「新左翼党派運動の歴史的意味」
渡辺・塩川・大藪編『新左翼運動40年の光と影』 新泉社、1999年9月


三 内ゲバ殺人の狂態をめぐって

 1970年代になると、驚異的な経済の高度成長をとげたわが国は、「豊かな社会」に達し経済大国に成りあがった。それとともに企業主義の跋扈、生活中流意識の国民的浸透、労働組合連動の右翼的再編等によって、社会の右側への地殻変動は着実に進展していった。世界的な68年革命と連動した日本での叛乱も山場を越え、高揚した新左翼運動は退潮に向わざるをえなかった。

 70年後半から71年にかけて、新左翼諸党派の党派闘争、党内闘争が深刻化し、共産同の四分五裂、全国全共厨(八派連合)の分裂などが生じた。個々には高揚をとどめながらも全体として大衆運動が下火になっていくなか、新左翼党派運動では、かえって闘争路線を過激化させ、一段とテロリズムヘ傾斜する傾向が強まり、警察権力との闘争での爆弾の使用が目立つようになる一方、内ゲバ殺人が激発するにいたった。

 ゲバルトの謳歌、夥しい暴力的抗争の頻発のなかで、すでに69年9月、芝浦工大でのバリケード封鎖をめぐる新左翼党派系の内ゲバで、また社学同内の激しい抗争のなかで、初めての死者が2人でていた。

 次いで70年8月、中核派活動家達による革マル派学生のリンチ殺人事件が発生した。即座に革マル派は報復襲撃をおこなった。これを皮切りに両党派の間で内ゲバ殺人事件が続き、やがて73年からは双方の組織ぐるみでの殺し合いへ内ゲバはエスカレートした。

 中核派は、「革命と反革命の内戦の時代」と規定して「内乱的死闘の70年代」のスローガンを掲げ、暴動や蜂起を企てる武装闘争に突進していた。自党派による革マル派学生の役者については沈黙し続けていたが、71年末に自派に死者がでると、権力・機動隊=革マル派という「K=K連合」説を唱えて、「カクマルせん滅」の全面戦争を宣言した。更には、70年代内乱の先陣として革マル派を殲滅するという「先制的内戦戦略」を打ちだしていった。

 他方、中核派を「革命妄想主義者」と批判していた革マル派は、自派の学生への最初の内ゲバ殺人が起きると、即座に「一切の手段を駆使した階級的復讐」を主張し、「殺人者集団ブクロ=中核派の破滅」の宣言を発した(全学連中央執行委員会情宣部編『革命的暴力とは何か?』こぶし書房、1971年)。他党派解体を狙いとする組織戦術を適用して、暴力の行使を「補助的手段」とする中核派解体の党派闘争を路線化したのである。そして、内ゲバ殺戮抗争が熾烈化するなかで、74年初めには中核派を反革命と公然と規定した。

 内ゲバ殺人は、当初は状況におされた偶然的な、現場での暴発という要素が大きかったのであろう。が、回を重ねると逸脱が逸脱として自覚されなくなり、合理化され正当化され、果ては組織的に煽り立てられ遂行されるにいたった。両党派が内ゲバ殺人の正当化に用いる理屈には、それぞれに特徴的で相違があるが、報復の論理をとり、相手党派に反革命の烙印を押す点では共通している。報復の論理によって、内ゲバを抑制、停止してそれから脱けだす道を見いだせず、内ゲバのとめどもない悪循環的な拡大に陥ることになる。相手を反革命と断罪することで、罪悪感や思い悩みに妨げられることなしに、革命か反革命かの強迫観念に駆り立てられ、相手党派のメンバーの破滅が革命につながるという倒錯にはまりこんで、ゲバを揮うことが可能である。このようにして、両党派は一気可成的に殺し合い内ゲバに転げ落ちていった。

