その女、悪魔憑きにつき・6



 大きなベッドの縁に腰掛け、景とぬいぐるみは、喧々囂々とやり合っている。

 「こんなことまで頼んでない!」
 「あの男と親しくなりたい、あわよくばそれ以上の関係になりたいと、言っていたじゃないか」
 「だからって、こんな急なのは困るよ! こういうことは、もっと時間をかけて、ゆっくりと……!」
 「そうやって時間をかけて、いざ事に及んでみたら、体の相性が合わなかったなんてことになったらどうするのだ。それまでにかけた手間暇が、勿体ないではないか」
 「そ、そんなこと……」
 「特に、お前らのような盛りのついた年頃の人間にとって、セックスの問題は重要だぞ」
 「ううう……」

 経験がない景からすれば、下(しも)の問題に切り込まれれば反論できないし、そういうものかと納得しそうにもなってしまう。

 「ティンカー・ベルさあ、報酬が早く欲しいからって、やっつけ仕事になってない?」
 「失敬な。我は仕事は完璧にこなす」

 景の疑惑を跳ね返すかのように、今は青い体の小さなクマ、悪魔ティンカー・ベルは腕を組み、ふんぞり返った。

 大吾と飲んだスペインバルからこの狭いホテルの一室まで、景の足は勝手に歩いた――歩かされた。
 今、大吾はシャワーを浴びている。いつ彼が浴室から出てくるか、景はひやひやと怯えていた。
 そりゃあ確かにお互い大人だから、もし大吾とうまくいった場合、遠くない未来に体を繋げるときがくるだろうとは思っていた。処女だって、別に大事にとっておいたわけでもないし。

 「それでも、もうちょっと……。海が見えるホテルでとか、そんなことは言わないけどさ」

 美しくロマンチックに、そのときを迎えられたらと思っていたのに。乙女のそんな願いとはあまりにかけ離れた現実を、景はうんざりと眺め回した。
 二時間三千八百円の狭っ苦しい部屋。ベッドだけは立派だったが、それ以外のインテリア……と呼ぶのも憚れるようなそれらは、あまりにちゃちだった。ベッドの下側には、部屋との隙間に無理矢理押し込んだような応接セットが据えられており、円形のガラステーブルは表面が曇っていて、ソファにはあちこち煙草でできた焼け焦げがあった。窓はあったが、シャッターで覆われており、息苦しくて、まるで監獄に閉じ込められたような気になる。

 「こんなところでするくらいだったら、うちのほうがよっぽど……」

 するとまたティンカー・ベルは、細い尻尾で、景の太ももを打った。

 「いたっ!」
 「男を家に入れるのは、相手を絶対的に信頼できるようになるまで、やめておけ」
 「エッチなことはするのに、家に入れちゃダメなの?」

 ヒリヒリ痛む太ももを擦りながら、景は尋ねた。順番が逆なようが気がして、腑に落ちない。

 「そうだ。あと、プリンは我が食うから、あいつにやる必要はない」
 「……………………」

 まあ確かに、昨晩作ったプリンは、甘いものに目がないこの悪魔のために作っておいたのだが。
 浴室の水音が止まり、なにやらごそごそと衣擦れの音が聞こえてくる。景の心臓は、激しい鼓動を刻み始めた。
 覚悟を決めなければと言い聞かせるが、ドアが開き、大吾が室内に戻ってきても、彼女の心の中はざわざわと騒がしいままだ。
 本当にいいのだろうか。このまま、してしまっていいのだろうか……?
 大吾は、バスタオルを腰に巻いただけの格好である。色白の彼の裸体を前に、景は照れるというよりは、何か嫌なものを見てしまった気になった。

 「わ、私もシャワー入ってくる……!」

 ティンカー・ベルを胸に抱えて、浴室に逃げ込もうとしたところで、景は大吾に捕まってしまった。

 「いいよいいよ。俺、もう我慢できないし」
 「いやいやいや! こういうのは、ほら、ま、マナーだから!」

 景の主張を、大吾は無視し、強張った彼女の体を抱きすくめようとした。
 妙に熱い体温が、顔に降ってくる吐息が、気持ち悪い。――怖い。

 「大蔵田さんさあ、めちゃくちゃ綺麗になったよね。中学んときも、すごく可愛かったけど」
 「そ、そんなことないけど……」

 大吾は景の肩を強く掴むと、顔を寄せてきた。

 ――中学時代、なぜ苛められていたのか。景は、自分に問題があったのだと思っている。
 自分自身に、全く自信を持てなかった。
 嫌われるのが怖くて、人の顔色を伺ってばかりいた。
 争いごとが嫌で、誰にでもいい顔をしていた。
 そんな八方美人な態度から、周りからは、調子だけいい、自分の意見がない奴だとみなされたのだろう。実際景も、その当時の自分は、そのとおりの人間だったと思う。
 友達は一人、また一人と離れていき、遂に無視されたり、陰口を叩かれるようになった。そんな女子たちのいじめに乗っかる形で、男子にも色々と心ないことを言われるようになった。
 だが、飯島 大吾だけは、景につらく当たったりはしなかった。人がいないときには、話しかけてくれたりもしたのだ。
 景にとって、中学時代のいい思い出といえば、それだけだった。

