石の語り部 伊藤萬蔵めぐり(付録)


 伊藤萬蔵翁の事
                                  
矢田 績 

◇名古屋の名物老人伊藤萬蔵翁は、九十五歳の高齢で亡くなった。翁は一種の奇人でもあるが、又立志伝中の人であり、意志堅固自信力の強い人であった。自分は翁と別段親しき間柄でも無く、何等膝を交えて話し合った事も無いが、十余年前自分が以前名古屋に住居せし折、能く翁の事を聞き、又途中等で翁を見掛けた事もあるが、当時は既に八十前後で老齢であったが実に壮者を凌ぐ程の大元気で往来を闊歩していた。元来翁は矮躯短身風来頗る貧弱なる小男であったが、小男の常として身の丈を大きく見せんとしてか、翁は晴天の日でも高き木履を穿ち平気でカラカラと歩んでいた。これは背の関係の他に一つは経済上高下駄が徳用であるからでもあった。

◇翁は元微賤より身を起こしたのであるが、謹厳節約家を立て産を起こし、立派な家庭を作り出すと同時に神仏に対して深き信仰を初念し其信仰心の発露として、全国有名なる神社仏閣に鳥居又は石灯籠を寄進する事を思い立ったのである。翁の一念玆に萌すや、生来の窮行実践はドシドシ此寄進を実行し始め、三四十年の間に各地の名殺名社に鳥居又は石灯籠を已寄進せしことに一千基に近しと云ふ。自分共が遠隔の地方に旅行して、偶々神社仏閣に参拝し、名古屋塩町伊藤萬蔵奉納と刻せる鳥居又は石灯籠を目撃せし事 実に数え切れぬ程である。翁が神仏信仰の熱烈なるは申す迄も無く、其意思の強固にして一度思い立てば飽くまで実行するの念頗る熾烈なるを見るべきである。

◇自分は一昨年の夏頃 千種方面に用向あり、其帰るさ電車を待っていると、フト見れば翁も電車を待って立っていたので、自分は翁に近寄り声を掛け、伊藤萬蔵さんではないかと尋ねたところ、翁は自分にお前さんは誰ぢゃと問ふ。自分は矢田績ですと答へたら、お前さんの名前は能く知って居るとの話。其中に電車が来たので共に乗車し車中色々の話を交へたが、平生の養生法は別に是と云ふ事は無い。唯早く寝 早く起き、酒煙草は嫌ひ、常に信仰せば其れで長命は出来る。鳥居や石灯籠は随分沢山寄進したが、マダマダ寄進したい場所はいくらもある。毎年予算を立て、数を定め、追々と寄進する積もりであるなどと話する中に、翁は用事があるから乗替へだと、東新町で下車し分かれたのである。

◇其時車中で風呂敷包を解いて之をお前さんに進ぜんと呉れたのは、例の翁得意の「堪忍を守る其身は生き如来仏といふは腹立たぬ人」の書であった。自分は今でも保存して居るのであるが、其修行の割合に筆跡見事であり、又字句や筆蹟どうあろうとがも、翁の精神が現われて居れば夫れで宜しいのである。

◇翁は常に慈善心に富み、又身を奉ずること頗る薄く 人を待つこと極めて厚く 謹直なる中にも親しみ易き人であった。現今世の風潮極めて極悪、世間権利あるを知って、義務あるを知らず、甚だしきは労を厭ふて逸楽を貪り、額に汗せずして贅沢を事とせんとする者滔滔皆然りである。斯る浅ましき時代に翁の如き唯勤倹飽まで奮闘努力、強固なる信念の下に社会の為に尽くさんとする其精神誠意誠に敬服に堪へないのである。

◇翁は必ずや百歳以上の長寿を保たるる事と思はれたに、溘焉逝去したのは残念である。然れでも翁が残せし遺訓は永く後世を戒むるに充分である。翁も亦地下に瞑すべきである。自分は深く翁を知らないが翁の葬儀に際し、翁の生前の徳行に対して敬意を表すべく特に会葬して焼香参拝したのである。

                                                         (昭和2年2月4日付け 新愛知新聞)

「萬蔵めぐり」

                                          湯浅典久 

皆さんは、「名古屋市西区塩町 伊藤萬蔵」という名前を、神社・寺の狛犬、常夜灯、線香台、花壷で見たことはないでしょうか。例えば、荒子観音、熱田神宮、西国三十三ヵ所、四国八十八ヵ所等で見ることができます。大変マニアックなテーマですが、「伊藤萬蔵」に迫ってみます。