 新左翼諸党派の中心を占める中核派と革マル派の間での、また革マル派と社青同解放派の間での陰惨な殺し合い内ゲバは、72年に人びとを驚愕させた連合赤軍の殺人粛正事件とともに、新左翼党派運動の高揚期に日常的に横行するにいたった内ゲバ抗争の行き着いた果てであり、関係諸党派の運動の破綻、荒廃をまざまざと示した。新左翼党派運動の40年の歴史の功罪としてあれこれを挙げることができようが、この内ゲバ殺戮ほど大きくて重い罪過はない。新左翼党派運動の歴史を振り返る際、この問題の総括を避けることはできない。また、避けてはならない。

 内ゲバ殺人の凄まじさは、わが国の左翼運動史上類例がない。今日までの死者の数だけでも、100人を越える。他に身心に損傷を蒙って廃人同様になった者もいる。重傷者、軽傷者にいたっては、数知れないほどである。狂気の沙汰に慄然とせざるをえない。日本共産党に関しても、戦前の非合法化された時代のリンチ殺人事件や戦後の分派闘争のあおりをうけた学生運動の分裂のなかでのリンチ事件が知られているが、とてもその比ではない。途方もない規模の犯罪である。また、国家権力によって虐殺された者よりも、内ゲバによって殺害された者の方がはるかに数多い。

 内ゲバ殺人が及ぼした社会的反響も、甚大であった。先年公刊された「全共闘白書」(新潮社、1994年)での、全共闘運動的なものから距離をおくようになった主因についてのアンケート調査への回答に従うと、内ゲバが第1位であり、第2位の連合赤軍事件とあわせると、圧倒的な割合を占めている。新左翼党派運動はそれなりの広がりを有するにいたっていたが、その運動に共感したり支持を寄せたり、期待したりした人達も、その多くは、内ゲバが殺し合いにまでいたると、強い衝撃を受け、心を痛め、慨嘆したり憤慨したりしながら、結局は呆れ果てて愛想をつかすにいたったであろう。

 日常不断化した内ゲバ、なかでも内ゲバ殺戮の悪辣さと愚劣さは、当の内ゲバ諸党派の運動のみならず、かなりの程度社会に根づきそうだった新左翼党派運動全体のマイナス・シンボルとなり、その地盤を突き崩すことになった。

 革命運動の現在のなかには、革命以後の未来社会のイメージが含まれている。もし仮に内ゲバ諸党派が国家権力を掌握するようなことがあれば、血の粛清が荒れ狂う恐怖政治が惹き起こされるのは必定だろう。スターリンの大テロルを頂点として、20世紀社会主義には怖ろしくて忌まわしい大粛清の歴史がつきまとってきた。70年代後半には、カンボジアでのポルポト派による大量殺数事件も伝えられてきた。内ゲバによる殺し合いは、人びとの社会主義への不信を増幅し、社会主義離れに拍車をかける一因ともなったにちがいない。

 新左翼諸党派のなかには、革共同(第四インターナショナル日本支部)のように、内ゲバに反対し内ゲバをおこなわないことで自らを律した党派も存在した。このことも明記しておかねばならない。しかし、残念なことに、そうした党派は例外的であり大勢とはなりえず、内ゲバを抑制し停止させるパワーとなることはできなかった。その際、革共同中央委員会編『革命的暴力と内部ゲバルト』(新時代社、1973年)に明らかなように、その内ゲバ反対には限界があった。一つには、当時の運動のなかでの他党派との対抗と提携の関係に密接に絡んでいて、内ゲバ主義の元凶を一方の党派に帰せしめ、他方の党派については積極的な責任を追及しないというように、現実の党派政治絡みで一面的に偏倚していた。また一つには、原則的立場として、スターリニスト官僚のテロと峻別してレーニン、トロツキーの赤色テロについては、これを無批判的に容認していた。

