西日本新聞記事「内ゲバが招いた自滅」「元職業革命家大藪龍介さん」について


 西日本新聞19年5月28日号から6月3日号にかけて「『私』事典 全共闘ダイアリー」と題する特集l記事が6回シリーズで連載され、その3で、「内ゲバが招いた自滅」の大見出し、「元職業革命家大藪龍介さん」の小見出しで、私大藪に関する記事が載った。私見を明らかにしたい。
 (1)取材を受けた経過
 3月初めに取材の申し込みがあり、4回ほどにわたってかなり長時間の取材に応じた。連載の2で取り上げられた68年闘争時の三派系全学連委員長秋山勝行さんも取材中とのことだったが、どのような企画を立てているかについては不明だった。
 取材にたいしては、60年安保闘争など学生運動、60年代の新左翼党派運動の経験にもまして、新左翼運動の実践的破綻を乗り越えようと70年代に取り組み始めた理論研究活動についてもっぱら話をした。
 しかし、私が打ち込んできた「マルクス主義理論のパラダイム転換を目指して」のマルクス主義の定説・通説の批判的克服の理論活動は、記者にとって理解が甚だ難しかっただろう。まして新聞の読者にはまったく通じない問題である。
 確か3回目の取材の際、『新左翼運動40年の光と影』収載の拙論文を紹介し内ゲバ批判にも触れると、記者の関心は強く、図書館に所蔵されている本を借り出して読むとのことだった。
 こうしたことから、マルクス主義の理論的革命の追求の問題ははずして、内ゲバという世間の注目をひく問題に焦点をあてる記事にしたのではないかと思われる。
 記事に関する事前の知らせは全くなかったし、当日の新聞を見てあれっという感じだった。
 (2)記事内容について
 「内ゲバが招いた自滅」の見出しでの論旨はそのとおりだし、私の見方とも合致する。だが、記事の内容には、取材される側と取材する側の思惑のずれは避けられないし、やむをえないとしても、批判する点がある。
 なによりも、最後部にある「資本主義社会は盤石。現実的には革命は起きない」との言である。これは、私の発言ではないし、長年表明してきた主張と違背する。 
 この言に、即座に知人の一人から大藪の発言なのか、記者の編集なのかとの質問がきた。勿論、記事作成者の編集である。
 私の見解は、記者にも手渡した「歴史の激変のなか、ささやかな異端として」(中部大学総合学雑誌『アリーナ』2016年)でも述べているように、「資本主義体制は、今後なお、したたかな生命力を発揮し新たな変化を重ねていくだろう。だが、これまでそうであったように、諸々のひずみや弊害を一段と深刻化して繰り返しもたらし、人々の解放と変革への志向と闘いを生み出さずにはおかない」。それと同時に、1917年ロシア革命型は歴史的に破産し、新しい社会主義の構想は未だ混迷している。長期の展望をもって19〜20世紀の世界で展開されたそれを一新した社会主義思想・運動を創出して行かなければならない。これが基本的立場である。
 次に、導入部の「対立セクトのメンバーを知る先輩が間に入り説得し、襲撃は免れた」の記述である。九大の教官から研究室にきた活動家が大藪をやっつけると言っていたとの情報を知らされたことはあった。しかし、記事は私自身初めて耳にした話だった。そんなことがあったとは思えず、なによりも具体的事実を確かめる必要を感じた。
 その他に、「元職業革命家」という肩書は不適である。1958〜60年の福岡の共産主義者同盟では、51年単独講和反対闘争で九大放校となった先輩が指導していて「職業革命家」は一種のはやり言葉だった。けれども、60年代に新党派建設に従事した私は、ボリシェヴィキ的な職業革命家(集団)に批判的であったし、「職業革命家を名乗」ったことはない。無給の常任活動家だった。
 拙宅(12階)についての「タワーマンションの一室」も引っ掛かる。3年前に70年代以降家族で過ごした自宅地を売却し、最晩年をマンションで送ることにした。転居したマンションは20階建てであるが、人工島や千早に40階の高層マンションが並び20階建マンションが続々新築されている現況である。字数の限られている記事で住居をあえて取りあげるのは、どういう意味だろう。不審に思った。
 半世紀を隔てて、全共闘運動の歴史的な位置を振り返る企画を組み、私に関する記事では内ゲバ批判を主題にしたのは、取材したチームや記者の健全な良識の表明として評価できる。しかしながら、私に関する記事の限り、事実に反するところがあり、取材したなかの一部だけを切り取って、連載シリーズの構図にはめこんでいるのではないか。記事を読んで、このように受けとめた。
 (3)記事の訂正
 直ぐに、記事が示す健全な良識を認めることを伝えつつ、上述した事柄のうち、@「資本主義社会は盤石。現実的には革命は起きない」、A「対立セクトのメンバーを知る先輩が間に入り説得し、襲撃は免れた」の二点に絞り、記者に異議を申し立てて、メール・電話で話し合いを重ねた。
 @に関して、私自身はこの発言をしておらず、事実に反する。東南アジア・アフリカ・南アメリカの広大な開発途上地帯の存在を挙げて、資本義体制は世界的な発展の余地を残していると話したことがあったが、それは、世界資本主義が今後更なる変化を重ねながらしたたかに生き延びていくだろうと見通して革命の構想を新考する必要を示すのであり、これを@のようにまとめるのは記者の編集にすぎないと抗議して、修正を求めた。