1 伊藤萬蔵とは

 私が、伊藤萬蔵に興味を持ったのは、職場の友人と四国八十八ヵ所へ歩き遍路を始めた頃です。四国の寺にある花壷の寄進者として「名古屋市西区塩町 伊藤萬蔵」を見かけるようになり、伊藤萬蔵は、どこのどういう人だろうかと疑問を持つようになった。その頃、二つの情報が得られた。一つは、名古屋の出版社「ブックショップマイタウン」代表の舟橋武志氏がメールマガジンで伊藤萬蔵をテーマにした「名古屋奇人伝」を連載し始めたこと。二つめは、遍路関係の本の中で伊藤萬蔵の寄進物を追い求めている田野尻弘さんの「石の語り部」の存在を知ったことだった。両者の情報から、田野尻さんの住所が判明した。早速、2004年5月に友人と中川区荒子観音前のお住まいを訪れました。田野尻さんは、元警察官で地道に寄進物を調査され、私家版「石の語り部」を出されていた。これらの情報から、伊藤萬蔵の姿が少し浮かんで来た。

伊藤萬蔵の略歴は、「天保4年(1833)年正月、尾張国中島郡平島村(現一宮市丹陽町平島)に生まれた。名古屋城下にて商売を始め、米取引によって財をなした。明治13年から没年に至る47年間にわたり、全国の社寺への寄進や道標を建て続け、その数は千基ともいわれている。昭和2年1月28日、九十五才で亡くなった。」ということである。生まれを聞いて、ビックリ。私の住む町である。そうすると今までと違うフィルターで近所の神社・寺を見ると、私の家の菩提寺にも、いつもの自転車通勤ルート途中で見かける横倒しの灯籠も皆、伊藤萬蔵が刻まれていた。その後から私の萬蔵めぐりが始まったのである。

この辺の事情を田野尻さんの超ミニコミ誌「萬蔵報第6号」で次のように紹介されている。「5月の始め名古屋の瑞穂区に職場を持つ、湯浅さんという未知の人から電話があった。四国遍路を始め、萬蔵の名前を知り、遍路に関する本を購入した。その中で目にしたのが萬蔵と私の名前、インターネットや電話帳で私方を探し出し訪ねてくれた。私が驚いたのは彼の住所地、萬蔵の出生地と同じ、一宮市丹陽町であった。以来彼は、萬蔵を郷土の偉大なる先輩として、私の作った一覧表をもとに、萬蔵寄進物探索を始める程の熱心さ、新規発見を知らせ、ホームページを開設するほどのスピード振りである」

2 萬蔵めぐり

 平成16年までに確認されている426件のうち私が訪れたのはいくつぐらいだろうか。改めてチェックしてみた。ざっと180件だろうか。まだ半分にも達していない。近場を中心に回っているので、遠いところが残っている。リストには、東は静岡の可睡斎から西は広島の厳島神社まで載っている。

私も新規発見を見つけることができないかと、田野尻さんにチェックポイントをお聞きし探してみた。探すポイントは、弘法大師に関連した所、四国、知多の新四国、西国三十三ヵ所等。また、観音様、善光寺、旧街道沿いも可能性があると聞いた。

 私の新規発見第1号は、昨年5月に地元を走っていた時。萬蔵の力強い字だと分かる寺標だった。その頃、友人も知多四国を回っていた時に見つけた。その後1年間は、新規発見もままならず、既知の寄進物をつぶしていく日々が続いた。リストは、寄進物のある位置を簡単なメモ付きで紹介されているが、現地に行っても見つけられないことがあった。そんな時には、田野尻さんに問い合わせて再確認した。

2005年になって、田野尻さんから送られて来る「萬蔵報」にも新規発見の報はなかった。5月に所用で東京へ行く機会があり、萬蔵の新規寄進物を求めて、川崎大師に行った。ここも弘法大師に縁があるところである。境内を回って、再建された八角五重の塔の横にある地蔵菩薩に目が留まった。何ヵ所か「伊藤萬蔵」の名が、目に飛び込んできた。「ヤッター」と心の中で叫んだ。今まで、関東では見つかっていなかったのだから。

最近の「萬蔵報」で「萬蔵は自分の生地の後輩が、自分の寄進物に興味を示したことに対する御礼のシグナルを送ったのではないかと思っている」と書いていただいた。

その後に、弘法大師の総本山である高野山を訪れた。ここには、萬蔵さんの寄進物が10ヶ所ある。4つの目でやっと全部を確認することができた。まだまだリストには訪れていない寄進物も数多くあり、私の萬蔵めぐりは当分続きそうである。

                                                                                     (06年研修会誌掲載記事)

 

私は、田野尻さんの調査を基に少しずつ伊藤萬蔵の寄進物を記録していきたい。(ゆあさ:メール