 内ゲバ殺人の横行は、当該諸党派運動の頽落の決定的な徴表として捉えられる。社会ファシズム論と社会民主主義主要打撃戦術の誤謬、スターリンの粛清政治の犯罪を、新左翼党派は指弾してきた。にもかかわらず、それらと同様の過誤を内ゲバ諸党派は犯すにいたった。このおぞましい愚行を生んだものは、何だろうか。新左翼詣党派の基本的立脚点にかかわって内ゲバを内発したと考えられる諸要因を幾つか摘示してみよう。

 第一に、一般的な土台として、民主主義に関しての決定的な歪みを指摘しなければならないだろう。わが国の左翼のなかでは、民主主義についてもレーニンに代表される所論が優れた達成としてまかり通ってきた。しかるに、その民主主義論には根本的諸欠陥が内在していた。

 まず、プロレタリアート独裁は敵階級に対しては暴力的抑圧であり、民主主義を廃棄するが、プロレタリアートにとっては民主主義の全面的発展だという、プロレタリアート独裁の一体的半面としてのプロレタリア民主主義は、当然に階級内民主主義、同質集団内部での民主主義にすぎない。同質者の間で徹底して民主主義的であっても、異質集団や異質者に対しては極度に不寛容でこれを暴力的に排撃する。ところが、近・現代の民主主義は、前近代のそれとは差異して、被支配諸階級をも包摂しておこなわれ、それゆえに多元性、寛容性を伴うことを歴史的独自性の一つとする。対立階級、異質集団を除外するのであれば、そもそも近・現代の民主主義は成り立たない。この致命的とも言える欠陥が、これまでは看破されなかった。

 次に、レーニンは右と不可分に、ボリシェヴィキの党内民主主義を強調した。厳格な組織原則に基づいた革命政党における同志的関係を、「『民主主義』以上のあるもの」「真の民主主義」(『なにをなすべきか』)として至上視しさえした。しかしその反面、他の社会主義諸政党との党間民主主義については、これを重要視することに乏しかった。こうした党内民主主義の至上化、党間民主主義の軽視と一国一前衛党の定式化との間にも、明らかに結びつきがある。

 わが国では、党内民主主義をめぐってレーニンやボリシェヴィキの活動が高く評価される一方、ソヴェト・ロシアでのいっさいの反対政党の禁圧、メンシェヴィキやエス・エルの撲滅は等閑に付されてきた。しかしながら、人民大衆、社会にとっては、特定の政党 − いかに革命的であろうと − の党内民主主義にもまして、諸政党の党間民主主義がより重要なのである。

 かかる偏狭な民主主義をいささかの疑問もなく継受し、それに立脚してきたことが、ウルトラ・セクト主義や対立党派の抹殺に走るとともに、政治的対立、抗争の暴力的突破に回路を求める、つまり「独裁」に訴えた「解決」を自明のものとする素地になっているだろう。

 関連する論点に触れておこう。革命政党組織における同志的結びつきに「『民主主義』以上のあるもの」、「真の民主主義」という価値付与をしたレーニンを承けて、新左翼党派運動の創始にきわめて大きな役割を果した黒田寛一は、「組織論序説」(こぶし書房、1961年) のなかで、「共産主義社会の組織的母胎を場所的に創造してゆくことこそが、プロレタリア党の眼目であり、実現されるべきコムミューンは、革命的マルクス主義で武装し、同志的信頼と実存的交通によってささえられた前衛組織そのものの内部に、すでに発酵するものでなければならない」と論じた。一見したところ魅力的な、この種の説諭には、重大な難点が所在している。

 政治的党派は厳格な政治的信条によって結ばれた同質者の集団である。そうした同質集団の拡大延長線上に共産主義社会は形成されるのではない。現下の資本主義社会のみならず革命後の社会においても、長期にわたって過渡的に、経済的、政治的、文化的に異質な諸々の集団が存立する。そこでは、経済的利害、政治的主義主張、価値意識、文化的嗜好等が種々に異なる集団の間で、諸多の対立が統合され解決されなければならない。また、少数派や異端派の扱いが益々もって重要性を帯びる。

