VOL.2 みゆきとテレビ


中島みゆきはほとんどテレビにまったくていいほどテレビにはでない。
特に音楽番組には出ない。
ただCMとかドラマにはほんのちょっとだけ出ていたことがあるがほとんどテレビで中島みゆきを見ることはほとんどない。
だが初期の頃はテレビにはでていた。
かつてフジテレビで放送していた「夜のヒットスタジオ」(昭和43年〜平成2年終了)に「わかれうた」を歌っていたことはたまにちらっと見ることがあり
皆さんもご存知だと思うがあまりテレビにでた記憶がない。
ではなぜテレビにはでないであろうか。
テレビの音楽番組の歴史と日本の音楽界の歴史を照らして考えてみることにする。
日本のテレビ放送が始まったのが昭和28年にNHKが放送を開始し同じ年に民間放送第1号のテレビ局日本テレビが開局し、
以後、ラジオ東京テレビ(現・TBS)、NETテレビ(現・テレビ朝日)、フジテレビ、東京12チャンネル(現・テレビ東京)と
全国に次々にテレビ局と開局していく。
昭和30年代は歌謡曲全盛の時代で、公会堂を借りてカメラを置いて中継するという音楽番組がほとんどで、
放送時間が30分でスポンサーが1社提供で司会者は一人でマイクはスタンドマイクのみというのがあたりまえだった。
この頃代表的な番組はTBSの「ロッテ歌のアルバム」(昭和33年〜昭和54年終了)だろう。
この後も音楽番組は欧米のパクリ番組やラジオのスタイル真似た番組といろいろな音楽番組が出てきた。
そんな中今までの音楽番組を覆すような音楽番組が登場した。



昭和39年にフジテレビの「シオノギ・ミュージックフェア」(昭和39年〜放送中)が放送開始した。
この番組はよけいなコーナーをはずし、出演歌手少数に抑え歌だけをじっくりと聴かせるというこれまでにない音楽番組が登場し
映像もモノクロからカラーへと美を追求する音楽番組の革命的なものを起こしたといえるだろう。
まだこの頃も歌謡曲の全盛だったかが2年後日本の音楽界大きな変化をもたらしたグループが来日した
ビートルズの来日だった。彼らのサウンドは若者たちただいな影響与え、彼らに真似たグループサウンドのバンドげ数々とでき
GSブームとつながった。だがGSの奇抜な衣装と長髪と騒々しい音楽が良識派の大人たちにはひんしゅくを買った。
そんな中NHKは特に厳しかった、お堅いNHKは長髪やコッミクソングやお色気のある曲はNG。当然歌番組はほとんど出れなかった。
昭和40年代に入るとモノクロ放送からカラー放送が増えビジュアル的に見せる音楽番組が増える。
例えば演奏バンドをはずしスタジオのセットの中で歌うという音楽番組やハプニングやアトラクション的な要素のある番組が目立つようになる。
この頃ちょうど登場したのがフジテレビの「夜のヒットスタジオ」や日本テレビの「NTV紅白歌のベストテン」(昭和44年〜昭和56年終了)が登場してきた。
昭和40年中ごろなるとフォークソングが増えてくる。新しい音楽の登場で若者は共感しギターを弾くことが憧れを感じ、
自作自演という歌手が次々に出ることが多くなった。だがジーパンに長髪というスタイルというもの大人たちの目には不良に見え厳しく冷たかった。
彼らに音楽番組出ようとするが、1コーラス半が常識でしかもカメラの前で歌ういうのが彼らの考えと理解できず歌番組に出ることが敬遠し
テレビに出ないことがスターの証という変なステータスを生んだのはこのことが原因なのかもしれなかった。
また戦前や戦後の歌手も時代にあわないと特に力を入れていたNHKが出演機会を減らすというのも起こり、
そんな歌手たちを東京12チャンネルを拾い、「懐かしの歌声」が放送開始となりこれが以後現在でも続いてる「にっぽんの歌」となってつないでいる。


