「新左翼党派運動の歴史的意味」
渡辺・塩川・大藪編『新左翼運動40年の光と影』 新泉社、1999年9月


新左翼党派運動の歴史的意味 ── 思想的総括への問題提起

 新左翼運動といっても多種多様である。人によって見方も異なるが、1960年代末の高揚期をとって、諸党派の政治運動、それと一体的な反戦青年委員会の労働運動、全共闘の学生運動、べ平連などの市民運動、等々の複合的総体を、広い意味での新左翼運動と呼ぶことにしよう。ここで取り上げるのは、始終わが国の新左翼の中心的な位置を占めてきた新左翼党派の運動である。新左翼党派といっても、反スターリン主義を綱領的スローガンとする党派から親スターリン主義性の濃い党派まで雑多であるが、それらのなかでも主力をなし、代表的な党派である革命的共革主義者同盟、および共産主義者同盟を対象として、日本における新左翼党派運動の歴史的意味をめぐって若干の考えをめぐらせてみたい。

 わたし自身、新左翼運動の創生期に、新左翼党派の戦列に加わって関った。その前途に体制変革の夢を託し、青春の日々の全力を傾注して担った運動が、そしてまた戦線から離れた後も期待をかけていた運動が、その後の歴史的進行のなかで破綻に帰したと覚知するのは、とても辛く切ないことであった。ましてや、破綻の原因に関して反省的に考察するのは、実に気の重い仕事である。正直なところ、時間の腐蝕作用にゆだねておいて、時たまの懐旧談ですますことができればという気持にとらわれる。

 けれども、時流に合わせてなしくずしに思想を取り変え、責任をすりぬける知識人の無節操さを、いつも苦々しい思いで目撃してきたのだが、みずからがそれと同じようなことであってはなるまい。とりわけわたしがこだわっているのは、新左翼党派運動の破綻の象徴たるいわゆる内ゲバの問題である。スターリン主義をもっとも厳しく弾劾してきた当の党派が、最悪のスターリン主義政治とも言うべき陰惨な内部ゲバルト殺戮抗争に陥った頽落について敢えて重たい口を開かねばならないだろう。勃興期の新左翼党派運動のなかで生粋の新左翼の第一年代として自己の思想を形成し、以来初心に忠実にあり続けようとまがりなりにも努めてきた者の一人として思うところを述べていこう。

一 初発の綱領的立場

 新左翼党派運動の歴史的成り行きには、ロシア革命の変質に似通った問題があるようだ。既成体制を変革して新時代を切り拓かんとする異端的先駆者として出立、だが、やがて運動の一定の発展的拡がりにつれて、潜在していた欠陥が顕出して肥大化、当初の意想にはなかった逸脱への道を突き進む、といった経過がそうである。

 1956年、スターリン批判、ハンガリア革命の衝撃が相次ぎ、これを機に、ソ連スターリン主義に統括された国際「共産主義」運動は、内部的な対立と分解の時代を迎えた。マルクス主義的左翼陣営がスターリン主義の全一的な影響下におかれてきたわが国では、極少の先覚的知識人によって57年に日本トロツキスト連盟が結成され、同連盟は年内に日本革命的共産主義者同盟に改称した。ここに初めて、スターリン主義の呪縛から解放されスターリン主義反対を綱領的立場とする政治的党派が生まれ出た。続いて、翌58年には、日本共産党中央指導部を批判する学生活動家を中心にした共産主義者同盟の誕生にいたった。

 生成した新左翼党派の「新」たるゆえんは、既成体制へのトータルにしてラディカルな否認にあった。すなわち、復活をとげた日本資本主義、アメリカを盟主とする帝国主義世界との断固とした対決に加えて、ジグザグの歩みで破綻を重ねていた日本共産党、のみならず社会主義の国として左翼陣営に絶大な権威を保持していたソ連に対する鋭い批判にあった。

 新左翼党派運動は、1960年安保闘争のなかでの全学連(主流派)の闘いとして大衆的に登場した。全学連は共産同の指導のもとにあって、社会党、共産党や総評の議会主義的方針を突破して急進(主義)的な大衆的実力闘争に決起し、安保反対運動の国民的な高揚に寄与して、新鮮な衝撃を与えた。また、既存の価値を問い直す風穴をあけ、市民運動の誕生を誘発する契機となった。全学連の闘争は、やがて1968年には各国で爆発する高度資本主義体制と既成左翼に対する闘争の前駆としての意義も有していた。

 また、革共同全国委員会へ指導権が移っていたが、1962年に全学連がおこなった米ソ核実験反対闘争、なかでもモスクワ赤の広場での核実験反対デモは、ソ連の核実験については「平和の砦」における核兵器の防衛的性格を口実にこれを擁護するという、共産党系原水禁運動の驚くべき錯誤がまかりとおるような時代状況にあって、新左翼の存在意義を鮮やかに示した。

