![]() |
津田道夫さんを偲ぶ会『津田道夫追悼文集』、2015年10月 |
津田さんは私の敬愛する先達であった。 津田さんは若くして『国家と革命の理論』(1961年)、『国家論の復権』(1967年)などで、旧来のレーニン(主義)的定説を批判し、マルクス主義の新たなる理論展開の先陣を切られた。国家論・革命論において活躍する先駆者として津田さんの名を私は知った。 他面、津田さんのデビュー作『現代のトロツキズム』(1960年)のトロツキズム批判は旧左翼の党派主義的公式の襲用の感があり、これには強い批判を抱いた。 当時の私は60年安保全学連の九州地方リーダーを務め、九大卒業後は新左翼の革命政党の創建を目指し常任的活動家として福岡の地で苦闘していた。政治的には津田さんとも対立する立場であった。そして、津田さんの諸著作に関しては、国家論では問題喚起的な理論性を備え慎重な検討に値するが、ソ連やコミンテルンに関する歴史評論では旧いスターリン主義を引き摺っている、という両面性を見ていた。 その後、私は新左翼党派運動から離れ、九大大学院を終えて、1970年代に、20世紀マルクス主義の定説エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』を批判し、マルクスがなすべくしてなしえなかった国家の本質論的解剖を自らの課題として理論研究に踏み出した。そのなかで、津田国家論の批判的克服をも課題の一環としながら、津田さんに交流をお願いした。 津田さんたちが『現状分析』を刊行されていたので、第57号(1973年12月)に「唯物史観としての国家観の形成」を載せてもらった。この稿は、後に『マルクス、エンゲルスの国家論』(1978年)に収録した。 また、津田国家論について、『近代国家の起源と構造』(1984年)の補説のなかで、批判を要説した。 70年代の何年だったか憶えていないが、久喜市の津田さん宅へ伺った。理論上の議論もあるが、在野での左翼的評論活動で生活していけているだろうか知りたかった。津田さんご夫婦は親しみやすい人柄で、質素な暮らしぶりであった。津田さんが何冊もの著作を多産していてもそれでは食えないでいる、働いている奥さんが生活を支えているようだ、ということがわかった。 これを判断の重要な材料として、私は、津田さんさえそうなのだから、連れ合いが働いて生活を支えている点では同じだが、何よりも自らの能力の限界、それと子供3人の他、父親の戦死後一人っ子の私を苦労して育てた母親もいる家庭環境では、在野で通すのはとても不可能だという結論を下すことになった。終生連れ合いの収入に依存して暮らすのはいびつだとも考えた。 78年から私は大学教員の職探しを始めた。講座制からはみだし指導教官も持たず、日本の左翼では異端視されてきたニューマルクス主義を表明しているので、職を得るには長年を要したが、84年に45歳で幸いにも富山大学に採用された。本意を曲げて大学教員になったので、在野で頑張って理論研究や社会活動をつらぬく津田さんは私にとって尊敬に値する存在であった。その気持ちを少しでもと、在職中は富山名産の海産物をお歳暮として送り続けた。 津田さんは1970年代に障害者の教育権の問題に取り組んで運動を始められたようである。人権を掲げて闘うのはオールドマルクス主義者としては異例の感があるが、津田さんの生き生きとした歴史感覚の発露であり、いたく感心してきた。新しい社会運動の一つとしての障害者の教育権を実現する会での指導的活動ぶりはさすがだったし、津田さんについての印象を一新したのは私だけではないだろう。 1989−92年に、ソ連・東欧の革命で「社会主義」体制が崩壊する世界史的大事件が起きた。社会主義の破産の原因究明や社会主義の新構想をめぐって、マルクス主義者は特に根本的な考察を迫られた。この件では、議論沸騰する社会主義理論学会で津田さんと数回同席した。フォーラム90‘Sにも共に加わったが、別個の分科会に属して活動した。 私の方が10歳ほど若輩であるが、津田さんとはうまがあうというか、お互いに言いたいことをズバリ言い合える仲だった。 1995年、私は福岡教育大学に移り、単身赴任を終え福岡市の自宅に帰った。 福岡教育大学では、全学で1年に1回、部・科の持ち回りで外部から講師を招いての講演会が行われていた。96年に第1部社会科に順番が回ってきたチャンスに手をあげ、津田さんを講師とすることができた。 協力してくれる教員もいて、大教室に一杯の学生たちに講義してもらったのだが、大衆的に解りやすく話をするのはお手の物のようで、津田さんの講話は、教育系学生にはぴったりの内容のうえ、大学教員も及ばないほどとても上手だった。大学行事の講演会であり津田さんの講師としてのランク付けは高かったから、それ相応の謝礼が払われたと思う。 津田さんは一人旅は難しいと聞いていた。新幹線博多駅ホームで迎え、宿泊される大学官舎へ案内した。講演が終わってから佐賀地方の弥生時代の遺跡、吉野ヶ里へ回りたい意向を漏らされたが、私が同行できなかったので諦めてもらい、博多駅ホームまで送った。 余談になるが、多分家庭では奥さんに頼りっぱなしの生活だったのではなかろうか。それで、昨年末奥さんが亡くなられたとの報に接して、これは津田さんも危ないなあと思っていたら、後を追うように他界された。強すぎるほどの絆で結ばれあったご夫婦だったことになる。ただ、主夫の一時期もあったし、あらゆる面で自分のことは自分でして家事労働は分担する夫婦関係で過ごしてきて、現在は一人暮らしを楽しんでいる私からすると、津田さんは戦前派の日本男性だったかなとも思ったりする。 津田さんのマルクス主義を核とした揺るぎない思想的信念、それに基づく旺盛な著作活動と精力的な社会活動は、見事だった。 マルクス主義理論に少し立ち入ると、レーニン主義、スターリン主義に主導された20世紀マルクス主義の内部変革を追求しマルクス、エンゲルスの原典に立ち返ることでは、同じであった。そのなかで、津田さんはエンゲルス理論を高く評価され擁護の論陣も張られた。私の方はマルクスとエンゲルスとの一体視を排したうえでエンゲルス理論はマルクス主義理論の俗流化の基となったと批判する。対照的な相違が存したが、お互いの理論的独自性を認めたうえで、津田さんの論に所在する積極的な点を掴み取ろうと私は努めてきた。いずれにせよ、マルクス主義の古典が人間解放の基礎理論の一つとして受け継がれていくことを望みつつ、マルクス、エンゲルスの理論の受けとめ・解釈の多様な分岐をめぐっては後世に評価をゆだねるほかない。 |