伊藤萬蔵の研究家・田野尻弘氏の個人報「萬蔵報」最終号(創刊百号記念号・平成24年7月)に「東海奇人伝・伊藤萬蔵」が掲載された。これは、伊藤萬蔵の本家・伊藤家から「家を整理していたら、こんなものが出てきた。我が家に残るたった一つの『萬蔵本』ではないかと思って・・・」との連絡で、萬蔵生前の対談集「東海奇人伝」が陽の目を見た。田野尻氏は、「この奇人伝の意とするものが、どこまで本当なのか、私には解らない」が、今後の調査・研究の糧になればと思い掲載したとのこと。対談の時期は、奇人伝によれば萬蔵84歳の大正5年である。

 

東海奇人伝(第16回) 伊藤萬蔵

 作 戸羽三十、演出 張田淳二

「私もナ、この正月で八十五になりますぢゃ、それで、一ぺん、私の生い立ちをお話し申し、それをまとめて下さればと思いましてナ、孫子の末までも、この年寄りが、どうしてこういうことをしてきたかを忘れんように、覚えておいてもらいたいです。わざわざお出ましを願ったようなわけですわい」

 「おう、それはそれはご奇特なお志、よっく承りましょうぞ。こうして暖かい火桶に身も心も寛いで、ゆったりとして心持ちでお話し下され」

 京都紫野大徳寺の沙門、大観隆雅居士は、いちいち合点、合点をしながら、老人がぽつりぽつりと語り出すのを最大もらさす聞き入り、肝心のところどころを手帳に書きとめた。それは、老人が九十五才の長寿を保って昭和二年の一月に死んだ時からかぞえて十一年前の冬の夜のしみじみとした物語である。老人は姓は伊藤、名は萬蔵、全国至るところの神社仏閣に石標を寄進し、その数は、何万何千本とも、自分でも知らなかった篤信の人である。そういえば、神社仏閣に詣でた人なら誰でも石標に横側に「名古屋塩町伊藤萬蔵」-と、彫ってあるのを見たことであろう。その伊藤萬蔵こそ、この老人なのである。

 萬蔵は、尾張国、丹羽郡平島村、伊藤冶左衛門の長男に生まれ、早く十二才の時、いつまでも親のスネばかりをかじっていては立派な一人前の男になれないと感じ、今まで貰いためた金五円を資本に、綿の実と玉子を買って売って五十銭、つまり一割を儲けたのが、そもそも萬蔵の独立独行のはじめであった。

 以来、品物を買って来て、すぐ売るという、いねば仲買いを続け、とにもかくにも利をあげ、十八才のときには津島神社の夏祭りを目あてに、大根の種子二斗を仕入れ、汗だくだくになって神社の門の前に辿りつき、むしろをひろげて店を張り、「さあさあ、大根のタネの大安売りぢゃ、大安売りぢゃ、買わんか買わんかー」と声をはり上げて参詣者に呼びかけた。しかし、客は一人も無かった。ただ汗にぬれ、ほこりをかむっただけで、まんまとクタビレ儲け、またも二斗のタネを背負い、重い足をひきづって戻らねばならなかった。

 「やれきょうはヒドイ目にあった。しかし、商売というものは、こうゆうものだ、儲かるだけのこととは限らない。だからこそ、儲けた金は大切にせにゃならんわい」

 萬蔵は、疲れた足をさすりながら、商売というものの本当の姿を体験して、世渡りの極意をおぼろげながら感ずるのであった。それから十年、二十五の正月十七日、身を清めて家を出た萬蔵の旅支度の姿は、西え西えと下って行った。萬蔵はこの年を期して、立派な仲買人なる決意を新たに、ます、日ごろ信ずる弘法大師の霊場、西国三十三ケ所めぐりを志しての旅であったのである。