 Aに関して、出所を尋ねると、他の人への取材中に話を聞き、その又聞きを話を流したとされる本人に確かめることをせず、裏づけのないまま記事にしたものであった。「先輩」というのも誤認であった。記事にしたのは軽はずみだと批判し、削除できないか訴えた。記事については、大藪は「先輩」の力を使って襲撃を免れた―ある種の身勝手―とも読めるとの、別の知人の批評も伝えられてきた。
 やりとりのなかで、記事内容は数回書き直しをして変転したことが明らかになり、記者個人よりもデスク以下取材チームとしての意向で記事内容が最終決定にいたったことが浮かびでてきた。企画の連載シリーズのなかでその3の主題として内ゲバが振り分けたうえで、革命の夢を追って理論的挑戦を続けているとするよりも、革命は諦念し「高層マンション」で生活を楽しんでいるととれる、通俗的なストーリー優先の記事にしたようである。
 記者の話を聞いていると、まずストーリー、次いでエピソードが記事作成のキーワードのようで、上のストーリーに先輩の説得での襲撃免れと「高層マンション」のエピソードを絡ませる記事にしたことになるだろう。
 話し合いの結果、修正に応じるとの返事が得られ、最終的には担当デスクからの連絡があった。弥縫策であるにしても、これ以上の修正はできないだろうと判断して了承した。
 まず西日本新聞のネット版で、次のように修正された。
最後部の「『資本主義社会は盤石。現実的には革命はもう起きない』」
  →→→「『今は資本主義社会は安定しており、現実的には革命は起きない』」
導入部にある「先輩が間に入り、襲撃は免れた」
  →→→「先輩が間に入り説得したという話もあった。大藪さんは襲撃を免れた。」
 続いて、図書館などに保存され後世の資料となるデータベース西日本新聞では、最後に〔訂正〕として修正・加筆部分が書き加えられた。
 それにしても、後味の悪い出来事だった。
 (4)内ゲバについて
 根拠のない噂話が流れ、それが新聞記事とされる一般的な背景に、内ゲバについての認識不足が存在すると思う。この機会に私が掴んでいる限りでの労働戦線での内ゲバの実態について記し、内ゲバを絶対に許さない力が広がり強まっていくことを願う。
 まずは、歴史的な変遷過程、および学生運動のなかでの内ゲバと労働者、党派指導者を狙ったそれとの性格の一定の相違を押さえることが必要だろう。
 60年代の学生運動のなかで新左翼諸党派間での内ゲバが始まり、拡大、激化して60年代末には集団的衝突のなかで死者を出すにいたったが、労働者に対する内ゲバ(殺人)は、74年頃が初めてであった。翌年頃から党派指導者、労働者への殺戮ゲバが一気に広がった。同時に、学生戦線でも他党派活動家を狙い撃ちする殺戮攻撃になった。この頃までには、中核,革マル、社青同解放派などはそれぞれに内ゲバのための特別編成部隊を組織している。
 こうした全般的状況を押さえておいて、福岡・九州での内ゲバに触れる。
 既に私は党派を離れていたが、九大のブント(共産主義者同盟)から革マル派へ移った仲間のうちの二人が内ゲバ襲撃に遭った。1人は九大入学以来の私の一番の親友で、重傷を負い、勤務先からも解雇されて、妻子を抱えて生活するのに本当に大変な苦労を重ねてきた。いま1人は、九大工学部出身のもの静かな後輩で、通勤途上で襲われて命を落とした。彼は九大看護学校を出た女性と所帯をもっていたはず。
 九州における労働者に対する内ゲバは、75年に起きた鹿児島での高校教師4名が襲撃されて1名死亡、2名重傷のそれが最大だった。
 労働者や地方指導者への殺戮攻撃をおこなうにあたり、一挙に3,4名の大きな「戦果」をあげることができると踏んで、鹿高教組グループを標的にしたのであろう。福岡・九州では63年に革マル派と中核派に分裂した際ほとんどは革マル派に属し、中核派はなによりも九大学生運動での基盤建設を主力にしていたと思われるし、鹿児島大学の学生運動は革マル派が独占状態、中核派はゼロだった実状からして、中央指導部が下した決定を特別編成部隊の人員が核になって実行したと推測される。
 福岡・九州の革マル派の指導者として私ともう一人の常任活動家、それに学生戦線で指導にあたっていた2人がいたが、この4人とも内ゲバ襲撃に遭わなかった。組織から離れていた私も危ないので身を隠した方がよいとの忠告を一緒に活動していた労働者から受けたのは、多分74年頃だっただろう。この時には、福岡の指導的メンバーや労働者は揃って内ゲバ襲撃への防御態勢をとり、私もそれに応じたことになる。
 大きな犠牲を出した鹿高教組グループへの内ゲバによって、私を含め、福岡・九州の地方指導者は内ゲバ襲撃を免れたとも言える。
 学生運動場面での他党派の暴力的排撃にとどまらない、党中央ないし地方の指導部の指令で他党派の指導者や労働者を計画的に襲撃(殺戮)する内ゲバになると、その党派の革命路線とも密接に連動しており、外部からの働きかけで左右されるものでないことは、『新左翼運動40年の光と影』の拙論文の「三 内ゲバ殺人の狂態をめぐって」において述べているとおりである。(この論文のなかでの内ゲバ批判は、革マル派中央指導部から集中的な攻撃をうけた。)なお、革マル派の最大の拠点であった国鉄動労の指導者たちが内ゲバ反対の声をあげていたのは、私にも伝わっていた。
 内ゲバ(殺戮)の実態は依然として深い闇のなかである。その真相に迫るには、指嗾し指示した党派指導者たち、実行した活動家たちの反省、告発が欠かせないし、その呼びかけを続けたい。