一方の大吾は、既に呂律が怪しくなっている。お開きにはいい頃合いだろうか。
「じゃあ、そろそろ……」
このあと携帯の番号とメールアドレスを交換できれば、上出来だ。景がスマフォを取り出そうとすると、大吾にその手を掴まれた。手のひらに滲んでいる彼の汗が、じっとりと肌に染み込んでくるような気がした。
「ねえ、俺、今から大蔵田さんちに行ってもいい?」
「えっ」
景にとって、これは予想外の展開だった。
でもまあ、ここでさよならというのも味気ないし、家にお招きして、お茶でも飲んでもらうのもいいかもしれない。そういえば、昨晩プリンを作っておいたし、食べてもらおうか。
「うん、いい……いたっ!」
言いかけたところで、腕にぴしっと鋭い痛みが走る。ティンカー・ベルが、そこだけは悪魔の姿のときと同じ、先が鉤形になっている細い尻尾で叩いたのだ。
「どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと……」
不思議そうな大吾を愛想笑いで誤魔化して、景はぬいぐるみに化けている悪魔を睨み付けた。ティンカー・ベルは何ごともなかったように、前を向いている。
なんなのだ……。首を傾げながら、景が大吾に向き直ると、口がまた勝手に動いた。
「ごめーん、家は散らかっててえ、ちょっと無理ぃ。でも……」
今度は、悪魔推奨の雑誌のレクチャーどおり、きっちり引いたアイラインに縁取られた瞼が、わずかに下がる。
「もうちょっと行ったところに、何軒かホテルがあるの。そこならいーよ。でも、部屋代はそっち持ちね?」
最後は冗談めかして、唇の端を上げる。こんな女の子を、景は知らない。自分ではない……。
「大蔵田さん、しっかりしてるなあ。じゃあさ、ここは割り勘でいい?」
魅惑的に微笑み、だが内側は金縛りに合っている景の前で、大吾はヘラヘラ笑った。
つづく