 ――だから、縋って。

 「ご、ごごご、ごめん!」

 大吾の顎を押さえて、力任せに身を捩り、景は彼の腕から何とか逃れた。ティンカー・ベルは、しっかりと胸に抱いたままだ。

 ――今の大吾を好きか、好きになれるかといえば、それは別問題だ。

 自分だって変わってしまっただろうが、相手だって変わってしまった。
 いや、そもそも、自分は本当に大吾を好きだったろうか?
 大吾が本当はどういう人間か、理解していただろうか?
 思い出を壊したくないがために、彼を都合よく、美化していなかっただろうか?

 ――優しくしてくれたから、なついただけではなかったのか。

 恋なんてよく分からないが、きっとこの気持ちは違う。

 「無理だ! ごめん! ごめんね!」

 距離を取ってペコペコと頭を下げる景を、大吾は不快さを隠そうともせず、睨み付けた。

 「なんだよ。今更、純情ぶるなよな! ヤリマンのくせに!」
 「え?」

 何を言われたのか一瞬分からず、景は茫然と彼を見返した。

 「みんな言ってたじゃないか! お前んち、金持ちぶってるけど、ただの見栄っ張りで、本当は貧乏だって! だから、お前はいつも同じ服着てたし、使ってる物なんかもボロボロで。金がないから、お前は売春してるって!
 今日、話聞いたら、大学にも行けなかったみたいだし、お前んち、やっぱり貧乏だったんだな。 噂どおり、援交もやってたんだろ!?」

 二十歳となった今では目立つこともないが、景は早熟なほうで、その大人びた顔つきや体型が、周囲からは浮いて見えた。そのせいでよくからかわれたし、大吾が口にしたような、根も葉もない噂が立つこともあった。実際の彼女は、援助交際なんてとんでもない、その逆で、放課後や休日は自室に篭もり、時間が過ぎるのをじっと待つような少女だったのだが。

 「だから優しくしてやれば、やらせてくれるんじゃないかって。中学んときは、俺、お前の周りをうろちょろしたけど。でもお前、結局何もしてくれなかったよなあ。やっぱり、俺が金持ってなかったから?」

 大吾の発する言葉の一つ一つが、景の胸を刺し貫いていく。
 大切にしていたものが粉々に、本人によって砕かれた。つらくて悲しくて、考えること理解することを放棄した頭の中に、なぜか聞いたことのある歌が、途切れ途切れ流れる。

 ――弱いものたちが……更に弱いものを……。

 なぜだろう。なぜ関係のないこの歌が、今、蘇ったんだろう。

 「そうだ。このこと、お前が働いてるあのカフェの奴らにバラしたら、どうなるかなあ? あとは、ネットに流すとか」

 表情も言葉もなくして立ち尽くす景の前で、大吾の下衆な口上は絶好調だ。

 「あっ、もちろん冗談だよ、冗談。そんなの犯罪だもんね。
 でもさあ、もう部屋取っちゃったし、お金が勿体ないから……。手か口でいいから、抜いてくれない? 頼むよ」

 口調を一転させて、気味の悪い猫なで声で迫ってくる旧友が、景には化け物のように見えた。

 ――嫌だ、嫌だ。こんな男の前に、もう少しもいたくない。

 気を許せば、涙が出てしまいそうだった。

 ――帰ろう。

 胸元のティンカー・ベルを、無意識に抱き締める。するとまた口が、勝手に動き出した。

 「うん、いいよ」

 信じられない……! 何を勝手に、おぞましいことを了承しているのか。
 景はクマの頭をバシバシ叩くが、しかし唇は止まってくれなかった。

 「じゃあさ、ほら、寝転んで。タオル取ってくれる?」

 急に物分かりがよくなった景を、昔売春をしていた女だという先入観があるからか、不審に思わないらしく、大吾はウキウキと腰のタオルを取り、ベッドの上に寝転んだ。 横になった拍子に、硬くなり始めている彼の陰茎が、右側にだらりと倒れた。
 そのだらしない肉の棒を見た瞬間、景の体はふっと軽くなった。それは、今まで巻き付いていた糸が、ぷっつりと切れたような感覚だった。


つづく