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渡辺・塩川・大藪編『新左翼運動40年の光と影』 新泉社、1999年9月 |
二 転機としての68−69年叛乱 1960年代末に、新左翼運動は高揚期を迎えた。革命的マルクス主義派、中核派、第四インターナショナル日本支部の革共同三派の他に、再建された共産同や相次いで結成された諸党派を加え、数多くの小党派が分立したが、相互の対立、競合を介して、60年安保闘争以降の沈滞を脱して学生運動が再高揚し、更にはかつてないほど先鋭化した。加えて、新左翼諸党派は反戦青年委員会(65年に社会党の指導下で発足)をつうじて労働運動にも進出し、新左翼労働運動が戦闘的労働運動の一つの潮流をかたちづくっていった。他方では、政党や労働組合から独立し、個人原理に立つべ平連、(65年発足)が、これまでのわが国にはないユニークなスタイルの大衆運動を繰り広げた。学生戦線にあっても大学闘争で、党派を頂点として系列化された旧来型とは異なったノンセクト・ラディカルズが出現し、独自性をもった運動を推進した。 これらの多彩な運動が相乗的に影響を及ぼしあいながら、67年秋から69年にかけて、ベトナム反戦、米原子力空母寄港阻止、三里塚闘争、米タン阻止、沖縄闘争、そして日大闘争や東大闘争、等々の課題で、戦闘的で激烈な大衆闘争を次から次へと全国各地で燃えさからせ、新左翼運動が日本全土を席巻する様相すら呈した。新左翼諸党派はこれらの闘争を学園や街頭で牽引して大衆的エネルギーを解き放ち結集する役割を発揮し、社会的に多大な反響を巻き起こした。 この高揚期の新左翼党派運動の歴史的な位置や意味を、折からの世界的な1968年革命、および日本資本主義の急激な高度成長という国内外の動向と関連づけて捉えてみよう。 68年革命は総じて、第二次大戦後の既成体制(エスタブリブシュメント)に対する異議申し立てであった。第一次世界大戦時のロシア革命やドイツ革命、第二次世界大戦直後の中国革命や東欧諸国の革命に続く資本主義世界に対する革命的変革の波を大方の左翼は見込み、期待したが、68年革命は従前の革命的変動とは性格を異にしていた。 第一に、資本主義世界システムの中枢部、高度資本主義諸国は、前例のない持続的な経済的繁栄のなかにあった。68年革命は、戦争や恐慌の破局的危機に面しての、あるいは貧窮に駆られての決起ではなく、高度に発達をとげた科学、技術により機械化され効率化され、非人間的に管理され支配される体制への若者達の叛乱という性格を強く帯びていた。古典的な帝国主義から著しく変容をとげ「豊かな社会」を実現するにいたった現代資本主義体制に対する変革的挑戦であった。 特に、高等教育の大衆化が進むなかで旧態依然としていて矛盾の塊である大学の権威主義体制への反逆が、各国に共通する叛乱の主力をかたちづくった。他律的な決定機構と化している議会制民主主義に対する批判も加わっていた。叛乱はまた、変革性を喪失して体制の一翼を担っている既成左翼への抗議をともなっていた。そこでは、ロシア革命モデルとは相違する新たなタイプの革命的変革の路線が模索されざるをえなかった。 第二に、ソ連圏に編入されている東欧の諸国では、移植されたスターリン主義体制に対する民衆の蜂起が間欠的に湧き起こってきたが、今度はチェコスロバキアが自由化を求めて闘いに立ちあがった。同じ「社会主義」陣営であっても、中国では、社会主義への過渡期建設の独自の道を志向する路線闘争が毛沢東派による文化大革命として推進された。またベトナムでは、アメリカ帝国主義に対する民族解放独立革命の戦争が遂行された。68年革命はこうした世界各国での叛乱や闘争の総体であり、その鉾先は資本主義に対してとともに「社会主義」に対しても向けられていた。 68年当時、旧左翼のなかだけでなく、遅ればせに登場した新左翼のなかにも、ソ連、中国、ユーゴスラビア、ベトナム、北朝鮮、キューバなどにそれぞれに期待をかける風潮は、依然として根強くあった。とりわけ、「造反有理」が流行のスローガンとしてもてはやされ、文化大革命によって高度資本主義諸国での若者達の叛乱が煽られたように、毛沢東主義が一都では熱狂的に支持された。1960年代は、深部においてはすでにスターリン主義の衰退が進行し、その内部の対立、分解も顕出してきていたが、全体としてはソ連、あるいは中国の「社会主義」体制の新生への幻想が醒めやらぬ年代であった。