その女、悪魔憑きにつき・8



 通勤に使っている自転車は、アルバイト先に置いてきていた。だから景たちは一旦、「ファウスト」へ戻った。
 既に営業を終えている店から愛車を引き取り、悪魔と人はのんびりと歩く。
 自宅まで、そうそう人通りが途絶えるような場所は通らないのだが、しかし景は何度も後ろを振り返ってしまった。先ほどのホテルでの一件について、後悔はしていないものの、だが飯島 大吾を怒らせた自覚はあったから、彼がやり返しに来ないかと不安になったのだ。

 「そうきょろきょろするな。奴が尾行(つ)けてくれば、我が気付く」

 悪魔の頼もしい言葉に安堵し、景は前を向く。

 「そっか……。こうなってみると、やっぱり彼を家に連れて行かなくて、良かったんだなあ……」

 今回のように、ホテルだとか自分とは関わりの浅い場所ならば、事が起こってもさっさと帰って来てしまえばいいから楽だ。だが自宅で大吾に迫られていたとしたら、追い出すのは大変だったろう。それにそのあとのことを考えると、例えば待ち伏せや嫌がらせでもされたらどうしようと、思い切った攻撃は出来なかったに違いない。

 「敵に寝床の位置を知られるなど、あってはならんことだ。お前はもっと危機意識を持て」

 ライトグレイのスーツに、水玉模様のネクタイがばっちりキマっているティンカー・ベルが、教師のような口調で叱る。

 「敵?」
 「多くの女が思い違いをしているが、女にとって伴侶以外の男は敵だ。それくらいの心構えでいないから、いつだって悲劇が起こる」
 「それは極論だと思うけど……」

 しかし、だとしたら、悪魔の言うところの「敵」相手に、先ほどは随分大胆なことをしてしまったものだ。逆上されれば、殺されていたかもしれない。だが、あのときの景は、理性が働く状態ではなかった。

 飯島 大吾を踏みつけていたとき、景は異様な高揚感に包まれていた。断っておくが、性的な悦楽ではない。彼女には、そういった性癖はない……ないはずだ。多分。
 ああいうのを、「キレる」というのだろうか。溜まっていたものを、全て吐き出しているような、気持ち良さがあった。今までの人生、我慢ばかりしてきて、こそこそと目立たぬよう端っこを歩いて生きてきた景にとっては、初めての感覚だった。

 「飯島くんを抵抗できなくしたのも、あなたの仕業でしょ?」

 ティンカー・ベルは喉の奥でくくっと笑った。

 「最初のうちはな。そのうち奴は、未知なる快感に目覚めて……あとはお前も知ってのとおりだ」
 「ひどいなあ。私にあんなこと言わせてさあ」

 自転車は、ティンカー・ベルが運んでくれている。景の横に並んで、茶色の、いわゆるママチャリを引きながら、彼はぴしゃりと言った。

 「勘違いしてもらっては困る。我はお前の自制心を、少しばかり弱めてやっただけだ。あの男をいたぶった言葉や行動は、全てお前の中にあったものよ」
 「……!」
 「我はお前の背中を、少し押しただけだ」

 そう言って、悪魔は今、自転車を押すのだった。
 景は絶句した。飯島 大吾への仕打ちや、投げつけた下品な言葉の数々。あれらは全て自分自身が発し、起こしたことだというのか……。
 ティンカー・ベルは、更に追い打ちをかける。

 「あの場で、我はフォローに徹しておった。例えば、お前があの男の股間を潰そうとしたとき、衝撃を弱めたのも我だ。本当にやってしまえば、大変なことになるからな」

 そういえば、景が一番最初に、大吾の股間を、力いっぱい踏もうとしたとき、彼女の力を削ぐかのような、上向きの風が吹いた。そのとき景は頭に血が上っていて、さして気にしなかったが、今思えば確かに不思議なことだ。あれはティンカー・ベルの力だったのか。

 「女は、男の急所について、理解がないから困る。いくら相手が悪党とはいえ、よくもまああんな残酷なことができるものだ」
 「すみません……」

 悪魔でもやはりオスはオスなのか、金的攻撃は恐ろしいらしい。ティンカー・ベルはゾッとしたとでも言うかのようにその巨体を縮こまらせ、そして景も、彼の隣で小さくなるしかなかった。
 俯いた目が、履いているローファーの爪先を捉える。ピカピカだった。昨日の夜まではこんなことになるとは思わず、期待に胸を踊らせながら、一生懸命磨いたのだ。
 景は、ティンカー・ベルの、彫りの深い横顔を覗いた。彼は一度も慌てた様子を見せていない。つまり――。

