黒のアフタヌーン姿のヘレン・ケラー女史は二〇九番の船室で静かに語った−−。1937(昭和12)年4月16日の東京日日新聞(現毎日新聞)夕刊は彼女の来日をこんな書き出しで伝えている。大きな写真付きで、記事冒頭に【横浜港外にて本社鳩便】とある▲三重苦を克服して社会福祉運動に活躍するヘレン・ケラーの人気は日本国内でも高く、原稿と写真の搬送に伝書バトを投入するなど大々的な速報態勢を取ったわけだ。事実、滞在中各地で大歓迎を受けた▲70年後の今月12日、東京大学入学式で、福島智・東大先端科学技術研究センター准教授が祝辞に立った。小学3年生の時に光を、高校2年で音を失って盲ろう者となった。ヘレン・ケラーが世界で初めて盲ろう者として大学に進んだことを励みに大学進学を果たし、研究者として歩いてきた。国内では前人未到の道である▲「人間はひとりぼっちでは生きていけない」「どのような困難な状況にあっても、可能性がゼロになるということはない」。自身の体験からこの二つを学んだという福島さんは、「他者の立場を想像する力と、他者と協力しながら新しいものを生み出していく営み」こそが挑戦であると訴えた▲ヘレン・ケラーも珠玉の言葉を数多く残した。「知識は力なりという。しかし、私は、知識は幸福だと思う」「すべては驚きに満ちている。暗闇と沈黙の世界も例外ではない。だから、私はどんな境遇にあっても、満足することを学んだのだ」▲70年の時を隔てて美しい言葉が響き合う。福島さんのメッセージを東大の新入生諸君だけのものにしておくのは惜しい。春愁、気迷いが頭をもたげ始めたら、東大のホームページ(リンクさせてあります)をのぞいたらどうだろう。スピーチの全文が読める。
2007年04月16日15時01分
目が見えず、耳も聞こえない。
指点字。通訳者がピアノを弾くように福島智さんの指に伝える |
福島智さん |
福島令子さん |
「ヘレン・ケラーの世界って、どんなんやろ?」
福島智(ふくしま・さとし)(44)は8歳の夏の日、裏山で目を閉じてみた。一歩踏み出す。足元が崩れ落ちそうで、怖くて目を開けた。蝉時雨(せみしぐれ)、むせ返るような緑の午後だった。
3歳で目に異常がみつかり、5歳で右眼(め)を摘出。9歳で左の視力も失う。だが、やんちゃで白いつえで動き回り、ピアノも弾いた。18歳で音を奪われ、ヘレンと同じような障害をもつ身になる。
◇
無音漆黒の世界にたった一人。果てしない宇宙に放り出されたような、孤独と不安。「人とのコミュニケーションは、魂にとっての水、酸素。それなしでは、まるで『牢獄(ろうごく)』にいるようです」
友人に点字の手紙を出した。「でも、おれが生きる意味、使命があるのかもしれない」
福島を救ったのは、母令子(れいこ)(73)が思いついた「指点字」だ。
あの日、神戸のつましい市営住宅の台所。通院に付き添う支度ができていない。いらだつ18歳の息子に令子は、ふっと思った。これ、わかるやろか。
点字は六つの点の組み合わせで50音などを表す。点字のタイプライターは、両手の人さし指、中指、薬指の6本を使って打つ。同じように息子の指先に打ってみた。
さ・と・し・わ・か・る・か
息子は、にっと笑った。「わかるでえっ」。通じた! 令子は、もううれしくて天にも昇る心地。だが福島は「ようその体重で天に昇れまんな」と母をちゃかした。
3カ月後、東京の盲学校に復学した。初めて盲ろう者を受け入れる担任に塩谷治(しおのや・おさむ)(63)が手をあげた。令子から指点字を教わる。
級友が指先で福島に話しかける。「ぼく、また失恋」。たわいないおしゃべりが心にしみた。でも友人が去ると、自分からは相手を探せない。受け身で「刑務所の慰問」を待つようだ。
そこから救い出したのは「通訳」だった。一人の先輩が指点字で、ラジオの実況中継のように周囲の様子を伝えてくれた。誰とでも自由に話せる。やっとこの世界に戻ってきた気がした。
いま福島は東大先端科学技術研究センターの准教授。専門はバリアフリー。ゼミをのぞくと、通訳者が学生の発言や様子を、ピアノを弾くように福島の指先に伝えている。その速さ! リポートや連絡は電子メールで。点字変換ソフトで読み、即、返信する。通訳の登録者は全国で3000人を超え、盲ろう者の生命線になっている。