「日に夜を重ねておよそニヶ月、三月四日に帰れました時のそのうれしさ、もう六十年も昔のことながら、今思い出しても胸がワクワク躍るのを覚えますぢゃ」

「おおそうでござろう、そうでござろう」。

 「あんなうれしいことはござりませなんだ」

萬蔵は目をしばたいて語るのである。

 「なんしろそう覚悟をきめたこと、それからいろいろと準備をしましてな、その年の八月、寺沢五右衛門という人に、つれて行ってもらって、名古屋の中市場の綿市、八木という、二軒の大きな問屋に出入りすることになりましたぢゃ。もうこれで糸口はみつかるし、あとは誠実と堪忍を資本に、一心不乱に商いをしようという決心が固まりましたのぢゃと」、

 「うむなるほど、なるほど」、

 「それで、易者にみてもらいましたらのう、お前は長男ぢゃが、家をつぐ仁ぢゃない、といって坊主になってもいかん、家を出て遠くで商いをやれー、こういうんでな、ますます決心が固うなりましたぢゃて」

 決心がつくと、あとは家郷に何の未練も残さすに、遂に三十才の六月十四日午後六時、一台の荷車に箪笥、長持、秤、升などを積みこみ、萬蔵が梶棒を握り、妻が後を押して、すぐに借りておいた名古屋塩町の家え、翌る十五日の朝早くについて荷をおろしたのである。

 萬蔵は、名古屋に店を開くなり、その日から休むことなく、一宮と名古屋の間を往復して、米と綿の仲買いに専念した。帰ってきても、相場の変動があると、またすぐ一宮え走り、その足で名古屋え戻るという、それこそ昼も夜もなく、ただ、相場のことだけに頭がーっぱいで、働きつづけて休むということがなかった。おかけで三年の後には、貯金が三千五・六百円になった。

 「やれやれ、これで一安心と、ほんとうにあの時だけはホッとしましたぢゃ。ところがそのホッとした安心も束の間、明治の御一新のさわぎで、諸物価は大暴落、米も綿もあったもんぢゃなかったんで、またたたくまに、その三千五・六百円の貯金が、大水を引いて行くように減っていってしまって、差引き八百円になった時には、もうアカンと観念しましたわい」。

 「ほほう、そうでしたか」。

 「ええもうこの上、名古屋でグズグズしていては、それこそ元も子もなくなると思いましてな、在所えかえろうと相談をはじめていると、熱田様の宮大工で、横井という人がありましてナ、屋敷と、六石二人扶持の株を五百円で買え、そうして、さらに大宮司の丹波守さまたちから百円ほど用意せよーという仰せでナ、ようしここが思案のしどころと、よっく考えぬいたあげく一思いにお申込みどおりにしましたわい。残った金が二百円、実は在所えかえるのも今さらしゃくで、その金を元手に質屋をはじめましてナ、それこそ、お爪に火をともすようにして諸事倹約と堪忍を第一に、決して人の力をあてにせず、われとわが力だけが味方だと、いよいよ信心の道に入り、どうにか、こうにか思い出しても恐ろしかった。あの大変動の世の中をすごして参りましたのですわ。これも、ひとえに、日ごろ信心する神や仏、ことには大師さまのお救いでー」

 萬蔵の語る言葉も涙にぬれていくのである。

 「お坊さま、私はナ、若い時に西国三十三ケ所めぐりに出かけましたぢゃろ、あの時、四国から船で渡ろうとした晩に、夢枕に立った一人の僧侶が、船に乗るな、一日延ばせーと告げられ、これは大変、お参りをすませて心地よう帰ろうとするその最後の日に、船にのってはいかんというお告げでしょうがな、私はそれを、お大師さまのおさとしと心得て、一日のばしましてナ、ところがどうです、その船はシケをくって大難儀をしたと聞いて、ああよかった、助かったと、あんなうれしいことはありませなんだ。ほんとにうれしく、うれしくー。あの時、若気の元気で何をバカなーと、その船にのっといたらどうでしたうー」

 「うーむ、これは不思議なお物語、まこと、うれしかったでござろうのう」

 「ハイ、ハイ、ああ思わず、うれし涙がまたこぼれましたわい。」

 おっと、お話し申すのがあと先になりました。八十四才の萬蔵とはみえぬ頑健な萬蔵は、小柄であるが、腰もシャンと座って語る言葉もハッキリしている。どこえもコツコツと下駄の歯の音をさせて歩いた。これは若いころに名古屋と一宮の間を、毎日、毎日歩いて往復したクセが習いとなったのであろうし、歩くことが最良の健康法だと信じていたからでもある。

