日本の塩づくりの歴史(2015年11月11日一部更新)


 日本は、岩塩がんえんや塩湖などの塩資源に恵まれていない国である。また、日本は海に囲まれているため、海水は豊富であるが、比較的雨の日が多いので、太陽熱によって海水の水分が蒸発して塩ができる天日製塩てんぴせいえんに適していない。
 このため、日本では、昔から海水(海水には約3lの塩分が含まれている)から鹹水かんすい(塩分濃度の濃い塩水)を採る「採鹹さいかん」と、鹹水かんすいを煮つめて塩の結晶をつくる「煎熬せんごう」という二つの工程による製塩法がおこなわれてきた。
 古代には、「藻塩焼きもしおやき」という製塩法で、@干した海藻を焼いて灰塩をつくる(灰塩が最終製品)、A灰塩に海水を注ぎ、鹹水かんすいを採る、B干した海藻に海水をかけ鹹水かんすいを採るなどして、とった鹹水かんすいを製塩土器に入れて煮つめて塩をつくった。
 古代から中世にかけて、塩浜を利用した採鹹さいかん方法がおこなわれた。この塩浜を利用したものには、入浜系塩浜と揚浜系塩浜がある。
 この塩浜を利用した鹹水かんすいをとる方法は、近世に発達する入浜塩田いりはまえんでん揚浜塩田あげはまえんでんと同様に、海水が太陽熱や風によって蒸発し、塩の結晶が砂に付着し、その砂を沼井ぬい(ろ過装置)に入れ、その上から海水をそそぎ、砂に付着した塩の結晶を海水に溶かすというものであった。



 石川県珠洲市すずしにある揚浜塩田あげはまえんでん
 平成3年(1991年)8月撮影
 揚浜塩田に海水をまいている様子
 朝6時ごろ




 太陽熱と風によって塩田上の海水が蒸発し、塩の結晶が砂に付着している。
 その塩の結晶が付着した砂を、組み立てた沼井ぬい(ろ過装置)の中に入れている様子
 上の写真と同じ日の3時ごろ



 揚浜塩田あげはまえんでんは、干満かんまん(干潮と満潮のこと)の差が小さな日本海沿岸(大潮時90p以下)や、波の大きな太平洋沿岸で築造された。
 いっぽう、入浜塩田いりはまえんでんは、瀬戸内海沿岸や、名古屋湾などの湾で築造され、流下式塩田へ切り替わる昭和28年(1953年)〜33年(1958年)まで続いた。
 煎熬工程せんごうこうていとして、江戸時代には石釜いしがま、明治30年代以降には鉄釜(平釜)が使われ、昭和2年(1927年)に真空式蒸発缶しんくうしきじょうはつかんの工場が完成した。 そのころ、多くの塩業地帯では、平釜から蒸気利用式塩釜の大規模工場に替わった。

 江戸時代、塩業者は、藩からいろいろな面で保護され、塩業が発達した。
 しかし、明治時代になると、政府は塩業者を保護しなかったうえ、台湾などから安い塩が入ってきたので、国内の塩業はきびしい環境になり、混乱と低迷におちいった。
 こういう状況下において、国内の塩業者は、国に対して塩業の保護政策を求めた。いっぽう、国は、日露戦争の軍事費を調達する必要があったので、国内の塩業を保護する意味からも塩業を国の専売制にすることにし、明治38年(1905年)6月1日に「塩専売法」が施行された。
 そのころ、国によって全国の塩業地帯の調査がおこなわれた。 明治38年度末(1906年3月末)現在、全国の塩製造人は24,459人、塩田面積は、入浜塩田いりはまえんでん7,380町歩(7,319.0f)、揚浜塩田あげはまえんでん687町9反(682.2f)の合計8,067町9反(8,001.2f)であった。