 必要不可欠なのは、一枚岩主義の論理ではありえず、異質物の包摂の論理である。多元性、寛容性を更に格段と発揚する、全面的で徹底的な民主主義の開発、社会的浸透が、その鍵をなすであろう。こうした過程的論理を欠如して、特定党派が母胎となる一枚岩の未来社会を築こうとするならば、現在的には独善的で閉鎖的、排他的な党派主義連動となり、革命後には政治的党派の社会への溶解とは逆に唯一前衛党としての特定党派への社会の糾合を押し進めて、党支配制を招来するのは必至だろう。

 一枚岩的で中央集権的な党派に似せて未来社会をつくるのではなく、多元的で分節化された未来社会にふさわしい党派をつくることが求められるのである。

 第二に、至上化された自党派への集団主義的滅私奉公を挙げよう。レーニンが説いた民主主義は、集団主義的でもあった。「勤労被搾取人民の権利の宣言」に具現されているように、民主主義的権利は集団としての人民の権利であって個々人の権利ではなく、権利は集団主義的に規制され、個人や少数派の権利は封殺された。また、革命党としてのボリシェビキの鉄の規律がなにによってつくりあげられたかについて、レーニンが「第一にプロレタリア前衛の自覚……革命にたいする彼らの献身、彼らの忍耐、自己犠牲、英雄精神」(『共産主義内の「左翼主義」小児病』)と述べたように、厳格な中央集権制のもとでの党員の自党派への献身と忠誠は、革命的前衛党としての成功の根本条件とされてきた。

 これに、わが国の集団主義的風潮が重なりあう。日本の社会は伝統的に集団主義的編成原理を保持していて、人びとには集団への帰属意識が強く、集団の決定に素直に従い、集団のためにみずからを犠牲にしさえする。その反面、個人としての自律性は薄弱である。そして、集団の内部では同族的な一体感が強烈であるが、外部に対しては閉鎖的で排他的である。小さな全体主義がわが国の社会的土壌にはひそんでいる。

 こうしたレーニン主義的集団主義と日本的集団主義の重畳によって極度に濃化された特異な集団主義的体質を、わが国のマルクス主義諸党派は形成してきた。民主集中制の組織原則に則って、党中央の指導に下部党員は従順に従って活動する。党の苦境下では、身を粉にして挺身する。運命共同体の一員であるかのごとく、実直な党活動家が自党派の決定に随従し、党派に自己を解消することも稀ではない。日本の名だたる会社(本位)主義、企業戦士、過労死と新左翼党派の党(本位)主義、献身的活動家、内ゲバは好一対という見方さえ成り立とう。自党派の内では同志として一致団結するが、他党派に対しては拒絶反応を示し排撃する。一旦党派内で対立が深刻化すると、容易に組織的に分裂し、しばしば敵対的な関係へ転化して、同志愛は凄まじい憎悪に一転する。新旧を問わず、わが国の左翼陣営では、そうした実例に事欠かない。

 ”すべては党のために”、内ゲバ殺人は、かかる特異な集団主義のマイナス作用の極致であろう。唯一の革命的前衛党や共産主義社会の母胎として物神化された自党派への集団主義的滅私奉公の極限的形態として、内ゲバ殺人の蛮行が、当の使嗾者や実行者達にはあたかも正当であるかのごとく狂信されて遂行されるのではないか。党組織に個々の党員は呑みこまれ、個人は組織に一体化することによって自己の存在意義を確証するようなものとして、生真面目な党派活動家はテロリストと化し、躊躇や煩悶を振り捨て殺戮の凶器を揮うのではないだろうか。この点では、「個人原理が貫徹しておれば、かえって、内ゲバはおこらない」(高橋和己「内ゲバの論理はこえられるか」、埴谷雄高編『内ゲバの論理』三一書房、1974年、所収)ということがあるだろう。