それは、第二次大戦後のいわゆる東西対立の世界で、親スターリン主義が輝きを示し有力な風潮となった最後の時期であった。 あわせて、第三世界やアメリカ黒人解放運動からは、ゲバラ、ドブレ、ファノン、ボー・グエン・ザップといった、一連の暴力的解放理論の熱気が吹きこんできていた。 他面では、スターリン主義に対する批判は高度資本主義諸国でもソ連圏でも、疑いもなく強まっていたし、次第に深刻化する中ソ対立、チェコ事件、中国の文化大革命は、社会主義をますます混迷に陥れていた。レーニン主義に代表される20世紀のマルクス主義的社会主義自体が、もはや新たな発展力を示すことができなくなっていた。68年革命は、スターリン主義の崩壊への加速点であっただけではない。20世紀世界の構造的変動のなかにあって、レーニン主義をはじめとするソヴェト・マルクス主義が変革力を枯渇して終焉の時代へと向う転回点としての意味をも秘めていた。スターリン主義を弾劾する新左翼諸党派も含めて、いっさいのマルクス主義的左翼が、以前とは逆の方位で歴史の審判にさらされる時代へと這入っていったのである。 一方、日本資本主義は経済的大躍進の最中の時期にあった。誰も予想しえなかった経済の高成長を重ね続けて、わが国は敗戦後の瓦解状況からめざましい復興をなしとげ、一挙に先進資本主義諸国に追いつき、どうにか福祉国家の体裁を整えようとするにいたっていた。資本主義世界システムにとって今世紀の第三・四半紀は史上最大、最速の経済的膨脹の時代となったが、そのなかでも日本経済の高度成長は群を抜いていた。こうした激変は、それに伴うひずみの発生や矛盾の激化、生活環境の破壊、政治的危険、そしてそれらへの抵抗や反撃をもたらさざるをえなかった。 経済的繁栄の途上での叛乱という68年革命の特質は、わが国においても顕著であった。とりわけ重苦しい管理社会的体質において特出しつつある日本社会への反抗が、68−69年叛乱の底流をなしていた。 だが、学生を中心に青年層が闘争に立ちあがった反面、日本型企業社会として整形されつつある高度産業社会の網の目のなかに人びとの生活は深く組み入れられていき、生活様式と意識の変化が全社全的規模で進行していた。70年代前半までは戦後革新運動はなお高揚を見せたが、社会党の長期低落傾向、総評労働運動の斜陽化、民間労働組合の企業主義的秩序への編み込みは着実に進展した。日本資本主義体制側の改造は深く静かに展開し、社会は地殻変動をとげつつあった。60年代から70年代にかけてのどこかで日本社会が大きな質的転換点を通過したのは明らかであるが、その推転の画期を、本稿では68−69年の叛乱がひとまず終息した70年に求めておこう。 かかる日本資本主義体制の社会革命に、新左翼諸党派は従前どおりの政治革命主義をもって、それを闘争戦術的に過激化することで対抗した。 泥沼化したベトナム戦争が苛烈化し、また70年安保再改訂が近づくなかで、67年10月の羽田闘争が大衆運動の戦闘的高揚への起点となった。数年来の機動隊によるデモのサンドイッチ規制の壁を突破すべく、この闘争で新左翼諸党派は角材、ヘルメット等での武装に踏みだした。以降、連続的に爆発した諸闘争は街頭武装実力闘争や大学占拠武装闘争として闘われ、武装闘争形態が一般化した。新左翼党派運動の68−69年の闘争での飛躍における新しいものとして喧伝されたのは、すぐれて武装であり暴力であった。 激動的状況をつくりだすなかで、新左翼党派の多くは、なかでも激しい闘争を先頭で牽引する主力を担った革共同中核派や共産同は、体制は危機に陥り革命が追っていると現情勢を把握した。中核派によると、「帝国主義の世界体制の根底的動揺と、そのもとにおける日本帝国主義の体制的危機」が現出し、「革命の現実性にたいする支配階級の消しがたい恐怖」が存しており、「嵐の時代は目前にせまっている。70年闘争はうたがいもなく、生きるか死ぬかの血みどろのたたかいに発展していくであろう」(「勝利にむかっての試練」、『前進』365号、68年1月1日)。 再建・統一された共産同、第二次ブントは第一次ブントと比しても親スターリン主義性が濃かったが、この党派の所見では、「すでに世界史的にブルジョワジーとプロレタリアートの力関係が逆転」しており、「帝国主義が死の苦悶を開始し・・・・・政治的帝国主義の破局の歴史的一時代を迎えたのである」(「現代過渡期世界と世界革命の展望」、『戦旗』141・142合併号、68年8月5日)。 