「新左翼党派運動の歴史的意味」
渡辺・塩川・大藪編『新左翼運動40年の光と影』 新泉社、1999年9月


四 破綻の彼方に展望を

 新左翼党派運動は、1968−69年の叛乱を頂点として、既成のものの打破を目指し、折しもわが国の急激な高度資本主義化にともなって現出する諸矛盾に抗議し反抗して、急進主義的な体制変革に挑み、同時に社会主義のスターリン主義的変質を告発しそれを克服して進むことを追求した。その意味では、この時代の解放運動の苦悩を最先端で担い、革命的変革の実現の至難性を背負っていた。だが、攻撃し打倒しようとしているものに何をもって置き代えようとしているのか。ロシア革命モデルとレーニン主義にとらわれ続けて、歴史上いまだかつてない変革に連なる新たな価値理念、構想や運動、組織のスタイル、大衆的なリーダーシップを建設的に創出することができなかった。資本主義体制を否定するとともに既成「社会主義」も突破しようとする思想、運動の開放的エネルギーを一定の程度引き出したものの、その針路を取ることに失敗したのだ。

 日本の新左翼党派運動の特質を明らかにするため、西ドイツの新左翼、ドイツ社会主義学生同盟(SDS)の運動と対質してみよう。SDSは、色合いの異なる諸グループを含む緩やかな組織体であり、社会革命として評議会民主主義 − 一種の直接民主主義 − を目指した。大学闘争では、「民主化」を指針として、正教授の絶対的な支配に対し大学を構成する各階層、教授、助手、学生の平等な権限分担を求めた。官僚主義的で抑圧的な体制である東ドイツやソ連を手本とするような革命は、まったく問題外にしており、組織労働者から乖離して少数派として孤立していることを踏まえて、長い苦難な闘いを推し進めるというのが、その運動路線であった。

 SDSのリーダー、ルディ・ドゥチュケによれば、第三世界と高度資本主義国の解放運動のあり方について、暴力、テロは前者では必要であっても、後者では必要ではなくむしろ誤りであり、原理的な差異が明らかである。「高度発展工業国の首都においての暴力、暗殺、殺人への呼びかけ −それは誤りであり、まさに反革命的だ、とぼくは考えています」(「評議会民主主義へ!」、『中央公論』1968年10月臨時増刊号)。

 高度資本主義国でも国家権力による暴力的抑圧に抗する反対暴力は避けられないが、その次元にとどまるなら暴力の悪無限的対抗にはまりこみ、新たなる経済、社会、政治、文化のシステムを創出する社会革命の道は拓けない。そこでの武闘路線は敵の土俵にまんまと引き込まれることであった。実際、ドゥチュケ暗殺未遂事件の後も、SDSは暴力的手段に頼ることを自制した。SDSもセクト主義的傾向を有し、内ゲバとも無縁ではなかったし、後には赤軍による銃を使った要人殺害も惹き起こされた。だが、SDSはわが国よりも更にずっと厳しい試練にさらされ経験を重ねてきたドイツの歴史から生まれた民主主義の申し子であった。 1983年西ドイツの連邦議会総選挙において、「緑の人々」が議会進出を果した。「緑の人々」の中心的担い手はSDSをはじめとする諸党派の運動経験者であり、彼らは70年代をつうじさまざまな市民運動、住民運動に沈潜していき、反政党的政党である「緑の人々」の結成の原動力となったのであった。

 ユルゲン・ハーバマスは、68年の学生叛乱を回顧して、「左翼ファシズム」という、当時放った批判を自己批判しつつ、学生達の反抗運動がドイツにおいて初めて生活スタイルや人間関係を自由化する推進力になったことを評価している。(「あれから二〇年」、ハーバマス『遅ればせの革命』、岩波書店、1992年、所収)

 西ドイツでは、高度産業社会に対する反抗という底流を保ちながら、かつての叛乱は70年半ば頃から新たな社会運動としてまがりなりにも徐々に社会のなかに地歩を築いてきた。68年はそうした節目の年として、歴史に残っているのである。