04年末、福島は国の審議会で、障害者自立支援策について直言した。「自己負担は、無実の罪で投獄された者に、自由になるために保釈金を払えというようなもの」。その言葉に勇気づけられた人がどれほどいたことか。
真骨頂は、無念や怒りを挑戦のエネルギーに変える底力、そしてユーモア。「未知の惑星に不時着した。音もなく何も見えない。どうやって生還する?」。極限にいる自分を眺め、おもしろがる。幼い頃からSFと落語が大好きなのだ。
宇宙の無限の時の流れからみれば、人の一生は一瞬のまぼろし。そのはかなさに、逆に救われる。自殺、を思ったことはないのですか? 「それはないです。あわてなくても、いずれみんな必ず死にますから。あせる必要ない」
昨春、福島夫妻を描いたテレビドラマ「指先でつむぐ愛」が放映された。福島の役をつとめたのは中村梅雀(なかむら・ばいじゃく)(51)。95年のNHK大河ドラマで、体が不自由で言語障害もある徳川家重(とくがわ・いえしげ)を演じた。
「徹子の部屋」に出演した福島を見て、中村は仰天する。「何というパワー、頭の回転の速さ、あのタマネギ頭に触るちゃめっ気」。この役は人に渡せない、と思った。ドラマ中の歌「FUTURE」は福島が作詞作曲、中村がピアノで弾いた。2人でトークショーやCDも、と計画している。
◇
障害のある人たちのありようは社会を映す鏡だ。彼らを片隅に追いやる社会は、もろく、貧しい。困難におしつぶされず、人生をきりひらき、社会を変革しようとする人々がいる。たずね歩きながら私は思った。生きるって、なんだろう?
(このシリーズは生井久美子が担当します。本文は敬称略)
◇根拠、ぜひ聞かせてほしい−−遺族・被災者へ説明責任
石原慎太郎・東京都知事が3選直後の記者会見で、阪神大震災について、「首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と述べた。神戸・ポートアイランドの自宅で震度7の直撃を受けたあの時のように心が震えた。当時神戸支局員で、その後もずっと震災にこだわってきた私だが、初めて聞く数字だった。石原知事は同じ会見で、「(選挙中)陰湿に根拠のないバッシングをされた」と、「根拠」にこだわり、不満をぶつけている。ならば、きっと、自分の発言には根拠があるのだろう。ぜひ聞かせてほしい。知事には震災遺族や被災者に対し、説明責任がある。
阪神大震災による死者は、その後の関連死も含めて6434人。このうち1995年1月17日の当日に命を失った人は約5200人とされる。兵庫県警の検視によると、83・7%が家屋の下敷きになった圧死や窒息死。ほとんどが、ほぼ即死状態で、ドーンと揺れてから15分以内に亡くなっていたと分析されている。
だからこそ、建物の耐震性が、その後、社会問題となり、ホテルの耐震強度をごまかした建築士や、経営者が社会の大きな非難を浴びたのではなかったのか。どういうわけで2000という数字が出てきたのだろう。
おそらく、石原知事は、当時の兵庫県知事、貝原俊民さん(73)の登庁時刻と自衛隊派遣要請時刻を問題視し、「オレなら違うよ」とアピールしたかったのだと思う。これについて貝原さんは「石原さんは、とんでもない見当違いをしています。あぜんとしました」と驚きを隠さない。未曽有の地震で災害対策本部の責任者をした者として、自衛隊派遣要請の早さと、犠牲者数の多さを安易に結びつけようとする考えに、違和感を覚えているようだ。
確かに、貝原さんが県庁に到着したのは午前8時20分ごろで、地震の発生から2時間35分後だった。自著「大震災100日の記録 兵庫県知事の手記」(ぎょうせい)で、「どうにかして早く登庁しておればとの悔いは今も残る」と率直に反省し、心情を吐露している。
しかし、当時、神戸は電話回線がズタズタになっており、貝原さんの官舎と県庁がつながったのは、ようやく7時過ぎだった。「110番に電話しても通じないので、単独で登庁することも考えたが、優に40〜50分はかかるだろう。その間、音信不通のまま、私が所在不明となるわけにはいかないし、公舎が県庁の次に連絡がとれやすい場所なので、状況をある程度把握できるまで連絡を待った」と、公舎待機の理由を書いている。難しいが、一つの判断だったことは間違いない。