 「ティンカー・ベルは、こうなることが分かっていたんだね」

 少々の嫌味を込めて尋ねるが、悪魔はあっさり答えた。

 「むしろ、なぜ分からなかったのかが、分からない。あいつはご丁寧なことに、様々なところで、自分勝手で勘違いな書き込みを残してくれていたのに。
 まあお前の眼(まなこ)には、思い出だとか初恋だとかの歪んだフィルターが掛かっていたから、正しい姿が見えなかったのだろうが。
 だから、さっさとカタを付けたかった。はっきり言って、あんな男に構っているのは、時間の無駄だ」
 「……………………」
 「お前の話を聞いていて、我は『蜘蛛の糸』という小説を思い出したぞ。地獄に堕ちた悪人が、生前たった一つだけ良いことをして、そのおかげで救い出されようとする話だ。結局、悪人は悪人だったわけだが。お前はその話に出てくる、お釈迦様というわけだな。本当はただのクズだが、中学時代に少しだけ優しくしたら、素敵な人だと褒め称えてくれる……」
 「そんなにポンポン言わなくてもいいでしょ!」

 己の見る目のなさに打ちのめされつつ、更には悪魔の言葉に頬を打たれて、景は涙目になる。その横で、ティンカー・ベルはニヤニヤしていた。さすが悪魔というべきか、景の不幸を面白がっているのだろう。悔しいが、彼の言うことは真実を射ている。
 飯島 大吾の優しさ。唯一のあの美点は、下心によるものだったのだから。
 景は自分の想いを踏みにじられたうえに、ひどい侮辱を受けた。だから、やり返した。スッキリした。
 そして、絶望を味わったあのとき、不意に頭に蘇ったフレーズを思い出した。――その意味も。

 「中学時代に、地味でイケてなかった飯島くんも、私みたいな苛められっ子なら、好きにできると思った。最低だけど、でも私も今日、彼と同じようなことをした」

 ――弱いものたちが……更に弱いものを……。

 「私に踏まれて悦んでいるような男に……この程度の男ならいいだろうと、中学時代に苛められていた鬱憤をぶつけて、恨みを晴らそうと……」

 そうだ。あのときいつの間にか、景の怒りの対象は、大吾ではなく、不幸だった中学時代そのものへとすり替わっていた。
 弱者を叩いて憂さ晴らしなんて、自分はなんて浅ましい人間なのだろう。大吾との対峙により得た、景の解放感は、急速に萎んでいく。
 ティンカー・ベルは、淡々と相槌を打った。

 「人間なら、ごく普通のことだろう」
 「でも、そういうのは嫌だ!」

 きれいごとかもしれないが、人を傷付けることで、自分を優位に保つような人間にはなりたくない。

 「ならば、強くなることだ。周囲に惑わされぬだけの、自己を確立する。それは真の強者にしかできん」
 「……………………」

 悪魔の言っていることも、その正しさも理解できる。分かってはいても、景は頷くことができない。

 ――だって私は、もうそんな気力も、時間も、ないんだ。

 見上げた空は雲で覆われていて、星は見えなかった。




 秋の夜は涼しく、過ごしやすかったが、さすがに三十分も歩けば、軽く汗をかく。長い時間をかけての帰宅となったが、同行者がいれば苦でもなく、むしろ楽しかった。
 住み慣れたアパートの部屋へ上がると、景は当たり前のようについて来たティンカー・ベルを振り返った。

 「お疲れさま。お茶でも飲む?」

 上着を脱ぎ、ハンガーにかけながら尋ねる。いつもなら既にどっかりと腰を下ろしているはずの悪魔は、今日はなぜか立ちっぱなしだ。

 「どうしたの?」
 「――報酬をいただこう」

 景が彼に望んだ願いごとは、「飯島 大吾との関係を深めたい」というものだった。しかし彼と決別し、これからも関係の修復は望めない以上、悪魔との契約もここまでということだろう。

 「あ、そっか……。でも、ええと……」
 「安心しろ。悪魔は、成功もしていないのに、腎臓を寄越せと詰め寄るような、悪徳業者ではない」
 「そ、そう」

 だが、ティンカー・ベルは、気付いているだろうか。景が、臓器の一つを失うことよりも、悪魔との別れのほうがよっぽどつらいと思っていることを。
 ティンカー・ベルと向かい合い、景は無理に笑顔を作った。

 「じゃあ、何をあげようか。あ、プリン、持っていく?」
 「プリンはもらう。だが報酬は、別のものだ」

 部屋の空気が動いた気がした。何かが手に触れたと思った瞬間、両腕が強い力で引っ張り上げられる。

 「!?」

 景の両腕はそれぞれ左右の斜め上付近で、磔にされたかのように固定されてしまった。見れば手首には、植物のツタのようなものが絡まっている。ツタの出処は、数十cmほど離れた、何もない空間だった。そう、何度見ても、空中から突然生えたツタが、自分を捕まえているようにしか見えないのだ。

 「なにこれ!? 離して!」

 いくら暴れても、ツタは少しも緩まない。
 ティンカー・ベルは、景の顎を掴んだ。

 「よしよし、イキがいいな。やはり報酬には、お前の精気をいただくことにしよう」
 「精気……?」
 「そういえばお前は、そっちのほうが負担が軽そうだと言っていたな。丁度良いじゃないか」

自分を見据えて光る金色の瞳に、景は抵抗を忘れて、釘付けになった。

――きっとこれは、危険な色だ。

脳内では警告が鳴っているのに、目が逸らせない。


つづく