 なお、わが国の大学アカデミズムはスターリン主義の一大拠点でもあり、大学を震撼させた68−69年の叛乱に呼応して「正統」派に対抗して進出し、もてはやされたのも概して左翼スターリン主義ないしレーニン主義であった。それ故、ソ連の崩壊によってマルクス主義は総崩れ状態になる。それに対して、西ドイツでは、学生の叛乱はフランクフルト学派の批判理論のラディカル化を刺激し、西欧マルクス主義のマルクス・ルネサンスの理論的活性化につながった。

 1960年代から70年代へかけ、日本が世界でも稀な経済の高度成長を持続して高度資本主義国に急躍進する時代にあって、新左翼諸党派はレーニン主義に立ちコミンテルン型革命運動の現在的再興を企てた。その革命路線の基幹をなすのは、総じて党・国家中心主義、つまり唯一前衛の自党派至上主義、政治革命主義、プロレタリアート独裁と生産手段の国家的所有化を基柱とする国家主導主義であった。その基幹部はレーニン主義の継承であるとともに、実はスターリン主義にも通底するものであった。

 70年代後半には、各国共産党のユーロ・ジャポネ・コミュニズムヘの路線変更に対して、新左翼諸党派は公然たる修正主義への転落として断罪し、レーニン主義を頑くなに護持した。ヨーロッパ諸国や日本の共産党の路線修正が状況に追随した政治的御都合主義としてなしくずしにおこなわれたのは、事実であった。だが、新左翼諸党派の対応は、逆に歴史的現実感覚を喪失して教条主義的に硬直していた。

 新左翼党派運動は、勃興期には曖昧性もあったが新鮮さに彩られ負性は目立たなかった。だが、68−69年の高揚期をつうじて、エセ前衛党批判は唯一前衛たる自党派の絶対化へ、果敢な実力闘争、直接行動の推進は暴力主義、武闘主義の決戦へ、鋭いイデオロギー批判はドグマの狂信へ転化していった。

 それとともに、世界に冠たる経済大国の地位に登り経済的、社会的な構造的変容が著しい日本の現実からの、20世紀初葉の後進国ロシアを基体としたレーニン主義に依拠する左翼の遊離は、決定的に進行した。68年革命の際には、東西冷戦の最中、世界の一部でかえって高まりさえした親スターリン主義的風潮や、70年代初めまでわが国の新左翼諸党派が抱き続けた革命の現実性についての想念とは反対に、実際には、追いつめられつつあったのは世界の「社会主義」であり、わが国の全体としての左翼であり、なかんずく新左翼諸党派であった。

 新左翼諸党派は革命や社会主義について過剰なまでに宣伝・煽動し激しく行動したが、現実に根ざした変革の構想を示し着実に実践しえないことが程なく歴然としてきて、衰退は避けられなかった。しかも、この時期、新左翼の主要党派、中核派、革マル派、それに社青同解放派は、それぞれの革命運動の破綻を象徴する内ゲバを激化させて殺し合い内ゲバにはまりこみ、「革命と称する似而非革命」(埴谷雄高前掲あとがき)を弾劾しながら、「革命と称する似而非革命」の潮流のなかに沈みこんでいった。

 他方では大衆運動が退潮に向かい、戦後の戦闘的労働運動やラディカルな学生運動の基盤が消失していくなか、新左翼諸党派は企業主義がはびこりだした社会の片隅に封じこめられてしまうことになった。新左翼党派運動は当初の壮大な抱負にもかかわらず、構造的大変動の急進展した日本の社会と国家に対して、結果としてはほとんど何も変えることができなかった。新たな建設に重力であった反面、マルクス主義的左翼の悪しき伝統を極限化して引き継ぐことになった。

 その点では、新左翼党派学生運動のみならず、党派の自己絶対化とは対照的に、「自己否定」の語で制度と自己の関係性を問い詰めたノンセクト・ラディカルズの全共闘運動も、層としては、社会的な進出コースを現実に切り開きえずに、大学を卒業すれば世俗的な出世レースに身を投じるという既定路線に吸引されていった。60年安保世代とともに68年全共闘世代も、出世民主主義にもまれながら、変容する日本資本主義体制の新たな担い手の道を歩んだ。若者達の叛乱や闘争が終息し、高度資本主義化をとげた社会が日常性に回帰したとき、そこに会社主義日本、あるいは日本型管理社会が出現していった。