自衛隊派遣要請が遅れた最大の理由も、通信機能のマヒだ。午前7時ごろに県庁入りできた私は、官舎の貝原さんから指示を受けた職員が、懸命に自衛隊と連絡をとろうとしている姿を見ている。初めて交信できたのは、午前8時10分。ただ、被災状況が不明なため、出動準備だけを依頼しており、正式な「出動要請」は、姫路市に駐屯している陸上自衛隊第3特科連隊と電話が通じた午前10時となった。
ただ、伊丹市に駐屯する陸自第36普通科連隊は、午前6時半に伊丹警察署と協議し、伊丹市に午前7時58分、西宮市に午前8時20分に隊員をそれぞれ派遣するなど、実際には活動は始まっていた。
もっとも、石原知事ならご存じだろうが、自衛隊は、自己完結型の出動が鉄則だから、出動準備に数時間はかかり、大規模になればなるほど、現場展開までに時間を要する。だから地震発生直後から、自衛隊の災害派遣部隊が組織だって救出活動にあたるというようなことは困難で、期待してはいけないのだ。
京都大防災研究所の調査でも、家屋に閉じこめられた被災者総数約16万4000人のうち▽自力で脱出した人が約12万9000人(約79%)▽家族や隣人に救出されたのが約2万7100人(約16%)▽消防、警察、自衛隊による救出は約7900人(約5%)。もし東京で大地震が発生した場合、がれきの中から住民を最初に助け出すのは隣人や家族になることは間違いない。
兵庫県は地震から100日目に「自衛隊への感謝の集い」を開いた。自衛隊が被災者をさまざまな意味で助けてくれたことは、万人が認めるところだ。しかし、大震災から命を守るもの、言い換えれば防災・減災の要は建築建造物の耐震化であり、人命救助は「自助」「共助」「公助」の順に進むものである。石原知事は、この阪神大震災の教訓を素直に受け取り、対策を誤らないでほしい。
制度の枠超え みんな預かる NPO法人「このゆびとーまれ」理事長 惣万佳代子さん(55歳) |
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富山市富岡町の住宅地にあるデイケアハウス「このゆびとーまれ」には毎日、お年寄りや障害のある人、子どもが20〜30人集まってくる。 新聞を読む人、料理の下ごしらえをする人、子どもをあやす人――だれが利用者でだれが職員なのか一見よくわからない。それぞれが自分にできることをし、助け合いながらくつろいでいる。まるで家族のように。 ここでは、介護の必要なお年寄りから、元気な赤ちゃんまで「このゆびにとまった」人は断らない。みんな預かる。入浴や食事の介助など必要なケアはするが、スケジュールはなし。「自分の居場所と人間関係ができれば、職員はちょっとかかわるだけでいいんです」。惣万さんの「戦友」、副理事長の西村和美さん(54)がほほえむ。 ■ ■
この当たり前の風景は、高齢者、障害者、児童と厳しく線を引く福祉の世界では相当型破りなものだった。 しかし、惣万さんら元ベテラン看護師3人は、「だれでも必要なときに必要なだけ利用できる」施設づくりを目指した。「高齢者か障害者のどちらかに絞れば補助金が出る」との市の説得も一蹴(いっしゅう)した。周囲の反対を押し切り、退職金で一戸建てを購入。93年7月、「このゆびとーまれ」を開いた。 制度の枠を取り払ったら、温かくて生き生きした空間ができた。ここを訪れた人は、ここですごす人たちとこの人の大きな笑顔に魅せられる。こういう施設が身近にあれば――共感は、あっという間に広がった。多額の寄付が寄せられ、富山県内には同様の施設が次々誕生した。 そんな「声援」を背に、大音声の富山弁で迫ること4年。県は縦割りの仕組みを超え、柔軟な補助事業を打ち出し、支援を始めた。惣万さんらと県との協調は画期的な「富山型デイサービス」として実り、今春までに、県内の施設は48に増えた。 ■ ■