次々と新しい音楽が登場してくる頃
10代アイドルが昭和40年代の後半に次々と出てくる。
3人娘(天地真理、南 沙織、小柳ルミ子)や新御三家(西城秀樹、野口五郎、郷 ひろみ)がデビューし、
スクールメイツからTBSの「8時だョ!全員集合」(昭和44年〜昭和60年終了)のアシスタントをしていたキャンディーズも登場し、
また日本テレビの「スター誕生!」(昭和46年〜昭和58年終了)から花の中三トリオ(山口百恵、森 昌子、桜田淳子)や
ピンクレディーもデビューし、各局が自局でスカウトし歌手を育てる流行り、だんだんと低年齢化した歌手がデビューしたのもこの頃。
賞レースも盛んだった。おなじみの「日本レコード大賞」や日本テレビやフジテレビやNETや東京12で持ち回りで放映する「日本歌謡大賞」や
フジの「FNS歌謡祭」や「日本テレビ音楽祭」やテレビ朝日の「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭」や
「日本有線大賞」や「全日本有線放送大賞」といった賞があり、まさに音楽番組の全盛期だった。
このころ中島みゆきなどのニューミュージックの歌手が出演する機会なくまたこれまでの背景というのもありあまり出ようとはしなかった。
速効性時代にTBSの「ザ・ベストテン」(昭和53年〜平成元年終了)が登場し、全国津々浦々に中継に出向くという新しい番組がヒットし
各局がまねるように音楽ランク番組が多くなってきた。
また視聴者のニーズにあわせた番組も出てきた。NHKの「レッツゴー・ヤング」(昭和49年〜昭和61年終了)や
東京12の「演歌の花道」(昭和53年〜平成13年終了)などが放送を開始した。
昭和50年代はポップスや演歌やニューミュージックは次々ヒット曲が出るわ、
たのきんトリオ(田原俊彦、近藤真彦、野村義男)や松田聖子や河合保奈子や中森明菜や早見 優や小泉今日子といったアイドルが続々と出てきて
毎日音楽番組ない日がないくらい景気がよかった。
そんな中でも中島みゆきはテレビにはでず地味に活動していた。



昭和60年代に入るとフジテレビの「夕やけニャンニャン」(昭和60年〜昭和62年終了)からおニャン子クラブが登場してきた
おニャン子ブームを巻き起こし、その中から「うしろ髪さされ組」や国生さゆりや渡辺真理奈や工藤静香といったアイドルができてきた。
この頃になると音楽界はヒット曲が少なくなり苦しくなってきた。
特に演歌が売り上げが伸びずあまり目立たなくなっていき、ロックといったジャンルがだんだん大きくなってきた。
国民的な音楽番組である「NHK紅白歌合戦」が視聴率が落ちてきて、
時代の多様化に合わせてロックやオペラやジ民謡といった曲目を取り入れてみたものの視聴率下落に歯止めがかけられなくなり
苦しい時代を象徴していた。
音楽番組もTBSの「ザ・ベストテン」や日本テレビの「歌のトップテン」やフジの「夜のヒットスタジオSP」が終了し
また「FNS歌謡祭」の各賞の廃止や「日本テレビ音楽祭」や「全日本歌謡音楽祭」や「日本歌謡大賞」なども打ち切った。
日本の音楽界と音楽番組の氷河期の時代に入る。


昭和から平成に入ると
日本の音楽は息を吹き返してきた。
CMのタイアップやドラマの主題歌という形で相次いでミリオンセラーがでてきた。
だがそれでもポップスでは好調だが演歌はCMやドラマの主題歌には使いづらく苦しい現状には変わりはなかった。
さらに10−20代などではヒットしててもある上の年代になるとあまり知られてなく音楽の2極化が進んできた。
その原因は、レコード会社やアーティストの販売戦略とCDの普及でヘッドホンで聞くスタイルの定着と
音楽番組が少なく特定年齢を対象にした番組作りが原因でこのような傾向になったのかもしれません。
だがそんな中でも、小室哲哉やつんくといったプロデューサー系による曲作りが主流になってくる。
安室奈美恵やglobeや華原朋美やモーニング娘やSPEEDといったアーティストがでてきた。
また宇多田ヒカルや倉木麻衣などいったアーティストまで登場し、今の音楽は景気のよさは取り戻しているがかつてのような盛んさではない。
未だに演歌が苦しい現状なのである。だがそんななかでもアイドル系演歌歌手氷川きよしがデビューし明るい演歌の話題として頑張っている。



こういう現状の中、中島みゆきはCMやドラマといったこれまでには考えられなかったが新しい一面をみせているが、
音楽番組の出演になるとあまり出ようとはしない。
曲作りやレコーディングや夜会などで忙しいのには変わりがないが、ただそれだけの理由で断っているのかととても思えない気もするが、
何か別な理由で断っているのかもしれない。彼女しか解からない何かあってテレビに出ることをためらってるのだと思う。
去年紅白の出演交渉の席でNHKが始めて直に交渉したことができたというのだから、出てみたいというきもちはどこかにあるとう伝わった。
テレビ嫌いだったらまずは逢う気はないと思う。NHKと逢っているということはその気はあるってことだけど、
テレビにたいしてのわだかまりがあってテレビに出ることをためらっのだと思った。
慣れも必要もあるかもしれないが、たまにはテレビにでもいいのではないかと思う。
ライブ映像があまり残っていなくそれもなくなかなか目にすることはできない。
ただ夜会の映像版はあるのだが、作り上げて編集のような物でそのままの映像というのはない。
ビデオを買うにしても1万円もするのでかなり高価で一般の人には買いづらい。
その人のためと後世の人のたちのためにテレビたまには出るべきだと思う。
去年紅白を断ったとして出演要請がまたあるかもしれないが、
結局は本人が決める事だが、NHK側も紅白の構造改革実行してからでないと中島みゆきのようなアーティストになかなか出てもらえないだろう。

たまにはテレビに出てよねみゆきさんっって…