その女、悪魔憑きにつき・9



 手首のツタは決して解(ほど)けないくせに、締め付けは弱く、痛みは全くなかった。
 だからなのだろうか。今まさに襲われようとしているのに、景は自分でも不思議なくらい、危機感を持てずにいる。

 ティンカー・ベル。たった二、三日共に過ごしただけなのに、彼には、古くからの友人であるかのように、ついつい気を許してしまった。
 だが――そうだ。
 きちんと理解しておくべきだったのだ。
 ティンカー・ベルは悪魔で、それ以前に『男』なのである。

 「簡単に言えば、精気というのは、生き物が作り出すエネルギーのことだ。命の源と言えばいいか」

 ティンカー・ベルは、とうとうと講釈を垂れた。

 「生き物の体内を巡っている精気は、ある時々において、特に大量に放出される。
 例えば、生まれ落ちたそのとき、心が怒りや悲しみで満ちたとき、または満足を得たとき。
 ――それから」

 お気に入りのパーカーのファスナーを下げた手が、そのまま背中に回り、そこにあったホックを外す。

 「――性的な快感を得たとき。
 そのようなときの精気は、大変濃厚で美味なのだ。
 だからお前には、せいぜい感じてもらうぞ」

 浮いたブラジャーのカップをインナーごと捲り上げられて、景の顔はカッと熱くなった。

 「み、見ないで……!」

 剥き出しになった裸の胸に、悪魔の視線を感じ、肌が粟立つ。
 ここまでされておきながら、嫌悪感がないのは何故だろう。初恋の相手であった飯島 大吾には、正直に言えば、手を握られただけでも嫌だったのに。

 「ほほう、これはなかなか。Dか?」
 「そ、そんなにないよ!」

 サイズを確かめるかのように、胸の膨らみを鷲掴みにしたかと思えば、ティンカー・ベルの手つきはすぐに、女から性感を引き出そうとする、男のそれに変わった。掬い上げるように揉みしだき、素直に勃った乳首を親指の腹でこねる。

 「んっ……。や、やめて……!」

 どうしても息が乱れてしまう。唇を噛んで堪えようとする景に、ティンカー・ベルは歌うように話しかけた。

 「どうせ死ぬ気だったのなら、なんでもできるだろう? 快楽に飛び込むことだって」
 「なっ……!」

 ――どうして、そんなことを知っているのだろう。

 「それともお前は聖職者のように、清い体で生涯を終えたいのか?」
 「な、なんで……!?」

 真実を突く軽やかな口調に、頭を殴られたかのようだ。悪魔の突拍子もない質問に、景の表情は強張る。硬くなった彼女の体をほぐすように撫で擦りながら、ティンカー・ベルは続けた。

 「お前の携帯電話には、我を呼び出す方法を記したサイトのブックマークともう一つ、死神の召喚について説明したサイトのものもあった」
 「勝手に見るなんてひどい!」
 「悪魔に道徳を説くとは、お前も冗談が好きだな。
 死神は、悪魔より明瞭会計だ。願いを叶えれば、一発で魂を抜く。お前が読んだそのサイトにも、そう書かれていただろう?
 しかしそれならば、我が内臓を寄越せと言ったときに、お前が快諾した理由も分かる。
 普通の人間ならば、長く健康に生きることを、第一に考えるものだ。たかが初恋の成就のために、大切な体の一部を渡そうなどとは、決して思わない」
 「だから! 飯島くんのことは、私にとってそれだけ大切なことなんだって、言ったじゃない!」
 「事前に相手をきちんと知ろうともせず、そしていざ接触した途端、あんなにあっさり幻滅しておいてか?
 お前の願いは軽い。そして、その対価も」

 つまり、この悪魔との契約を済ませたそのとき、景の命は軽いと、他ならぬ景自身がそう宣言したようなものなのだ。
 景は、誰に対するとも分からぬ言い訳を始めた。

 「だって、だって……! 死神だって、妖精だって、本当に出てくるなんて思わなかったもの! だから、軽い気持ちで……!」
 「軽い気持ちだろうが出来心だろうが、死を望まぬ人間は、そもそも闇には近付かないものだ」
 「……………………」

