「1957〜60年の九大学生運動」


 それでは、トップバッターとして、1957年から60年にかけての九大の学生運動について、60年の安保闘争を中心にして発言をいたします。この時期、安保闘争に代表されるように、かつてない学生大衆運動の高揚があったわけですが、その背景について、ごく簡単に3点ほど挙げておきます。
 1つ目は、戦後復興期の最終局面に当たると思いますが、日本の全体が貧しかった。学生ももちろん貧しかった。それで、このころは地元の国立大学志向というのが大変に強かった。もし国立大学に入学できなければ、大学進学をあきらめるという人たちも少なくなかったと思います。
 2点目、戦争体験があります。肉親に戦死者がいるなど、多かれ少なかれ戦争の直接的な被害をこうむっておりました。
 それからもう一つ、3点目には、1956年、私の入学の前年になりますが、ソ連でスターリン批判、そしてハンガリーなど東欧諸国での動乱が起きております。これは全世界の、特に日本の左翼運動の大転換の発端になります。後に触れますように、ソ連の社会主義に疑問を呈して批判をする新しい左翼が登場していくということになっていきます。
 以下、できる限り正確を期すために、この間、九大新聞、それから西日本新聞も調べました。それで大体年代順に報告をしていきます。いろんな闘争の月日、参加者数などは九大新聞と西日本新聞によります。
 まず、私が入学をした1957年から58年にかけての時期です。
 57年5月17日にクリスマス島水爆実験抗議の全国学生決起、その一環として市内の5大学2000名が集会をしております。これは新聞記事によると、1952年の単独講和反対集会以来の大規模なものであったということです。但し、私は全くのノンポリで大学に入学しておりましたので、不参加、ノータッチでした。
 そして、教養部自治会、その当時正式の自治会執行部は存在していませんでした。その再建活動が始まっています。中心を担ったのは木原義法さん、法学部の同期生ですが、年が4つか5つほど上でした。彼を中心に教養部自治会再建ということで、私は夏休み前あたりからその活動に加わっていったと思います。自治会規約もなかったので、自治会規約を作成するということが一つの中心的な課題でした。
 活動の基本にしたのは、クラス討論を積み重ねる、クラス決議を上げる、クラスを基礎にした大衆運動をつくっていくということでした。そして、11月1日に原水爆禁止国際統一行動があり、市民集会に市内の大学合わせて九大新聞記事では3000名(西日本新聞では1700名)が参加しました。
 これで一つの大衆運動の成功があったわけですが、多分12月の初めに教養部自治会の執行委員会が成立をして、委員長に私が選ばれました。
 58年に入ると、5月に前期の教養部学生大会開催ということになって、当時まだ旧福高の講堂が残っておりましたが、そこにはせいぜい5〜600名ぐらいしか収容できない。学生数1学年1200〜300人として2学年ですから ざっと2500人。学生大会成立の定足数というのは正確には覚えていませんが、とにかく1000名ぐらい集めないと大会が成立をしないということで、医学部の講堂を会場に借りて、バス十数台を借りて、それを連ねて、医学部の講堂で学生大会、1000名近くが集まったと思います。ここで自治会規約が承認され、教養部自治会の再建が成りました。
 これ以降、59年から60年あたりにかけて、本学の各学部自治会も再建されていきます。そのほかに、大学側の入学式の場を借りて新入生に対し自治会やサークルの案内を行うことも、58年あたりから始まって定着していったと思います。こうして、大衆的自治会運動の組織的な基盤を整えたことになります。
 58年には秋に警職法改悪反対運動がありました。11月5日に福岡で2000名の集会になります。福岡地区では九大の各学部自治会、西南学院大学、福岡学芸大学(現福岡教育大学)自治会、福岡女子大学自治会が統一行動をとり。九学連(九州地方学生自治会連合)が統一集会を主催するという形をずっととっております。
 その後、58年12月に学友会代議員総会があって、私は委員長になりました。
 以上、57年から58年にかけての、教養部自治会再建を中心にした九大学生運動についてです。
 ところで、58年から59年ごろにかけて、学生運動が大きく路線を転換します。