 徳島県鳴門市の入浜塩田
 昭和27年(1952年)ごろ撮影

 国は、国内の生産効率の悪い塩田を廃止するため、明治43(1910)年度・44年度、塩製造人12,342人、入浜塩田いりはまえんでん1,391町6反(1,380.1f)、揚浜塩田あげはまえんでん378町1反(375.0f)、その他4反(0.4f)の合計1,770町1反(1,755.5f)の塩田を廃止した。 この国による塩田廃止を「第一次製塩地整理」という。
 大正7年(1918年)、塩の専売制は公益専売となり、国内塩業の生産費切り下げを目的とし、技術向上を基礎とした塩業の保護育成が図られるようになった。
 さらに、昭和4(1929)年度・5年度、「第二次製塩地整理」がおこなわれ、塩製造人1,568人、生産効率の悪い塩田1,168町8反(1,159.1f)が廃止された。 その結果、全国の塩田面積は、4,571町9反(4,534.1f)となった。
 塩の生産は、入浜塩田いりはまえんでんによる採鹹さいかん平釜ひらがまによる煎熬せんごうによりおこなわれていたが、そのころより煎熬せんごう工程が、平釜から蒸気利用式塩釜になり大規模な工場生産が可能となった。
 また、昭和2年(1927年)、はじめて真空式蒸発缶しんくうしきじょうはつかんの製塩工場がつくられ、煎熬工程せんごうこうていが近代化した。
 昭和10年(1935年)ごろには、国内の塩製造人約3,500人、塩田面積約4,500f、塩生産高約60万dとなった。
 徳島県では、昭和14年(1939年)に本斎田ほんさいた製塩工場(真空式蒸発缶)、昭和15年に合同製塩工場(真空式蒸発缶)が完成し、塩の生産は、入浜塩田−製塩工場(真空式蒸発缶)となり、塩業者は鹹水かんすいの製造のみとなった。

 その後、国内における塩の生産は、塩田面積がほとんど変わらなかったにもかかわらず、終戦に近づくと、しだいに石炭やさまざまな物資、さらに労働力が著しく不足し、急速に低下した。 終戦直後は、外国塩の輸入が止まったこともあり、国内の塩不足はさらに深刻となった。
 そこで、塩不足対策として簡単な手続きで塩の生産が許可される「自給製塩じきゅうせいえん」が全国各地でおこなわれるようになった。
 また、そのころ、従来から塩の生産をおこなっていた塩業者(専業塩業者)から、塩田から採取した鹹水かんすいを直接購入して、薪で焚いて塩をつくりその塩を売ったり、米と交換したりする「ヤミ塩」が流行した時代でもあった。
 その後、専業塩業が回復するにしたがい、昭和23年(1948年)ごろには、自給製塩やヤミ塩はしだいに姿を消していった。

 昭和24年(1949年)6月、専売局が大蔵省から分離独立し、新たに日本専売公社が発足した。 同年12月、塩業審議会から答申された「国内塩業対策」により、食料用塩は国内生産でまかなうことになり、国内塩業の育成をはかることになった。
 昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が起き、日本経済は特需景気によって活況となり、化学工業の生産拡大によるソーダ工業用塩の需要が急速に拡大した。
 いっぽう、輸入塩は、船舶事情の悪化や中国の塩の輸出停止などにより国際価格が高騰した。さらに昭和25年9月、国内の塩の生産の大部分を占める瀬戸内海沿岸の塩田が、ジェーン台風やキジア台風によって大きな被害を受けた。
 そこで、国は、国内の塩不足対策として、塩の国内生産を増大させる政策をとった。まず、昭和25年12月、従来、臨時におこなわれていた災害復旧補助事業を、恒久的におこなうために「塩田等災害復旧事業費補助法」を制定した。さらに同法は、昭和27年7月に制定された「製塩施設法」へと発展した。また、昭和27年12月に「農林漁業金融公庫法」が制定され、塩業への政府資金の融資がおこなわれるようになった。
 国はこのような法的整備をおこない、昭和27年度末、国内の塩生産目標を70万dにする「国内塩増産5か年計画」を打ち出した。その後の国内塩業は、入浜塩田より増産が望める流下式塩田への転換に向かっていった。
 そのもう一つのねらいは、塩増産による塩価の引き下げであった。今までの塩価であれば、国内塩業は、いつか安い外国の塩に取って替わる日の来ることが予想されていた。