 何をどう言い繕っても、この男には見透かされてしまう。景は黙り込み、今にも泣き出しそうな顔になった。
 両腕を宙に掲げられ、罪人のようにか細い体を晒す哀れな彼女に、だがティンカー・ベルは容赦しない。デニムスカートの裏に手を回して、小ぶりの丸い尻を何度か撫でたあと、大胆にも彼は、景のスカートからタイツ、下着までを一息に下ろしてしまった。

 「やっ!? ちょ、やめてよ!」

 さすがに景はじたばたと暴れるが、そのせいで足が浮いて、かえって脱がしやすくなってしまったようだ。悪魔は難なく剥ぎ取った一式を、その辺にぽいっと投げ捨てる。

 「スースーする……」

 裸になった下半身を何とか隠そうと、景は内股になって足を擦り合わせた。その間を裂くかのように、ティンカー・ベルは自身の膝を強引に割り込ませた。そして太ももを、景の股間に当てる。

 「あっ……!」

 上等なライトグレーの生地が、性器の表面を行き来する。自分のいやらしい場所が吐き出す体液が、悪魔の立派なスーツを汚すのが嫌で、景は身を捩った。

 「やだ……っ!」
 「たっぷり濡らせばいい……」

 蕩けそうな声でそう言うと、ティンカー・ベルはゆっくり太ももを前後させた。

 「あっ……! やだ、やだあ……!」

 胸をいじられ、股間を擦られて、過剰なほど滲み出た愛液は、悪魔の希望どおり、彼のズボンを汚す。既に泣き出している景の顔に唇を寄せて、ティンカー・ベルは彼女の頬や額に口づけを落とした。その仕草があまりに優しくて、ひどいことをされているはずなのに、景はまるで彼に恋人として扱われているような、甘い錯覚に陥る。

 「うーん、やはりお前の精気は、美味そうだ……。ぷんぷん匂ってくる……。ほら、早く寄越せ」

 ご馳走を前にした食通のように、ティンカー・ベルはよだれを垂らさん勢いで唸っている。
 そうか、彼は精気とやらを、待っているのか。でもそんなもの、どうやれば出るのだろう?
 欲しいなら、あげたい。なんでもしてあげたい。自分の与えられる何かで、ティンカー・ベルが喜んでくれるなら。
 その間、優しくしてくれるなら。一緒にいてくれるなら。

 ――ひとりはいやだったの。

 快感の波に溺れながら、景は遂に告白する。

 「し、死のうとしてたわけじゃない……。 自殺とか、そういう大げさなものじゃないの。だって死神を呼び出せるなんて、本気で信じてたわけじゃないし」

 はっきりと明確に、「死にたい」と思っていたわけではないのだ。
 ただ、このまま長くダラダラと生きていくくらいなら、その生と引き換えに、愛してくれる人が欲しかった。

 「ひとりでなくなれば、それで良かったの。
 私は、親や家族を頼れない。だから、側にいて欲しいと思い付いたのが、中学のときに優しくしてくれた、飯島くんだけで……」

 目を瞑ればいつも、ひとりぼっちの、過去の自分、現在の自分――そして、未来の自分の姿が浮かんでくる。

 ――ひとりはいや。寂しいのは、もういや。

 死にたかったわけじゃない。
 だけど、消えたかった。

 「我には分からない。職場では頼りにされ、慎ましいまでも生活は成り立っており、若く、それなりの見た目をしていて、健康だ。そのうえ、料理も上手い。そんなお前が、なぜ死を望むほどの虚無感に囚われているのか」
 「ティンカー・ベルには分からないよ! 大きくて、堂々としていて、不思議な力を持っていて、綺麗だし……! あなたみたいな素敵な悪魔には、絶対に私の気持ちは分かんない!」

 駄々っ子のように首を振る景に、ティンカー・ベルは苦笑を浮かべた。

 「その、大きくて堂々としていて不思議な力を持っていて綺麗で素敵な悪魔に、当たり散らす元気があるなら、何でもできそうなものだがな」

 ティンカー・ベルは、景の体を抱き締めるように包むと、彼女の背後で両手の指を組んだ。組んだ手に景の小さな尻を乗せて、上げる。

 「ひゃっ!?」

 足が宙に浮き、更に股間に何かが当たって、景は悲鳴を上げた。誰からも触られたことのない、自分でもあまり触ったことのない場所に、何かが入り込もうとしている。不自由な体勢のまま、景はきょろきょろと頭を動かし、何がどうなっているのか確かめた。
 尻尾だ。悪魔の腰から伸びた尻尾が、自分の性器の中へ潜り込もうとしている。