「制度を壊す側の惣万さんと壊される側の行政。惣万さんの事業にあふれる理念は行政側をもひきつけ、味方にしてしまう」と平野隆之・日本福祉大教授は言う。確かに、行政にも惣万ファンは多い。厚生労働省の石黒秀喜参事官は「デカい声と、ものおじしない明るい気性。お酒を飲んで福祉について語り合う楽しい仲間」と話す。 03年秋には「富山型デイサービス推進特区」が認定され「富山型」は15県余りに広がった。滋賀、佐賀県など「富山型」を独自に推進する自治体も増えている。06年10月には、特区を申請しなくても、全国の高齢者福祉施設と障害児者施設で相互利用が可能になった。 「見とってね〜」。3歳の男の子が、ソファから飛び降りると、認知症のおばあちゃんの手がテーブルの角を覆う。子どもたちの動きを、動けないお年寄りが目で追う。自分の孫だと思って、遊んでやり、しかったりほめたりする人もいる。十分にかまってもらった子どもたちは落ち着き、優しさが育つ。 ソファで、おばあちゃんがうたたねを始めた。「みんな、リラックスしとろう?」。ふっと観音様の顔になった。 文・魚住ゆかり
写真・浅野哲司
■人は建物じゃなくて人に集まる ――障害の有無にかかわらず、赤ちゃんから年寄りまで預かるスタイルは画期的でした。 惣万 これが自然やとか、日本の文化であるとか、相乗効果があるとか言うてきたけど、もともと看護の対象はすべての人。看護師だった私たちは、自然と最初からそうしようと思っとった。まさか、福祉がこんなに縦割りが強いとはねえ。 ――問題はないのですか。 惣万 パニックになって認知症が悪化する、っていう学者もいるがやけど、本当にそうなら13年も続けられんちゃ。リハビリせんでも、しゃべったり笑ったりしてよう動かれるし、痴呆(ちほう)の進行は遅いよね。 ■介護を支援 ――介護体験がおありとか。 惣万 リウマチの母が余命半年と言われて寝たきりになって15年。ベッドを居間に置いて、兄嫁中心に介護した。周りで家族がテレビ見て、食事する。会話もある。孫の姿も見られる。母は生き生きしとった。その一方で、看護師時代は、よくなって退院しても家族が介護しきれず、施設で寂しく死なれるお年寄りを見てつらかった。それで西村たちに声かけて、在宅介護を支援する仕事を始めた。 ――ベテラン看護師でした。 惣万 1人は家庭の事情でここを辞めたけど、今も一緒にやっとる西村は看護学校の後輩。彼女は、定年まで日赤で働く人生設計だったし、重要なポストにもおったがやけど、一緒にやると言ってくれた。 ――補助金を断ったとか。 惣万 たくましさといおうか、鈍感力といおうか(笑)。病院の整形外科部長から「ばかあほまぬけの3人」て言われたね。「事業は、そんな甘っちょろいこと言うとってはできん」と。たしかに、介護保険の事業者になるまではきつかったね。 運転資金は借金。オープン2カ月後にNHKで取り上げられたら、全国から「つぶさないで」と1000万円以上寄付が集まった。それでも利用者は1日平均1.8人、1カ月の収入は12万〜18万円。経費を引いたら数万円しか残らない。給料袋にお金入れてたら、途中でお金なくなって、何日か遅れてあげた。給料は、今も現金で渡しとる。私たちと職員が、お互いに感謝するいい機会やから。 ――「断らない」が信条。 惣万 最初は断るどころか来んかったんだけど(笑)。当時の特養や老健の利用料は、1日600〜700円。うちは、利用料2500円とご飯代で3000円。5倍も高いのに来てくれたのは、休日関係なく朝早くから夕方まで仕事の自営業の人たち。うちは朝7時半から午後6時までで、時には8時までみるし、年中無休やから、だいぶ高いがやけど、ここがいい、と。 ――知的障害者スタッフも。 惣万 子どもの面倒みたり、お年寄りの話し相手したりする有償ボランティア。彼ら5人がおると、雰囲気がやわらかくなる。最初にきた恭子ちゃんは、就職に2回失敗して家で落ち込んでた。彼女が元気に働く姿を見た利用者が「ここで働きたい」とがんばるようになった。 ■ニーズが先 ――職員に求めることは。 惣万 人間くさい人がいいね。感性を磨いて、常に利用者サイドに立ってほしいちゃ。黒衣になって、自然な形で、お年寄りと子供たち、障害児と健常児をかかわらせてほしい。新人がきても、マニュアルもオリエンテーションもないがやけど、何日間か先輩について一緒に仕事しながら覚えてもらっとる。 ――職員の表情がいい。 惣万 研修にこられた人が、うちの職員は、同僚の悪口も、上司の悪口も言わんと驚いとった。