九大ファントム墜落50周年記念集会に関して
― 九大フリーメールへの投稿 ―


(1)17年5月31日プレ集会を前に

論文執筆に追われているなか、3月に単身で辺野古新基地反対運動に参加してきました。思ったことが幾つもありましたが、ファントム記念集会に関しての二つの提案を記します。

@海辺のテント小屋で、68年に在日米軍再編として普天間基地縮小の動きがあったが、本土での基地反対運動の高まり、具体的事例として九大でのファントム墜落にたいする闘争、があり、かえって沖縄に基地を集中する方向になったとの説明がありました。推測していた通り、板付から撤退した米軍が沖縄へ移動したのは間違いないようです。であれば、ファントム反対闘争も、結果としては、沖縄に過度な基地負担を強いて本土の人達は安心を得るという構造に収束したことになります。この点で、当時の闘争を振り返り必要な反省を明らかにすることです。

A辺野古基地反対運動は、自民党、経済界のリベラル派から左翼諸党派までの団体・個人が「オール沖縄会議」として総結集して取り組まれています。それぞれが自分にできることを精一杯おこなって力を合わせる方式で、統一戦線というより連合戦線の感じを受けました。今後のおそらく一層厳しくなる国際・国内情勢を考えると、そうした運動の在り方が広く求められるでしょう。顧みると60〜70年代は、九大の学生運動を含め、新旧の左翼諸党派間の激しい分裂抗争時代でした。その歴史から脱するのは容易ではありません。ファントム墜落40周年記念集会も分裂でした。今度の記念集会は一つにまとまって開くのが望ましいと思います。実現には多大な困難があるでしょうが、少なくとも呼びかけ、交渉に努めるべきではないかということです。

(2)18年6月2日記念集会に参加して

昨年のプレ集会以来、次のようなことを提起してきました。九大でのファントム墜落に対する闘争の高揚は、板付からの米軍の撤退の成果をえた。だが意図に反して、沖縄への米軍基地の集中をもたらし、結果的には、日本を覆っている沖縄に過度の基地負担を強いて本土の人々は安心を得るという構造に収束した。この点で当時の闘争を振り返り必要な反省を明らかにすべきではないか。

今集会で、板付からの米軍撤去によって問題解決と目する大学当局などとは別個の立場にある反戦派としての論議が僅かだったのは、残念です。

集会最後のリレートークで、板付からの移転を含め過重な基地負担を背負わされ苦しんでいる沖縄の人達へのお詫びの気持ち、普天間基地撤去・辺野古新基地建設反対の意志を表明すべしと、私はただ一言しました。時間の制限でそれ以上続けることはできませんでした。この場で、当時の闘争のどういうところに陥穽があったか、大雑把に私見を述べてみます。

大きく2点に絞ります。

@基地の全面撤去を掲げていたけれども、戦後日本の発展の礎となっている日米同盟の主柱である軍事同盟について、別言すると日本国憲法(体制)さえも形骸化する日米安保条約(体制)について、厳しい現実の認識の乏しさがあった。特徴的に、対米従属を重視する日本共産党に対し、反日共系諸勢力は日本帝国主義の自立を強調する傾向にあった。この日米安保体制問題に関しては、白井聡『国体論―菊と星条旗』が注目を集めているし、『あの日、あの時、この時代』の二宮孝富「ファントム墜落から五十年〜従属国家・安保国体の克服に向けて〜」が取り上げている。

A社会主義や革命への幻想に囚われていた。世界的な68年革命と連なる日本の68年闘争の固有性の分析にかかわるが、旧左翼には依然としてソ連「社会主義」への期待、新左翼には革命遠からずのムードが有力であった。毛沢東主義への傾倒も一潮流であった。不可分的に、日本の安全保障の課題に左翼が真剣に向き合った独自の政策は空無に近かった。

かくして、Aと@が表裏で結びつき、基地全面撤去の大原則を叫ぶ戦術的に激しい闘争はあっても、戦略的に運動はすでに空洞化していたのではないだろうか。

それから50年、ソ連崩壊など世界の歴史は大変動し、日本の左翼は社会党の消滅、社会民主党の衰滅の危機に象徴されるように凋落しました。左右の勢力関係は激変し、現在は安倍政権の逆革命に対して左翼は懸命の抵抗に追い込まれています。

焦点となっている沖縄の基地問題についても、従前どおりの基地撤去の原則復唱にとどまっていては、反対運動の閉塞は避けられません。新しい問題の立て方、運動の組織化が求められています。

以上、集会全体の補足になれば幸いです。