 既成の思想、運動や体制を根底から打破せんとする新左翼党派の闘いは、まったくの小勢力にすぎなかったが、諸方面にその影響を徐々に広げてゆき、新旧左翼の思想と行動が入りみだれる時代を拓いていった。

 新左翼党派の画期的な新しさは、スターリン主義への批判であり、スターリン主義の神話の打破への先陣を切ったことであった。わが国のマルクス主義陣営では、その発祥以来トロツキー主義や左翼反対派の伝統は勿論のこと、西欧マルクス主義の影響も、皆無と言ってよかった。共産党内の対立抗争はたえなかったが、ソ連の共産党と「社会主義」の威光は絶大であり、スターリン主義の全面的な支配が強固に存続していた。56年のハンガリアなど東欧諸国で勃発した革命的叛乱に対するソ連の武力鎮圧にも、抗議の声が発せられることはほとんどまったくなかった。左翼的知識人のあいだにスターリン主義への批判が広がるのは、ようやく68年のプラハの春をソ連が圧殺したチェコ事件にいたってからである。

 スターリン主義の虚妄性を覚識するうえで触媒の役割を果したのは、第四インターナショナルでありトロツキー主義であった。トロツキーの名は当時、帝国主義者の手先の代名詞として適用させられていたが、スターリン(主義)と死闘して敗れたトロツキーの理論と実践の摂取によって、一国社会主義論の虚偽性、ロシア革命以後の国際的な革命運動の歴史の偽造、ソ連体制の官僚主義的歪み等々を看破し批判することが可能となった。

 たとえば、ソ連をどう捉えるかについて、「革命的共産主義者同盟綱領・草案」も「共産主義者同盟綱領草案」も、トロツキー説を継承して、社会主義にあらず、過渡期の国家、社会の堕落形態、歪曲形態と規定した。他方、西欧マルクス主義の摂取ははなはだ乏しかった。それなりの注目をあびたのはルカーチであり、ローザ・ルクセンブルクについても再評価の動きがあったが、グラムシに関心が向けられることはなかった。

 革命論やソ連論に関してはトロツキーによって補いつつ、全般的にはレーニン主義を継受し、マルクスヘ返れのマルクス理論再把握とあわせて、マルクス=レーニン主義を再興すること、これが新左翼党派の思想的、理論的立脚点であった。「真のマルクス=レーニン主義復活、創造のために努力すること」を、「共産主義者同盟規約」は明示している。

 だが、そのことから、スターリン主義批判は閉ざされた性格をもつことになった。すなわち、レーニン主義、場合によってはトロツキー主義を価値規準とするソヴェト・マルクス主義の枠組内での批判にとどまり、スターリン主義とレーニン主義の断絶性をひたすら強調した反面、双方の連続性については問題意識の外におくことになった。旧左翼はスターリン主義に呪縛されていたが、新左翼はスターリン主義と峻別したレーニン主義にとらわれることになった。既成のいっさいのものへの批判という構えにもかかわらず、その批判はかなり狭く、限定されたものであったのである。

 レーニン主義をすべて無批判的に受容したのでは決してなかったが、新左翼党派運動はレーニン主義の再生という性格を濃厚に有していた。この基本的性格からして、新左翼党派は出立直後は既成体制への批判において一定の力を発揮できたが、やがて経済の高度成長と社会の構造的変動によって、わが国が往時のロシアとはまったく型の異なる資本主義体制へ発達をとげてゆく時代を迎えるなか、批判から新たな思想、運動の創出へと転じることはできなくならざるをえなかった。

 革共同も共産同も、共産党や社会党に代わる、真の革命的前衛党の創設を第一義的課題として掲げた。それまで共産党で繰り返されてきた党内闘争、分派闘争は、いかに激烈化しようと、50年分裂の「統一」が象徴するように、所詮はソ連共産党、あるいは中国共産党の意向に左右され、その裁決に従って収拾されてきた。コミンテルン指導部やソ連共産党への随従は、日本共産党結成以来のわが国革命運動の悲劇的な体質であった。そうした伝統を破り、ソ連や中国の共産党をも批判の対象として、別党コースを追求したのは画期的であった。そして、戦闘的に闘う学生、労働者大衆によってのりこえられた後衛と化した共産党の姿をあらわにした60年安保闘争をつうじて、自他ともに任じてきた共産党の前衛神話を崩壊させる役割を果した。

 しかしながら、レーニン時代のコミンテルン第二回大会で規定された一国一前衛党の原則は、疑問の余地のない前提とされていた。新左翼各党派は共産党に取って代わって、自派が唯一前衛党の地位を占めるのを狙ったのであった。「われわれは唯一の前衛党として自らをきたえる道を選んだ」(共産主義者同盟「綱領討議を組織するに当って」)。