 何よりも新左翼の党派が誕生しました。それまでは日本では共産党、社会党という2つの左翼政党があったわけですが、日本の学生運動は共産党がずっと主導権を握り、全学連や九学連の指導部もほとんどが共産党に属してやっておりました。それが57年になって日本革命的共産主義者同盟、略して革共同が結成されます。その大きな特徴といいますか、それまでの共産党、社会党との決定的な違いは、ソ連を社会主義ではないんじゃないかということで批判をする、そして、スターリン主義反対を綱領的な立場とする、そういう政治的な党派が出現することになったわけで、これは日本の社会主義運動の歴史の上で画期的だった。それまではずっと共産党の中で、例えば所感派と国際派という形での争いがあって、それが学生運動の指導にそのまま持ち越されて来ていたわけですが、そういう枠組みから完全に飛び出して、別党コース、別の党をつくっていくんだという、そういう党派が生まれてきた。その影響が学生運動にも波及し浸透していくことになります。
 58年に6・1事件というのがありまして、日本共産党の代々木の本部で党内反対派であった全学連の指導部が共産党中央と衝突をして、共産党と袂別をする。そして12月に共産主義者同盟(ブント)を結成する。日本の新左翼党派としては、一番のもとは革共同ですが、その影響を受けてブントが生まれるということでした。
 そして、全学連の中央執行委員会を新左翼党派が掌握して、学生運動の路線が大きく転換をするということになります。わかりにくいかと思うんですが、スローガン的に言うと、平和擁護運動から階級闘争へというような形になるんでしょうかね。
 それまでは資本主義と社会主義の体制間の矛盾というのが基本であって、帝国主義的な戦争勢力と闘う平和擁護闘争を第一義とする、これが全学連・九学連の運動路線でした。しかし、これを裏から見ると、平和共存路線をとるソ連を支えるということであった。それがソ連に対する批判的な立場に転換して、変わってブルジョワ階級とプロレタリア階級の階級対立、階級間矛盾が基本である、階級的視点に立つということがしきりに強調された。そして、労働者階級の同盟軍として闘う。こういう形で転換を遂げたということができます。分岐点はソ連をどう評価するかということにあったと思います。
 そして、59年に九大でも、福岡でもブントの結成になりました。ブント結成のリーダーは守田典彦さんで、1951年、単独講和反対闘争で九大を放校、除籍処分になり、それ以後共産党の活動に専従をしてきた人です。彼の指導が決定的でした。年長の者は、共産党ないしそのシンパですから共産党、そのシンパから離脱をして、57年以後に現役で入学した私とか篠原浩一郎君とかは、初めから共産党のみならずソ連にも批判的であり、違った経路でブントに参加しました。
 九大・福岡のブント組織は、大会を開くなどのはっきりした形をとってではなしに、さみだれ的に結成されました。ブントは学連新党とも言われたように、全国的に学生同盟員がほとんどで、それに共産党から脱党した幾つかの地区や労働者組織が加わった程度でしたが、福岡ブントは、守田さん、それに彼と同じような経歴の大坪康雄さんという共産党の常任的活動家だった二人以外は、すべて学生同盟員で労働者同盟員は一人もいませんでした。
 次に進みます。さて、安保改定反対運動ですが、59年5月15日に全学連の統一行動があって、九学連の集会に 1300名が集まった。安保反対闘争はこのときから60年6月にかけて1年ちょっと続いていきます。
 59年6月に全学連の第14回大会があって、ブントが執行部を握りました。いろんな意味でマスコミにも騒がれることになる唐牛健太郎(北大)が委員長、そして清水丈夫(東大経済)が書記長。清水丈夫は後に中核派のトップリーダーになります。これで路線転換が明確になります。
 同じ6月に九学連も第16回大会で路線を転換します。この当時、60年にかけて、福岡の4つの大学の各自治会はすべてブント系でした。九大の各自治会だけではなく西南学院大学、福岡学芸大学もブント系でしたし、福岡女子大学ははっきりした色はつかないんですが、やはりブントに同調する活動家が指導的立場にありました。
 そのほかに全九州的に言うと、佐賀大学もブント系でした。ただし、ここでは共産党も結構強かった。長崎大もブント系。宮崎大も大体ブント系ですが、共産党もかなりいた。熊本大学、熊本女子大、鹿児島大学は革共同系でした。大分大学も革共同系、それにちょっとブントが対抗するという形でした。九州全体としてブントが主流派で多数を占め、革共同が反主流派で、少数という勢力分布。両方ともに日本共産党にもソ連にも批判的立場ですから、そういう意味では共通性が大きかったことになります。