萬蔵は少しも身辺を飾ろうとはしない、いつも木綿の着物で、日和下駄をはいてコツコツと歩いている朴とつな姿は、これが、全国、どこの神社仏閣でもみかける「名古屋塩町伊藤萬蔵、と横側にかいた、石標の寄進者だとはみえなかった。酒ものます、タバコもすわす、ただ商売を止めてからは、お参りが唯一の道楽であった。

 商売というのは、米と綿の仲買から一転して質屋をはじめ、さらに明治二十六年名古屋米穀取引所となってからは理事にあげられ、押しも押されぬ一流の米穀仲買人にしての重きをなし、ある時期には、三井の指令をうけて出勤し、一挙に巨万の富を築きあげたりした。由来、米の仲買いは、取引の盛衰によって浮き沈みにもはなはだしいものがあったにもかかわらず、萬蔵は子供のころから長い経験と、鋭いカンの働きによって、いよいよ隆昌の一途をたどっていったのである。

 「私はナ、ほんとうは、それが恐ろしかったわい、これが上げ汐にのったのだと思ったら、張って張って張りまくれという人もありますが、私は張って張ってもう一度張るところで止めました。なにごとも堪忍、これが私の信条、それで、もう一歩というところでとまりました。おかげでヒドイ目にもあわずに続けて来られたのです」。

 「なるほど、そういうものですな、あなたのその堪忍ということは、誰も、ロではいえても、誰も実行できることではない、それをあなたはやりとげられたんぢゃ、さすがだと感服しますぞえ。」

 上げ汐にのった萬蔵は、いつも念頭を去らない、報恩感謝を現はすのには、いまが最もいい時期だしと考え、全国の神社仏閣に石標を寄進することを思いたち、ますその費用を概算して、基金を銀行に預け、その利子でやっていけば、基金に手をかけない以上、死んでも続けられるという方法を案出し、すぐ実行に移した。石橋の表面には、その神社なり仏閣なりの称号をしるし、横側に、ただ「名古屋市伊藤萬蔵」とだけ掘りこんで、商売は書かなかった。だから、どこにでもある伊藤萬蔵の石標をみたものは、「伊藤萬蔵という人は何者だろうか」と、不審に思ったのである。が、伊藤萬蔵とは、このような生まれ立ちの人であった。

 名古屋に程近い清州に、柴山藤蔵という人があって、この人もまた、伊藤萬融と同じく、全国の社寺に石標を寄進したので有名であるが、萬蔵は基金から生ずる利子のある限り、寄付の申込みがあれば、どんどん無条件で応じた。その一年間に利子が余れば、その金で予の石標を買っておいて、翌る年の分にくりこんだ、心に決めたことには、少しも間ちがわぬようにするという、固い石のような萬蔵の信念の発露でもある。

 堪忍を守るその身は生き如来、仏というは腹たたぬ人。

萬蔵の自詠である。萬蔵世の中の人が、みんなこうなれば、夫婦の和合、家庭の円満は必ずあるといって、この和歌を自ら短冊に害き、春秋の彼岸の中日に、近くの円頓寺筋の高田御坊に出かけ、参詣の人達に「さあア、みなさん どうぞ短冊を貰ってやって下され、夫婦和合のお守りぢゃー」といって配った。この歌はよほど気に入ったらしく、九十五才を迎える年の正月にも、服紗に染めて知人に贈った。

 萬蔵は明治二十四年、五十四才で那古野神社の氏子総代になってから、死ぬまでの四十一年間を奉仕し続け、また覚王山に弘法堂を建て、四国の霊場から砂をとりよせてまつり、篤信の人だちと共に、イの一番講を作ってもいるのである。かくして、九十五年の数奇な生涯をもった伊藤萬蔵は、昭和二年一月二十八日、静に世を辞したのである。

堪忍を守るその身は生き如来、仏というは腹立たぬ人
                                                                                                  (平成24年7月 「萬蔵報」)より