職員同士、ものすごい仲いいが。よう考えたら、わしらも悪口言わんちゃね。 ――制度改善に積極的に取り組んできました。 惣万 行政にとっては、目の上のたんこぶみたいながやったね。一緒に作った富山型デイサービスが、昨秋から全国で実現しやすくなったのはうれしかったけど、富山型は行政が積極的に進めてくれんでもいいが。理念に共感してくれて、思いがある人がしないと続かないもの。ただ、やりたい人がおったら、止めることはせんでほしい。 ――夢が次々実現しました。 惣万 ニーズに柔軟に応じて活動して、あとから制度をつくりあげてく。これこそがNPOの役割だと思うが。ただ、もともと利益が上がるようなことやっとらんのに、法人税率40%は高い。下げてもらえんかね。職員の給料上げてやりたいしね。 ――終末ケアも熱心です。 惣万 これまでに看取(みと)ったがは6人。本人と家族と私らの希望が一致しないとできんがやけど、これらからも本人の望む死をサポートしたい。有償ボランティア5人のための共同生活所や、高級かどうかわからんけどそれなりの人が入りたくなるショートステイやグループホームもつくりたい。もちろん、人は建物じゃなくて人に来るがやから、人を大切に育てたいね。
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東京都文京区立の特別養護老人ホーム「くすのきの郷(さと)」が観光ビザで来日したフィリピン人女性を働かせて介護保険法の人員基準を満たしているように見せかけていた問題で、都は1日、同法に基づき同施設を立ち入り検査(監査)した。都は、区からも事情を聞いたうえで、業務改善勧告することなどを検討している。
都福祉保健局によると、施設には1日午前、職員9人が監査に入り、フィリピン人女性が組み込まれていた夜間の勤務表などを調べる一方、施設長らから事情を聞いた。施設では今年2月までの5年近く、夜勤者5人のうち2人がフィリピン人女性だったのに、日本人女性のように装った書類を作成して、都にも報告していた。
東京都文京区立の特別養護老人ホームで、観光ビザで来日したフィリピン人女性をヘルパーとして働かせて介護保険法の人員基準を満たしているように装っていたことが発覚した。背景には、介護現場の切実な人手不足がある。(大沢帝治)
特別養護老人ホーム「くすのきの郷(さと)」で、不正が明るみに出たのは今年2月。指定管理者として運営していた社会福祉法人「同胞互助会」(昭島市)の施設長が「これ以上、良心の呵責(かしゃく)に耐えられない」と区などに電話で伝えたのが発端だった。
同胞互助会などによると、不正受給は2002年4月ごろから今年2月まで行われていた。同施設は定員100人で、介護保険法で定められた夜勤の職員は5人。人員基準を満たせない状態は以前から続いてきたが、都に早期の改善を求められ、調布市のNPO法人からボランティア名目で派遣を受けていたフィリピン人女性を夜勤の人数に繰り入れるようになったという。
フィリピン人女性は食事や排せつの世話にもあたっていたが、施設では日本人が勤務したように装って、区に満額の介護報酬を請求していた。不正に受け取った介護報酬は施設側の推計で計4000万円。同胞互助会からは1人あたり月額平均18万9000円が「賛助会費」としてNPO法人に支払われ、NPO法人は立て替えた渡航費やアパートの家賃などを除いて、女性に6万7000円を手渡していた。
NPOの代表者は、女性たちが帰国後、日本での実習体験を紹介したり、日本から介護が必要な旅行者が訪れた時に迎え入れる活動に携わったりしているとして、「施設側はヘルパー不足を補えるし、フィリピン人女性は技術を身に着けられる。外国人を介護現場に受け入れるモデルケースだ」と主張する。
同胞互助会の理事も「『お金を出せば人は集まる』と言われるが、簡単にはいかない。フィリピンの人たちは優しいし技術もあるので、評判が良かった」と話す。目的は人手の確保であって、不正請求のためではないという理屈だが、就労に限りなく近い実態をボランティアとしたり、日本人の名前で届け出たりしたことは言い逃れできない。