 その九学連の大会で、私、大藪が委員長になって、副委員長は西南学院大学の庄嶋厚生君と九大の教育学部の1学年下にいた原野利彦君、書記長が法学部の梯武寛君、そのほかに全学連中執として篠原浩一郎君(九大経済学部)です。篠原浩一郎君は、その後社学同の委員長に就任をして中央で活躍をすることになります。その後を受けて、二宮章一君が全学連中執を務めました。二宮君は、私と同期、法学部でしたが、ずっと教養部に張りついてというか、留年を重ねて、自治会運動はいつも教養部が主力部隊ですから、九大での安保闘争に大きな役割を果たしました。
 そういうメンバーで九学連書記局を構成していました。旧法文ビル、私らはそこで学生生活を送りましたが、あの地階に九学連書記局の部屋がありました。
 6月25日、教養部自治会が単独講和反対でスト以来8年ぶりに1日ストを決行。九学連の集会で 2500人。これ以降、安保改定阻止国民会議あるいは全学連の統一行動を担っての闘争を次々に展開しました。
 闘争の日程は、ストライキあるいは半日や全日の授業放棄、学内集会、そして警固公園を会場にして九学連、福岡市内大学の統一集会、デモ行進、というものでした。教養部自治会は六本松からデモ行進しながら警固公園に来ましたが、九大本学や他大学は貸し切りバス、あるいは電車で会場へ。九学連のデモ行進は、天神から中洲を通って呉服町、旧大丸前までか、さらに延長して旧博多駅前までというのが決まったコースでした。2000名もがジグザグを含めてデモ行進すると、市内電車やバスが数珠つなぎでずっととまってしまう。そういうことはあったけれども、大体プラカードを掲げ、シュプレッヒコールしながらの行進で、平和的なデモストレーションでした。警官隊にむかって石を投げたこともないし、何か武器を持ってとかいうのは全くありませんでした。学生自治会を基礎にした大衆的学生運動スタイルで、闘争形態も大衆的だった。だからこそ、数千名も集まったと思うし、何千名も集まっているから警察は規制できないというようなことだった。
 大衆的運動スタイルについて付け加えると、私自身が入学時には思ってもいなかった学生活動家になっていったきっかけは、当時は共産党系活動家達の自治会引き回しに反撥して、もっとまともな自治会活動をやろうということがありました。また、58年に初めて全学連の中央委員会に出席した時、香山健一委員長以下錚々たる全学連中央執行委員には何年も留年して指導部を占め続けている人が少なくないことに違和感を覚えました。そういうことで、政治的党派による大衆組織の引き回しをしてはならない、学生運動のリーダーであっても一般学生から浮き上がった存在であってはならない、という気持ちをずっと持っていました。しかし、個人的な心がけとしてはそうであっても、政治的党派と大衆組織、あるいは革命運動と大衆運動の区別と関連はすごく難しい問題で、「労働者階級の同盟軍」として闘うという学生運動論をとっていたわけですが、実際には自分(達)もやはり同じような偏向、誤りを繰り返したのではないかとの反省があります。
 さて、10月30日の九学連の集会は1200人でしたが、11月27日の安保改定阻止国民会議の国会請願デモで3万人が結集し全学連などが国会構内に突入する大闘争があり、世間を騒然とさせます。全学連といっても、共産党系が主に東京都下の大学でかなりの勢力をもち全自連として結集し、これが反主流派として存在しているので、全学連主流派ということになりますが、全学連の闘争がこのころから激化していく。国民会議の運動から突出した闘争を展開して、はね上がりとか、極左だという批判を強くあびていくことになります。この日の九学連の集会では、2500名の参加でした。
 60年になって1月16日に全学連が岸首相渡米阻止の羽田闘争、羽田空港を占拠して、岸首相の渡米を阻止するという闘争に取り組みます。九学連も20名ほど参加しました。その羽田闘争に関連して、1月21日に九学連事件が起きました。21日の早朝に法文ビルの地階にあった九学連書記局を福岡県警が捜索をして書類を押収する。その中には法学部自治会の安保反対の署名簿も含まれていました。それで書類を持ち出させないということで捜査官を本部の学長室に閉じ込めた。捜索に抗議して学生 400人ほどが集まってきて、本部建物の廊下に座り込む。学生部長なども交えて捜査官と押し問答、交渉を終日続けた。夜になって、県警の機動隊が大学正門前に出動して、夜半過ぎに、正門は閉じてありましたので、正門横の塀を踏み破って乱入した。そして、ピケを張っていたけれどもピケを破り、本部建物に座り込んでいる学生を全部ゴボウ抜きにして、捜索官を連れ出し押収書類を持ち去った。九大本学に初めて機動隊が乱入した事件です。
