「三島淑臣さんのこと」
 三島淑臣先生追悼文集刊行委員会『三島淑臣先生先生追悼文集』、2015年12月


 三島さんの経歴を見ると、1961年に九州大学法学部に助手として着任され、63年に助教授に昇任されている。私は61年九大法学部を卒業し大学院修士課程に籍を置いたが、新左翼勃興の時期にあって、反帝国主義・反スターリン主義を掲げて社会党、共産党に代わる革命党の創建へ、無給の常任的活動家として労働者の組織化に懸命であり、大学に来ることも稀だったから、三島さんのことを知ることもなかった。
 三島さんと知り合いになったのは、私が60年代末に党派から離れ大学院博士課程に復学した後、70年代に九大、福岡大学など、近隣の大学の政治思想、法思想の研究者が集まって定期的に開かれていた思想史研究会に参加するようになってからだった。
 加えて、大学闘争において大きな反響を捲き起こした滝沢克己先生の人間の原点を問う哲学に、三島さんは強く共鳴され影響を受けられたようだが、偶々私も滝沢門下の人などと滝沢克己の学問を学ぶ自主的な研究会を1年程おこなった。それもあって、なんとなしに近づきになっていった。
 思想史研究会で三島さんは中心的存在で、発言はシャープであった。そして、研究会を終え会場を移して一杯飲みながらの談論を三島さんはいかにも楽しんでいた。但し、二次会では終らない。全体は解散した後、今度は数名で天神あたりの屋台に移って続行、三次会、時には四次会の酒.と談論のはしごで、午前様だった。
 当時は思いもしなかったが、若い時代の飲みすぎが老後には健康を損なう一因となったのではなかろうか。三島さんの葬儀に参列して送られてきた礼状には、晩年の三島さんは病気のデパートだったと奥さんが書き添えられていた。
 三島さんは研究・教育に順調な道を歩まれていたが、私の方は博士課程を単位取得退学後、進路について思い悩んだ末、新左翼の実践運動での挫折を理論研究面で乗り越える道を追求しようと決め、永年の定説であるエンゲルス『家族、私有財産及び国家の起源』の国家論の根本難点を批判してこれに代わる国家論の創造に挑戦することを課題として定めた。しかし、学生時代から身近のマルクス主義者の教授達の、極言すればインチキ性をいやというほど見聞してきたし、大学院も講座制からはみだして指導教官無しで過ごした私は、できるなら在野で通したい気概だった。大学闘争でも上昇拒否が言われていた。
 78年に私は『マルクス、エンゲルスの国家論』を上梓した。そのなかの「『資本論』における国家と法」では、マルクスがRechtとGesetzを厳密に区別し連関づけ使い分けている―邦訳では見失われすべて法律とされている―ことを明らかにした。これについて、三島さんからは、それだけでもこの著書の意義があるとの評価をしてもらった。
 浪人生活での頑張りが限界にきた私は、処女作の公刊を機に大学教員の職探しを始めた。長崎大学、北九州大学、下関市立大学、広島大学等の公募に応じたが、毎年不採用であった。84年に富山大学教養部で公募があった。この時には、学生運動に明け暮れた学部時代から散々お世話になってきた具島兼三郎名誉教授はもとより、教養部徳本正彦教授、それに三島さんからも、それぞれに応援の推薦状が寄せられた。幸いにも採用となった。
 赴任直前富山大学へ挨拶に伺う際、前任の政治学担当教員で九大の後輩の田中節男さんが三島さんを敬愛していたからであろう、三島さんを招いたので、二人一緒に富山行きをした。深雪の白銀の世界に埋もれた宇奈月温泉で歓待を受けたことを、有難く記憶している。
 富山大学に勤務するようになってからは、香住ケ丘のお宅に招かれた―確か創言社の村上さんと一緒だった―こと、法理学の研究会でパシュカーニス法理論について発表させてもらったこと、京都での法哲学関係の研究会を紹介されて一度だけ顔を出したこと等が、思い出として残っている。
 その後、三島さんは『法の理論』編集者として、また法哲学会理事長として活躍されたから、多忙な時期を送られたと思う。私もソ連「社会主義」や俗流マルクス主義を厳しく批判してきた研究との関係で、90年代にいわば出番が来て著作活動に追われるとともに東京に出ることが多くなり、議論を交わす機会は持てなくなった。
 それでも、90年代後半に三島さんは九大を退職され、私は福岡教育大学に移ったので、思想史研究会で同席する機会が数度あった。寄る年波で、研究会後は二次会までになっていた。
 三島さんは柔らかな人当たり、ウイットに富む語りで、問題の根源に遡っての深い思索を説かれた。大学闘争の際にも、「立ちつくす思想」(田川健三)にたいし”寝ころぶ思想“と表現されるような、ただの人としての平常的な、しかし軸心のある営みを薦められた。
 また、京都大学法哲学恒藤恭、加藤新平のアカデミズムの優れた伝統を受け継がれ、『法思想史』や『理性法の成立―カント哲学とその周辺』の業績を残された。大学闘争とのかかわりで見ると、学究への研鑽と大学イスタブリシュメントに対する批判のバランスをとって、大学アカデミズムの境域で教員生活を過ごされたのではなかろうか。
 私とも親しく交際してもらったが、私は反大学を旨としてイスタブリシュメントの解体に努めながらも、大学アカデミズムの学問的達成を学びとった別種のアカデミズムを求め、大学教員のなによりの存在意義を学問研究に置いてきた。ここら辺りに、二人の接点があったのではないかと思う。