 「や、やだ、怖い……!」
 「おっと。暴れると、処女膜が破れるぞ」

 大切に取っておいたわけではないが、初めての相手が尻尾というのは微妙である……。
 景は身構えたが、しかし処女膜の強度というのは、どれくらいのものなのだろうか。そんなことを考えている間も、尻尾は好き勝手に動く。

 「あ……! あ……!」

 尻尾の先端の鉤形の部分が、奥を犯す気はないのか、膣に入るか入らないかのところでくるくると回っている。その動きのせいで滲み出た新しい蜜が、ますます尻尾の動きを滑らかに、巧みにする。まさに、快感の「入口」。初めての感覚に、景は朦朧となった。

 「はあ……っ、あ……っ!」
 「そんなに気持ちがいいのか。中に欲しがるとは、淫婦としての見込みは十分だな」

 悪魔の嘲りも頭に入ってこない。
 このまま処女でなくなるなら、それでもいい。それくらい、この刺激は魅惑的だ。
 でも、どうせ失うなら――。

 抱き寄せた景の股間に、ティンカー・ベルは自分のそれを擦り付けた。膨らんだ陰核に、悪魔の硬く張り詰めたペニスが当たる。

 ――どうせなら、これで貫いてくれればいいのに。

 景は、ティンカー・ベルの顔を見上げた。

 「ティンカー・ベルぅ……」
 「そんな顔と声で、我を誘うな。悪魔をたらしこもうとは、お前はやはり恐ろしい女だな」

 ティンカー・ベルの息も、わずかに乱れている。景の頬に口づけると、悪魔は掴んでいる彼女の尻を引き寄せ、自らも腰を動かした。密着し合った性器同士が擦れ合い、互いに快感を与え合う。――限界だった。

 「あっ、あー……っ!」

 目の前が白く眩んで、体の感覚が消える。わななく唇を塞がれたかと思うと、呼吸ができないくらい強く吸われて、舌を舌に奪われる。

 「お前の精気は、今まで我が口にした中で、一番美味い……」

 ――ああ、そういえば、口からじゅるじゅるーっと吸うって、言ってたっけ……。

 くらくらと眩む景の視界の中で、金色の瞳が三日月のように細くなった。

 「我はお前が気に入ったぞ。大蔵田 景。
 法令遵守で、地味に真面目に生きているくせに、生み出す精気はドロドロと濃く、芳醇にして複雑だ。そして心には、大きな魔物を飼っている。――悪魔は、お前のような人間が大好きだ」

 何度も何度も口づけられて、そのたびに痺れてしまい、景は絶頂から戻って来られない。
 頭がおかしくなりそうだ。いつの間にか手首のツタは外れており、景はティンカー・ベルの首に手を回し、自ら彼に抱き付いた。

 「抵抗する気がなくなれば、拘束は解ける。そうか、お前も我を受け入れるのだな」

 小さく頷き、景は悪魔に口づけ、舌を絡ませた。これではまるで、どちらがどちらを貪っているのか、分からない。

 ――そばに居て。ひとりにしないで。

 永遠に続けていたかった交わりだが、体力が先に底をついた。
 うとうととまどろみ始めた景の体を横抱きに持ち上げると、ティンカー・ベルは彼女をベッドへと運んだ。
 背中にシーツが当たり、彼が遠ざかる気配がする。景はティンカー・ベルの大きな手を掴んだ。

 「行かないで……」
 「心配するな、大蔵田 景。言っただろう? 我はお前が気に入ったと。期待するがいい」

 悪魔は景の指先に優しくキスし、名残惜しそうに離した手を、彼女の額に置いた。

 「――我が全力をもって、お前を幸せにしてやろう」

 ティンカー・ベルが触れた先に、ぴりぴりと痛みが走る。じんわりと熱くなったそれは、すぐに溶けるように消えてしまった。

 「契約は、なされた」

 眠りにつく寸前に、悪魔の声が聞こえた気がする。
 そうか、ティンカー・ベルとの縁は、まだ続くのか。胸が暖かくなると同時に、ふとした疑問が湧く。

 ――悪魔の言うところの「幸せ」って、どういう……?




 こうして大蔵田 景は、この日より、悪魔憑きとなった。


〜 終 〜