しかし、介護現場の人手不足が深刻なのは事実だ。厚生労働省の統計では、昨年の全職業の有効求人倍率は1・02だが、介護関連職種は1・68。入浴介助などは体力的な負担が重く、精神的な緊張も強いられるのに、高収入とは言えず、休みもとりづらい。このため1年以内の離職率も20・2%と全労働者の平均よりも3ポイント近く高い。
国の社会保障審議会での試算では、介護が必要な人の数は2014年には少なく見積もっても、04年の約1・5倍の600万人に達する。これに伴い、介護職員も最低でもあと40万人近く増やさなければならず、単純な介護報酬の引き上げは、国民負担の大幅な増加を招く。
そこで現実的な選択肢となるのは、フィリピンなどからの外国人労働者の受け入れだ。政府は昨年9月、フィリピンとの経済連携協定(EPA)に署名、当初の2年間で介護職員を最大600人受け入れることで合意した。フィリピン側の批准の遅れでまだ発効していないが、介護施設などに就労し、4年以内に介護福祉士の試験に合格すれば、希望する限り、日本で働き続けられる仕組みだ。
ただ、国の方針は、高度で専門的な知識を持つ外国人だけを受け入れるのが原則。言葉の壁に加えて、対象はフィリピンでも介護士資格を持つ人などでハードルは高い。厚労省福祉基盤課は、「外国人労働者の受け入れ全般に影響を及ぼすため、介護分野だけ条件を緩和するわけにはいかない」と説明するが、“戦力”にするためには、門戸を広げる工夫も必要だろう。
介護の担い手確保には、待遇改善と人材の供給源確保が不可欠だ。ただし、どちらにしても、国民負担の増加や外国人労働者受け入れなどの難題が立ちはだかる。
「くすのきの郷」のように、フィリピン人をヤミ雇用して人手不足をしのごうとする施設を根絶するためにも、早急な議論と方向付けが求められる。
コムスンをやめた若者を何人か知っている。「お年寄りを金もうけの道具としか思っていない」「ノルマに追われ、本社に呼びつけられて絞られる」。介護分野からの「退場」を宣告されるずっと以前から、コムスンの金もうけ主義はよく知られていた。
しかし、なりふり構わぬ金もうけ主義をもってしても、もうからないのが訪問介護事業の現実である。
かつては、行政がお年寄りや障害者にどんな福祉サービスが必要なのかを決めていた。本人の意思を尊重してサービスを自ら選べるようにしようと、福祉の世界に契約の概念が導入されて始まったのが、介護保険であり、支援費制度や障害者自立支援事業である。
ところが、報酬単価が低くて事業者は増えず、過疎地での事業展開や、自傷他害の行為があったりして手の掛かるお年寄りや障害者は「不採算部門」のように見られて敬遠される。利用者が自らサービスを選ぶどころか、事業者から選ばれない人の存在が問題になっている。どこにも相手にされないお年寄りや障害者が千葉県浦安市の無認可老人施設で檻(おり)に閉じこめられていたことを思い出してほしい。
不正は厳しく追及されるべきだが、まじめに運営している普通の事業者が「不採算部門」も担えるようにするためには、もう少しもうけられるようにしないといけない。豪邸や自家用飛行機を持てなくても、困っている高齢者や障害者を何とかしたいと思っている事業者はたくさんいる。
コムスンをやめて、給料の安い不安定な福祉現場で汗を流している若者もいる。(夕刊編集部)
毎日新聞 2007年7月1日 東京朝刊
先月末の阪急阪神ホールディングスの株主総会でのこと。傘下の阪急電鉄が1999年から実施している「全席優先座席」について、高齢の株主が「普通の優先座席があったほうが席を譲ってもらいやすい」と見直しを求めた。突然の発言に、複雑な思いが広がった▲どの席でも困っている人がいたら譲るのは当然−−そんな善意への期待が「全席優先座席」を生んだ。一部のシートにあった優先表示が、ドアの上の「席をおゆずりください」のシールに替わった。株主の発言は、そんな理想と現実のギャップを突きつけるもので、阪急も再検討を始めた▲優先座席は73年9月15日の敬老の日、東京の国鉄(現JR東日本)中央線に初めて登場した。老人医療費の無料化や年金の物価スライド制が始まり、「福祉元年」といわれた年だ。75年、運輸省(現国土交通省)の通達で全私鉄に広がった▲四半世紀を経て阪急が「全席優先」に転換した時、「今でも有名無実化しているのに」と冷ややかな声があった。