 自党派建設のための独自の闘争の重大性は、スターリン派に対抗したトロツキー派や左翼反対派の敗退から引きだされた教訓でもあった。加えるに、革共同や共産同は、資本主義の全般的危機というスターリン主義者の常套句を復唱しはしなかったが、資本主義の「死の苦悶」とプロレタリア階級闘争の指導部の危機というトロツキーの所説を受け継いで、スターリニストの度重なる裏切りによって帝国主義は国家独占資本主義として延命を続けているという見地をとっていた。現代資本主義のしたたかな発展力を過小評価する誤りがそこにはあったのだが、この見地からしても、新たな革命的前衛党の創設が鍵をなすのであった。

 こうしたことから、安保闘争の終息と同時に共産同があえなく空中分解をとげると、それにも促追されつつ、革共同全国委員会では、「党物神崇拝の崩壊」(谷川雁他『民主主義の神話』、現代思潮社、1960年、所収の黒田寛一論文の題名)という安保闘争の総括にもかかわらず、新手の前衛党物神崇拝が育くまれ、自派の党組織建設を至上化する傾向が形成されていった。「われわれの任務は、反帝・反スターリン主義・革命的プロレタリア党のための闘争ということでなければならない」(武井健人編『安保闘争』現代思潮社、1960年)というのであった。

 革命路線に関しても、新左翼党派は、1917年ロシア革命をモデルとし、レーニン、トロツキーのそれを踏襲して、なによりもまず国家権力の奪取に的をしぼり、それを拠点として経済、社会の変革へという基本的方位をとった。共産同は安保闘争に組織の全力をあげて取り組んで闘争の大衆的高揚に貢献したが、とりわけ政治革命主義が顕著で、安保決戦の延長線上に革命を夢想する傾向さえ生んだ。共産同の綱領的宣言「全世界の獲得のために」は、意気軒昂として気宇壮大ではあったが、理論的には皮相で未熟にすぎた。

 旧左翼と同じ政治革命主義であったが、新左翼党派が共産党、社会党と異なるところは議会的手段による平和革命に対してのソヴェト方式による暴力革命の主張にあった。特にプロレタリアート独裁を公々然と掲げることが、革命性の証であり、革命的左翼としての最も鮮明な旗幟とされていた。

 政治革命主義と一体不可分に国家権力の奪取、プロレタリアート独裁の樹立を画期点として、革命的国家権力を全面的に活用して、主要な生産手段の国家的所有化をはじめとする経済的、社会的革命を推進するという、過渡期建設における国家主導主義路線をも、レーニンやトロツキーの所論とソヴェト・ロシアの経験からそのまま、新左翼党派は引き継いだ。

 「日本革命的共産主義者同盟綱領・草案」は、基本目標の(2)に「プロレタリアートの独裁の実現」、(3)に「ブルジョアジーの私有する一切の生産手段を、うちたてられた労働者国家に無償で没収すること」、「労働者的国有計画経済制度」を揚げたし、「共産主義者同盟綱領草案」も、「プロレタリア独裁の樹立」を謳い、「すべての重要産業の国有化と労働者管理」などを第一の施策として打ちだしていた。

 このように、新左翼党派が立脚したのは、党・国家中心主義的変革構想であった。当時はマルクス主義的左翼であれば誰しも、疑問を差し挟むことも、別の指針を提示することもできなかったが、しかし、40年程を隔て、ソ連の体制崩壊の衝撃を受けとめ、20世紀社会主義の歴史の総括的反省に立ちうる今日の時点では、政治革命主義や国家主導主義をもってしては革命と建設の諸問題の成功的な解決を果しえないこと、加えて後期のマルクスが到達した構想もそれらとは別の革命路線、過渡期建設路線であり、「マルクス=レーニン」では決してなかったことを明らかにしうる。

 新左翼の出現は、イギリスやアメリカ合衆国とも軌を一にした動向であった。けれども、それがレーニン主義、あるいはボリシェヴィズムに立脚し、党・国家中心主義的革命綱領を掲げた新党派運動として登場したのは、まさにわが国の特徴にほかならなかった。

 新左翼党派はそれぞれに、いっさいの既成的なものからの解放の先頭にたち、豊かな可能性が開かれる新たな道を切り拓いて進むとの信念に燃え立っていた。しかし、その思想、運動を20世紀の歴史のなかに置き直すと、先進的な高度資本主義への急成長を開始した日本でのレーニン主義の再興運動でありコミンテルン型革命連動への回帰であった。ロシア革命は初発においてすでに、レーニンやトロツキーの確信とは別に、解放のなかにも抑圧をともなっていた。苛酷な諸条件のもとにおかれて悪戦苦闘せざるをえなかったソヴェト・ロシアは、その後、スターリンの「上からの革命」によって社会主義を称する新型の抑圧体制へと決定的な変質をとげていった。それと相似た歩みを、打って変わった歴史的諸条件にありながらロシア革命とレーニン時代のソヴェト・ロシア建設に範を仰いだ新左翼党派運動も辿ることになった。