 第三として、スターリンの大テロルに対する批判の薄弱さを取りあげるべきであろう。新左翼諸党派のスターリン主義批判は、概して、レーニン時代からスターリン時代への転換やスターリン対トロツキーの闘争を範域として、一国社会主義論など幾つかに焦点が絞られ、なお制限されたものであった。1920年代末からの「上からの革命」やそれを経て築きあげられたスターリン主義体制については、実態の解明が未だ今日のような進展を見せておらず、トロツキーによる分析の線にとどまらざるをえなかった。

 大テロルについてもそうであった。対馬忠行の先駆的なソ連「社会主義」批判のなかにもスターリンの粛清政治への告発が含まれていたが、スターリン主義体制において礎石をなしていた巨大な規模のテロルについて、新左翼党派が固有の問題として取りあげ、その意味を問い質すことはなかった。他方では、プロレタリアート独裁が強調され、ジャコバン主義的テロルへの同調は溢れていた。

 1936−38年時、スターリンの大テロルの独特な性格には、次のような諸点が含まれていた。@特定の社会的カテゴリーに属すると見倣された人達、トロツキストや人民の敵というレッテルが張られ反ソヴェト分子と規定された人達に対して、その個人がどのような犯罪を犯したかの具体的な特定行為についての客観的な証拠とは関係なしに、発動された。A罪刑法定主義は、ブルジョア法原理として排斥された。犯罪の定義も刑の量定も、スターリンとその徒党の恣意であった。B社会主義建設事業という大義名分を掲げ、党のため、国家のためと称して正当化された。C敵対帝国主義との交戦状態にはなかったから、「ファシズムの手先」による妨害工作、後方攪乱といった利敵説、通敵説が用いられた。

 これらの特徴は、中核派と革マル派の殺し合い内ゲバにもほぼそっくりあてはまる。内ゲバ諸党派がスターリンの粛清の論理、テロリズムを克服できなかったことは、明らかだ。帝国主義列強による包囲の強圧、強まる戦争の脅威、国内の依然たる経済的、政治的な後進性等々、峻厳で極悪な諸条件下にあったソ連とはまるきり異なった、70年代の日本での革命運動の途上で、スターリンの犯罪の二の舞を演じるのだから、スターリン以上にスターリン主義的とさえ言えるかもしれない。

 スターリンが築いた体制は全体主義的であり、指令に忠実に従ってテロルに挺身したラモン・メルカデルは数多だったが、内部からの大テロルに対する告発者は出現しなかった。

 『戦争と罪責』(岩波書店、1998年)を著した野田正彰の調査によると、第二次大戦で、アメリカ兵は10人に1人が精神障害に陥った。ドイツ軍でも、ユダヤ人殺戮の命令に耐えられない兵士が10%出た。ところが、侵略戦争に従軍した日本の兵士では、虐殺の罪におびえた者はまったくの僅かしかいなかったらしい。新左翼党派も同様なのであろうか。内ゲバをめぐって「『内部からの声』を!」(埴谷雄高、同編前掲書あとがき)の呼びかけに応じた声が公然と発せられることはなかった。悪しき伝統を打ち破って、内ゲバ殺戮についての内部からの反省や告発は、ついに現れないのであろうか。

 内ゲバ(殺人)に対して毅然たる批判をなしえない新左翼的知識人が多いなかで、75年6月と7月に埴谷雄高など、見識を待った20数名が、中核派と革マル派へ内ゲバの停止を提言した。だが、「問題の核心は、極端にいえば、『殺人をやめること』という切実素朴な一語につきる」という第二の提言についてさえ、中核派は拒絶した。革マル派は不満を表明して受け入れることがなかった。

 内ゲバ殺人の誤ちについて、関係諸党派は後世の批判の炎にさらされ、指嗾者、実行者、助力者のすべては、その汚名を日本の革命運動の年代記に永く刻みこまれるにちがいない。