大手私鉄も、お手並み拝見とばかりに追随しなかった。にもかかわらず、おおむね好意的に受け止められたのは、だれもが思いやりの心を信じたかったからではないだろうか▲明確に区分けされた優先座席が人の善意を引き出すきっかけになっているのは事実だ。一方で、お年寄りに席を譲らない男が注意されて逆切れしたり、若い女性に注意した男性が口論の末、相手を殴って捕まるなど、トラブルも頻発している▲だが、「ありがとう」の一言にぬくもりを感じない人はいないはず。阪急の再検討を「それみたことか」と冷笑しても何も変わらない。新たな問題提起だと受け止めたい。私たちはどんな社会を望むのか。もう一度、考え直してみよう。
毎日新聞 2007年7月16日 東京朝刊
自宅のようなホーム全国展開 メッセージ社長 橋本俊明さん(59) |
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読書家だ。 毎日、3〜4冊を並行して読む。面白くなければ、すぐ新しい本と取り換える。読破する本はひと月に約30冊。豊富な知識で独自の介護論を展開する。 自宅にいた状態に、できる限り近い環境で過ごしてもらう。それが介護の理想だという。 「至れり尽くせりの施設の生活は国内外を問わず、認知力や身体能力が次第に低下していくのが現実です。むしろ、一人暮らしの方が元気な場合が多い。だが、セキュリティーの面で不安がある。両方の良いところを生かせる施設が理想です」 消化器専門の外科医。45歳の時、介護事業に本格的に乗り出した。入居一時金のいらない低料金の有料老人ホーム「アミーユ」の経営で急成長。現在、仙台市から松山市まで全国127カ所で展開する。 ■ ■
91年、病院の後方施設としてリハビリ主体の老人保健施設を始めたのがきっかけだった。手はかからないと思っていたら、とんでもなかった。家庭から入所する人も多く、たちまち満員に。さらに、食事をのどに詰まらせたり、転倒したりする事故も相次いだ。 介護士でさえ介護の基本をきちんと理解できていないと感じ、自ら勉強せざるを得なくなった。海外の専門書を手に取った。さらに先進国のオーストラリアやイギリスなどの老人ホームを見て回り、世界標準の介護論を学んだ。 「手術ができる医者はいっぱいいるが、老人介護が分かっている医者はほとんどいない。自分にしかできないのではないかと思った。青空がぱーっと広がった感じだった」 最初に取り組んだのは認知症のグループホームだった。95年当時、全国的にもまだ珍しかった少人数のユニットケアで注目を集めた。00年度に始まった介護保険制度で、相部屋のグループホームが補助対象から外されたのを機に、介護付き有料老人ホーム「アミーユ」の展開へとシフトした。 「有料老人ホームの評判は昔からあまりよくなかった。例えば、入居一時金が1000万円もして、しかも入居時点で300万円が戻ってこない。そんなやり方に警鐘を鳴らしたかった」 ■ ■
目指したのは、年金の平均を目安に月額12万円から16万円で入居できる有料老人ホーム。初期投資を抑えるため建物は地主に建ててもらい、賃貸料を払う方式にした。 これがあたった。入居一時金を徴収しなくても十分運営できるうえ、新たな展開もしやすかった。00年の6カ所が02年に21カ所、04年には77カ所とハイペースで増えていった。 いま取り組んでいるのが、高齢者専用賃貸住宅だ。好きな時に炊事や洗濯をしたり、風呂に入ったりできる。競馬、パチンコ、買い物も自由。必要な時だけ支援する。 大阪の吹田市に試験的に造った。「国内にこの種の施設はあまりないが、ヨーロッパでは何らかの障害のある老人の25%が生活している」。日本でもいずれ普及するとみて、試行錯誤を続けている。 文・佐藤昭仁
写真・熊谷武二