フランスの五月革命や中国の文化大革命などの世界的な激動と呼応しつつ、街頭や学園での武装形態でのデモ、バリケード、ストの大衆的な戦闘が、次つぎに烈しく繰り広げられた。闘いを指導し推進する諸党派は、10・8羽田闘争を機に階級闘争は質的転換をとげ、安保と三池の敗北以後の守勢から攻勢に転じる、政治的沈滞の時代から「内乱と死闘の時代」へ飛躍する、世界的に帝国主義の敗北と社会主義の勝利が訪れる、などというふうに情勢を位置づけた。そしてまた、機動隊との激突が国家権力との全面対決であり、街頭や学園の局地的な占拠が日本帝国主義の存亡の危機であるかのように主張した。 69年になると、大学当局と警察権力による相次ぐ学園封鎖解除、度重なる街頭闘争での大量逮捕、また社会党、総評による反戦青年委員会の締めつけや排除が続くなかで、大衆的エネルギーの低下による闘争の飛散は避けられなくなった。一連の大学占拠闘争や街頭闘争が限界状況を呈するなか、代表的に革共同中核派は、70年安保決戦に賭け、自派系列の反戦青年委員会をも軍団化して機動隊殲滅、街頭戦場化の総決起−総蜂起路線に突入し、それの貫徹に活路を求めた。4・28沖縄闘争で中核派と共産同は破防法適用の弾圧をうけたが、両党派それぞれに、階級闘争の内乱的発展の時代や恒常的武装闘争への展望を開いたとして、街頭武装闘争カンパニアを更に突き進めていった。竹槍、鉄パイプから火炎びん、ピース缶爆弾にいたる武器のエスカレーションによる武装闘争の過激化も、日常的となった。そして遂には、銃器を用いる党派も出現した。 しかしながら、68年の佐世保や王子で学生の闘争を支援した市民や、国際反戦デー新宿闘争につめかけた群衆に見られた大衆的な心情的共感は、すでに失われていた。日本資本主義の急激な高度成長、爛熟がもたらす諸々のひずみや矛盾に対する若者達の大衆的反抗は、人びとの心に響くものがあったが、新左翼諸党派による旧套のコミンテルン型革命運動の強行が、しかも暴力主義革命路線としてはっきりとした姿を現わすと、それが大衆的に受け入れられる条件は現存しなかった、と言うべきだろう。街頭や学園での烈しい決起闘争は、その時、その場で大きな反響を呼んだが、大衆の日常生活の改善には影響がなかった。68−69年の叛乱がピークを越すなか、新左翼諸党派は日本資本主義社会の現実と歴史の動向を掴まえそこない、従前の運動路線を反省し変更するどころか、錯誤を一段と重ねながら、70年代闘争に突入していった。 ところで、68−69年の叛乱は、その裏面での新左翼党派と共産党の間の、また新左翼の諸党派間や党派内の暴力的形態の抗争の激発、日常的横行によっても特徴的に彩られていた。暴力的な党派闘争、内部ゲバルト抗争は、新左翼党派運動がさらけだした否定面としてその最たるものであった。 歴史的経緯を辿ると、60年安保での全学連を主力部隊とした新左翼の闘争は、学生自治会のスト、素手で機動隊に対峙する街頭デモなど、非暴力的直接行動であり、党派間の対立抗争でも暴力的衝突にはいたらなかったと言ってよい。関連諸文献に基づけば、61年7月全学連第17回定期大会にあたって、マルクス主義学生同盟系の中央執行委員会派と社会主義学生同盟、社会主義青年同盟、革共同関西派などの反中執派連合とが乱闘し、この衝突で初めて角材が使用された。 これを発端として、60年代前半には、マル学同系対三派連合系、革共同全国委員会が分裂するとマル学同の革マル派系対中核派系などの党派闘争のなかで、ヘルメットと角材で身をかためた殴り合い、投石が次第に広がっていった。60年代後半になると、中核派、社学同、社青同の三派系対革マル派系をはじめとして、諸党派間の内ゲバはすっかり定着した。 学園や街頭での連続的な武装闘争が高揚し、機動隊との衝突が激烈化した68−69年になると、諸々の党派の間での内ゲバ、監禁、リンチ事件が、各地の大学において、大衆の面前であるいは目に見えないところで、続発し日常化するにいたった。この過程で、内ゲバという言葉も登場し広く用いられるようになったと言われる。 前記のように、67年秋の羽田闘争で、機動隊によるデモの強圧的規制を打ち破るべく初めてゲバ棒で対抗し、それを転機に武装闘争形態が一般的となり機動隊との衝突も更に過激化していった。しかしながら、決定的に重要なのは、歴史的経過が示すように、国家権力との対決に先んじて新左翼諸党派間の争いにゲバ棒は揮われ、そのゲバルトが国家権力に対しても振り向けられていったということである。新左翼諸党派の内ゲバは、まさしく当該党派の体質に内発する悪業にほかならなかった。 |