 徳島県鳴門市の流下式塩田りゅうかしきえんでん
 昭和45年(1970年)ごろ撮影
 枝条架しじょうかと流下盤をあわせて流下式塩田という。


 そこで、昭和28年度から32年度にかけて日本専売公社の強い指導により、全国の入浜塩田は流下式塩田へ転換し、製塩高は昭和30年(1955年)になり、やっと戦前の水準にまで回復した。
 また、当初の生産目標高70万dは達成確実となったので、国は、昭和30年(1955年)10月に目標高を80万dに修正した。その後は、「80万d達成」を合い言葉に流下式塩田への転換がおこなわれた。
 しかし、各地の流下式塩田への転換工事が終了するにしたがい、予想をはるかに上回る製塩高となり、やがて塩の過剰時代が到来するようになった。

 国はその対策として、昭和33(1958)年度・34年度に「第三次塩業整理」を実施し、全体の約40lに相当する2,005fの塩田が廃止された。そのとき、千葉県30.4f、福島県16.5f、宮城県82.8f、福岡県35.0f、長崎県0.6f、大分県150.3f、宮崎県8.8f、鹿児島県4.1fの全塩田が廃止された。
 その結果、国内には、愛知県85.1f、石川県0.1f、兵庫県710.2f、岡山県619.2f、広島県138.7f、山口県42.8f、徳島県308.0f、香川県974.1f、愛媛県82.8fの合計2,961.0fの塩田が残った。
 そのとき、徳島県では、徳島市の全塩田26f余りが廃止となったが、鳴門市の塩田は整理対象にならなかった。

 この第三次塩業整理に当たり、国は残存を希望する塩業者に対して、「事業合理化計画」の提出を義務づけた。その後、日本専売公社の強い指導もあり、鳴門市の二つの塩業組合(本斎田塩業組合と鳴門合同塩業組合)は統合され、鳴門塩業組合として発展していった。
 その後の技術革新にともない、昭和35年(1960年)にイオン交換膜法による採鹹さいかんが実用化された。




 鳴門塩業株式会社のイオン交換膜透析装置
 平成13年(2001年)撮影


 昭和46(1971)年度、「第四次塩業整理」により全国の塩田がすべて廃止され、新たにイオン交換膜法による製塩企業が全国で7社に許可された。 最近まで7社が操業していたが、平成14年(2002年)6月にその1社が操業を停止し、現在6社で塩がつくられている。 
 なお、当初、許可された7社は、次のとおりである。 会社発足から現在に至るまで、会社名や本社の所在地が変更した会社もあるが、ここでは、現在の会社名のみ記載した。 また、これらの企業は、いずれも年産20万dの製塩規模をもっている。
 1.新日本化学工業株式会社(福島県いわき市)
 現在の会社名  日本海水株式会社いわき工場
 2.赤穂海水化学工業株式会社(兵庫県赤穂市)
 現在の会社名  日本海水株式会社赤穂工場
 3.錦海きんかい塩業株式会社(岡山県邑久郡邑久町)
 現在も同じ会社名であるが、2002年6月、錦海塩業株式会社の製塩を廃業した。  
 4.内海ないかい塩業株式会社(岡山県児島郡東児町)
 現在の会社名  ナイカイ塩業株式会社
 5.鳴門イオン製塩株式会社(徳島県鳴門市)
 現在の会社名  鳴門塩業株式会社
 6.讃岐塩業株式会社(香川県坂出市)
 現在の会社名  日本海水株式会社讃岐工場
 7.崎戸さきと製塩株式会社(長崎県西彼杵郡崎戸町)
 現在の会社名  ダイヤソルト株式会社

【 引用文献等 】
 1.「日本の塩づくりの歴史」の古代〜戦前までの部分は、  
 @ 『製塩地整理事蹟報告』(1912年・専売局発行)  
 A 『昭和4年度・昭和5年度 製塩地整理概況報告書』(1931年・専売局発行)  
 B ガイドブック「たばこと塩の博物館」(たばこと塩の博物館編集・  
  財団法人たばこ産業弘済会発行)などを参考にして作成した。  
 2.「日本の塩づくりの歴史」の終戦〜現在までの部分は、  
 『鳴門市史・現代編1』(1999年・徳島県鳴門市発行)917頁〜1017頁収録の「第十章 塩業」(小橋 靖執筆)から引用した。

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