 4月26日、九学連集会 2500名。5月19日に国会で安保改定が強行採決され、これを機に安保闘争は、ますます高揚していきます。安保粉砕、そして岸内閣打倒、国会即時解散の運動が強まっていく。5月26日は九学連の集会2000人。6月4日には工学部本館前で教員、職組、学生の九大全学集会に1500人という形で、学内的にも運動は広がり共闘が形成されていきました。この日はその後、福岡県の共闘会議の県民大会に合流しましたが、九学連は3000名。闘争が高揚する過程で、九大看護学校からもまとまって参加するようになっており、高校生の参加者も目につくようになりました。
 山場が6月15日の国民会議の統一行動で、九学連は2500名の集会でしたが、東京では全学連1万人が国会構内に突入、機動隊と衝突して、東大の女子学生樺美智子さんが死亡し、重軽傷者5〜600人がでます。そのニュースを知って、この日の深夜、田島寮生 350人など 500人が急遽県警に抗議デモをかけました。明けて16日、九大教養部自治会が3日間のストライキを決める。各自治会、大学もストライキで、県警本部前の九学連の抗議集会はかつてない人数7000名が、自治会旗や腕に喪章をつけて結集し、広場と道路を埋めつくしました。翌17日は5000名、18日も5000名というように、大衆運動としては空前の大規模な展開になりました。
 しかし、国会では改定安保条約が自然成立し、22日に国民会議の統一行動があって、九学連3000名の集会という形で安保闘争は終了していきました。
 なお、全学連主流派は全国学生自治会の多数派だったが、そのなかで九学連は東京都学連と北海道学連とともに三つの拠点の一つでした。
 この時期安保闘争と平行して、福教組の勤務評定反対闘争、それから炭労の三池闘争の支援にも取り組みました。
 総評の最盛期で、国労、日教組、炭労など戦闘的な労働組合運動が展開されていました。安保反対闘争では、九学連は福岡県共闘会議、福岡地区共闘会議の幹事団体の一つで、共産党と運動の進め方、闘争戦術をめぐってしばしば激しく対立しましたが、社会党や労働組合との関係は良好で、特に勤評反対を戦闘的に戦う福教祖とは友好的でした。九学連が警固公園を会場にして行う福岡地区の学生集会には、いつも福教組の宣伝カーを運転手さんつきで貸してもらっていましたし、福教組の集会に闘争支援で参加したりしました。特に、多分59年秋頃と思うけれど、福教組がおこなった県下一斉の各地方教育委員会との交渉では、活動家30名ほどがそれぞれに各地に行き記録員として加わって協力しました。
 三池闘争では、九学連として支援のために活動家が集団で数回大牟田・荒尾に赴き、炭住への泊まり込みもおこないました。大詰めの60年7月三川鉱ホッパー決選時には、予定されていた九学連大会を急遽延期し大会会場から約100人が現地に駆けつけて、全国動員の全学連部隊の一翼を担いました。
 最後に、安保闘争の収束とともにブントは分裂して、ほどなく崩壊に向かいますが、九大と福岡のブント、それに九学連も60年の春ごろからブント中央、全学連指導部に対して批判的姿勢を固めてきておりました。60年9月に九学連の第18回大会を行いましたが、そこでは全学連中央批判を明確に打ち出しました。どういう点を批判したかというと、安保闘争を激烈に闘う、その延長線上に日本の革命があるかのように想定するのは主観主義であって、日本の資本主義が復興を遂げ帝国主義的に発展しようとする現段階にあっては革命は現実の課題たりえないこと。それから、戦術極左的に決戦を追い求めていく、これは長期にわたらざるをえない困難な革命党の建設を没却した一揆主義的な傾向だということです。そして、いかに大闘争であろうと一つの闘争にすぎない安保反対闘争の敗北とともに組織が分解してしまうような、ブントの大衆運動主義を批判するということでした。  
 福岡ブントは分裂後のブントでは戦旗派という一つの派に属したのですが、やはり先ほど触れました守田さんの提唱で戦旗派の内部に革命的戦旗派がつくられて、59年12月に革共同が分裂して結成され黒田寛一さんが率いる革共同全国委員会に移行するということになり、福岡ブントはその先陣を切ってほとんどが革共同全国委員会に移りました。61年には、私は既に卒業しておりましたが、革共同全国委員会、その学生活動家組織マルク主義学生同盟が全学連の主導権を握り、反帝国主義・反スターリン主義(反帝・反スタ)の路線をとっていくことになります。九学連も同じ路線に転換します。
 時間をオーバーしてしまいましたが、以上です。