■賃貸借方式で一時金とらず急拡大 ――医者を辞めてまで介護事業に力を入れるようになった最大の要因は何でしょうか。 橋本 老人介護の奥深さを知ったことです。勉強するたびに新しいことばかりで、実践すればすぐに成果が出ました。人のできないことを自分がやっているという満足感があり、それは楽しかったですね。 ――奥さんは。 橋本 反対しました。「医者と結婚したが、商売人と一緒になったつもりはない」と。 ――まず成功したのは95年に始めた認知症向けグループホームでした。どんな点が良かったのでしょうか。 橋本 目が覚めたら朝食の香りがしたり、おはようと声をかけ合ったり……。普通の家庭の雰囲気ですね。これが非常に良い影響を与えた。そこで要介護老人全般に広げようと思ったのです。グループホームの形態で有料老人ホームをやればうまくいくと確信しました。 ■入居料安く ――有料老人ホームの建物を自前で造らず、地主に施設を造ってもらい賃料を払うという、あまり例のない方式を採っていますが。 橋本 資金がないのでこのやり方にしました。ファミリーレストランなどに多く採り入れられています。どうせやるなら最初から一気に全国展開しようと思っていましたから。もし自前で土地を買って施設を建てていたら、初期投資がかかり過ぎてとてもできませんでした。 ――勝算はあったのですか。 橋本 最初は散々でした。100カ所ほど声をかけても実現したのは1、2カ所。でも、実績ができると、比較的楽に展開できました。00年の6カ所から始め、05年には100カ所を突破しました。入居者数も07年に6000人強まで増えました。 ――常に95%以上という入居率は他の施設に比べてかなり高い。成功の理由は? 橋本 まず、入居料を低く抑えたのと、入居一時金をできる限り取らないようにしたことでしょうか。グループホームから発展させたので、最初から入居一時金は一切いただかないつもりでしたが、大阪周辺では一時金をとらないと信用されないと言われ、一部地域で敷金として3カ月分をとりました。それも昨年4月からは新設施設ですべて廃止。今年6月からはすべての新規入居者からいただいていません。 ――コストを抑えるため、どんな工夫をしていますか。 橋本 セントラルキッチン方式で食費のコストを約30%削減しています。埼玉、京都、名古屋など全国8カ所に設けた調理の拠点で半加工して各施設に送り届けています。それと介護スタッフの効率的な配置です。人員配置表を手作業で作っていたころはスタッフの50%しか仕事ができませんでしたが、ソフトメーカーと共同開発したパソコンプログラムを使い、80%まで高めることができました。 ■自立を促す ――スタッフの研修にもずいぶん力を入れていますね。 橋本 対人サービスだからマニュアル化できない部分も多くその場その場でいろんな対応の仕方がある。現場では毎日、様々なことが起きています。常識にとらわれると大きなミスを犯しかねません。研修は4ブロックに分け、管理者は月2回、現場スタッフには月1回の研修を実施します。管理者に対し2カ月に1度は私が講習をします。 ――専門家でさえ介護のあり方を間違っていることが少なくないそうですね。 橋本 意外と多いのが最初から援助することしか考えないケースですね。半身マヒでもまず自分でやってもらうと、いろんな工夫をするようになる。その上でどんな点を援助してほしいかを聞く。順番が大切です。最初からすべて援助してしまうと機能回復の芽をつみ取るばかりか、身体能力や認知力の低下にもつながりかねません。 ――老人ホームの構造にも問題があるそうですね。 橋本 パブリックスペースを広くし、プライベートスペースを犠牲にしているのが一般的です。これではプライバシーが守れません。例えば、失禁した場合、自室で洗濯できれば、他人に知られることもありません。炊事、洗濯、入浴。自分でできる人にはできる限りやっていただく方がいい。 ――だから自宅にいた時に近い環境で過ごすことを理想に掲げているわけですね。 橋本 それを実現するため今年から始めたのが「高齢者専用賃貸住宅」です。1室25平方メートルほどで、キッチン、トイレ、バス付き。入居者には自由に生活してもらう。一般的に、施設は管理責任を問われないように入居者の生活を制限しますが、これが機能回復を妨げるなどマイナスの影響をもたらします。ここでは、できない部分だけ援助する。日本の介護事業はまだまだ発展途上にあります。これからも様々な形で新しい境地を開いていきたいと思います。
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