 1945年の敗戦による日本共産党の解放はスターリン主義への更なる隷従となり、56年の新左翼党派のスターリン主義からの解放はレーニン主義への復帰、トロツキー主義の導入として実現された。しかしながら、新左翼党派が新たな歴史の大道として見定めた路線も、旧套の革命路線への固執であり、行き止まりの袋小路であったのだ。1917年のロシア革命に始まり91年のソ連崩壊で幕を閉じた20世紀のマルクス主義的社会主義の歴史的流れのなかで見ると、世紀後半の資本主義世界の構造的変容のうねりの時代に、自国も高度資本主義国に激変してゆく真っ直中、伝来のレーニン主義に立脚した運動を敢行した新左翼党派は、いわば最後の旧左翼にほかならなかった。

 多種多様な新左翼運動のなかでは、新左翼党派運動は中心を占めてきたとはいえ、今日的に見ると旧態依然の古いものの代表格であった。新しい問題提起や新しい芽は、むしろ別種の新左翼運動によって育まれていただろう。

 わが国の新左翼党派運動の経験に基づけば、高度な発達をとげた資本主義国では、レーニン主義に立つコミンテルン型革命運動は、いかに革命的な熱情や真撃な献身的活動に満ちていようとも、有効性をもちえない。それどころか、この革命運動の中心核たる唯一前衛党としての自党派を絶対化した党派運動は、解放運動全般に対して抑圧的に作用しさえする。なににもまして革命政党こそが革命されなければならない。スターリン主義の党だけではない。レーニン主義の党もそうである。これは、新左翼党派運動の破綻から導き出されるなによりの教訓であるにちがいない。

 89−91年の東欧・ソ連の「社会主義」体制の瓦解は、反スターリン主義を標榜してきた党派にとっては特に、真価を発揮すべき、その時機ついに到来の大事件であった。ところが、新左翼諸党派はすでに路線的破綻によって衰退の一途にあったし、党・国家中心主義的革命運動への破産宣告を深奥に内意したソ連の崩壊によって一段の難境に追いこまれ、生き残りに汲々とせざるをえなかった。

 世紀末における世界史の大変動によって、ソヴェト・ロシアを最たる拠り所にしてきた日本の社会主義的左翼は、新旧を問わず、急展開する歴史から振り落される破目に陥っている。現在では左翼陣営全体が著しく弱小化し、マルクス主義勢力はある種のカオス状態にある。そのなかで、中核派や革マル派は旧套のレーニン主義路線を護持して守旧左翼化を強めている。内ゲバ(殺人)についても、最近は影をひそめる傾向にあるとはいえ、今だに全面停止を明言し、自己批判をおこなう姿勢にない。他方、70年代後半にユーロ・コミュニズムに路線転換した共産党は、東欧、ソ連の体制崩壊の大衝撃波を被り、スターリン主義(への加担)責任をすりぬけて、更なる数段の変身に大童である。俗に言う政治は三流≠ヘ、そのまま左翼の問題でもある。

 すでに明らかなように、日本における新旧左翼党派の対立、闘争は、レーニン主義、トロツキー主義対スターリン主義というソヴェト・マルクス主義の枠組内でのそれにすぎなかったレーニン主義、トロツキー主義への歴史の厳しい審判でもあったソ連の崩壊とともに、双方の対立はかつての意味を失うにいたった。

 今日、新旧を問わず21世紀に生きる生命力を問われている日本のマルクス主義陣営に課せられているのは、発祥以来の4分の3世紀有余にわたり圧倒的な影響を蒙ってきたソヴェト・マルクス主義の超克であり、従来の革命運動の抜本的一新であろう。そのために果されるべき課題は数多い。その一つとして、新左翼党派運動40年の歴史を反省し、それが破綻に帰した諸原因を考察して後代に伝えることは、創生期や高揚期の運動を担って夢破れた世代が回避してはならない責務であるに相違ない。

 挑戦と破綻の折りなした新左翼党派運動にあって、国家権力との闘争で斃れた、また内ゲバ抗争で非業の死をとげた多くの人達の無念に深い哀悼の想いをこめ、わが考察のいたらざることを詫びる。