「降旗節雄さんの思い出」
 2009年5月15日


 大学アカデミズムに縁遠いうえに、ずっと地方に在住して、独立独歩にも心がけているので、学者との交際がまったくない私にとって、降旗さんは、専攻分野も出身大学も異なり年齢も少し離れているのに、どういうことか出会いが重なり、大学研究者のなかでは一番良く付き合っていただいた方になる。

 30歳代に理論研究に転じて最初の著書『マルクス、エンゲルスの国家論』(1978年)を公刊した時、宇野学派の人たちが出していた『経済学批判』の第6号の国家論をテーマとした鼎談に呼ばれ、司会役を兼ねられていた降旗さんとも議論を交わしたのが、最初の出会いだった。

 次は、1980年代初めに早稲田祭の講演会に降旗さん、柴田高好さんとともに講師として招かれて一緒になった。講演会後3人で食事に行って歓談し、降旗さんの闊達な人柄もそれなりに分かって親しみを覚えた。

 当時、宇野経済学は隆盛して、新左翼の間では特に評価が高く、すでに降旗さんも宇野学派の俊英の一人として大いに活躍されていて著名だった。

 少し期間をおいて、90年代にはフォーラム90’Sで毎年のように顔をあわせた。分科会は別々だったが、全体会議で話の巧みさに感心させられた印象が残っている。

 並行して、社会主義理論学会では、降旗さんは代表委員を務められていて、研究会や委員会で席を共にした。ほどなく降旗さんは同学会から退かれたが、同学会の最初の論文集『20世紀社会主義の意味を問う』(1998年)のネーミングは降旗さんの発案によると記憶している。

 同じ頃、エンゲルス没後100年を迎えるので、記念論集を企画して、降旗さんに相談すると快く応じて、御茶の水書房に同行していただき、早々に出版社を決めることができた。この企画は、杉原四郎さんにも編集委員を引き受けていただき、全国の15名の研究者の論文を集めて、『エンゲルスと現代』(1995年)として刊行できた。編集委員3人が遠く離れた所にいるので、私が上京の折に降旗さんと会い西宮に杉原さんを訪ねて打ち合わせしたこともあったが、手紙を交わして編集を進めた。

 その後は、発表した著論のやりとりを続けてきた。降旗さんからいただいた著書のなかには、国家論に関する論稿も収められていた。国家論を専攻している私の見解を求められているようだった。ただ、私は、宇野弘蔵さんの学問的精神や透徹した思索を学び取ることに努めてきたものの、宇野さんの国家に関する所説に対しては批判的だし、宇野説に立脚してそれを改修された降旗さんの説とも理論的見解を異にした。

 顧みて、立派な理論的業績に加えて年賀状に添えられた俳句も大変に気が利いていて、事ごとに発揮される才知に自分は到底かなわないと痛感させられたが、私からすると、降旗さんは話のわかる、得難い兄貴分という感じだった。マルクス主義研究でのエンゲルス理論の批判、克服という線での共通性があった他に、降旗さんは黒田寛一さん率いる新左翼党派ともかなりの接触があったようだから、若い頃は新左翼党派運動に打ち込んだ私ともなんとなしに一脈通じあうものがあったのかもしれない。

 大藪龍介