「追悼 山口勇君」
 『季報 唯物論研究』 季報『唯物論研究』刊行会 第93号、2005年8月


 追悼 山口勇君

 山口君とは、大学生時代から永い間にわたって友人として付き合いました。その交友は、新左翼運動とのかかわりが機軸になっており、いささか特殊なものでした。

 ともに1957年に九州大学に入学しています。彼は佐世保出身で経済学部、私は柳川近郊出身で法学部でしたが、自治会活動のなかで知り合いました。折りしも全学連運動が、平和運動、警職法反対闘争を通じて次第に再興起し、60年安保反対闘争において大高揚して脚光を浴びた時期でした。
 安保反対闘争で赤いカミナリ族などと呼ばれ、左右の既成制度に挑戦した全学連の活躍は、1956年のスターリン批判、ハンガリーなど東欧諸国での革命的反乱の衝撃を機にした、スターリン主義のソ連や共産党を批判する新左翼運動の勃興と一体的でした。1学年上までの左翼の先輩たちは、共産党を通過していましたが、私たちは、最初からソ連や共産党を否定してマルクス主義者として自己形成し、新たな潮流をかたちづくっていきました。

 福岡での安保反対の学生運動は、かつてない大規模な大衆運動として高揚し、活動家層も厚く、党派的には新左翼一色でした。闘争の最先頭に立ったのは私たち同学年生でしたが、そのなかで山口君は、社研などサークルの活動を中心にしていて、理論的によく勉強しているのが持ち味でした。一時期、やがて60年代末には大変高名になられる九大文学部の滝沢克己さん、また哲学者の藤本進治さんの理論に注目して交流していたこともあると思います。

 安保闘争での数多くの大衆的な学内外集会、街頭デモ、加えて三池闘争に参加しての度々の現地大牟田行き、炭住への泊り込み、更に福岡県教組の勤評反対闘争の支援、そして裏側での党派の頻繁な会議等々、まさに闘いに明け暮れした年月でしたが、全体として血気盛んで明るく楽しかったという記憶が残っています。
 60年1月の岸首相渡米阻止で全学連が全国動員し、空港ロビーを占拠した羽田闘争では、多くの逮捕者が出ましたが、山口君と私も逮捕投獄されました。また、カンパニアが終わると活動家が集まってよくコンパをしましたが、歌としては、ワルシャワ労働歌やインターナショナルが流行っていて、山口君はラ・マルセイエーズを歌うのが十八番でした。いずれも懐かしい思い出です。

 61年にかけて、安保闘争の終焉とともに全学連を母体としていた党派は分解し、福岡ではほぼまとまりをもって別の新左翼党派に加盟し、丁度大学を卒業した私たち同期生が指導部を担う形になり、社共に代わる革命的労働者党の創成を掲げて出発しなおしました。安保闘争では、地区や県の共闘会議で共産党との対立は絶えなかったものの、社会党とは共闘関係にあったし、学生運動には多くの支持、共感が寄せられていました。しかし、革命的労働者党の建設となると、福岡ではゼロからの出発であり、いわば孤立無援の厳しい運動でした。福岡で極めて大きな勢力を有する社会主義協会に移る先輩たちもいました。しかも、新たに加盟した党派の内部分裂がすぐに起きて、組織は更に細り、一段と困難な試練に見舞われました。

 それでも、当時の表現を用いればそれによって生きかつ死ぬことのできる世界観的支柱としてマルクス主義の体得に励み、ソ連は労働者国家の歪曲態であって社会主義にあらず、社共は日本の革命を担う政党たりえないという主義主張の正当性を固く信じていました。そして、運動の未来性の確信をバネにして、皆がそれぞれに生活苦を抱えながらも、苦難にめげず、道を拓くのに懸命でした。山口君は学生組織の指導にあたっていて、米ソ核実験反対闘争で数年ぶりの大衆運動の組織化に成功したことがありました。俗受けのする派手さはないが、粘り強く原則的であるのが、学生時代以来の彼の活動スタイルの特徴でした。

 68年からは新左翼党派運動が学生戦線のみならず労働戦線においても躍進する時代が到来しますが、その直前、私自身が不祥事で党派活動から脱落してしまいました。そのため、山口君との交友関係も途絶しました。

 長期の中断がありました。その間に、山口君は大学院を出て上京し、私大の非常勤を経て都立商短大の職に就いたことになります。68年からの国内外の激動のなかでの新左翼党派運動の高揚、激化、そして程なくして衰退へと向かう時代の山口君のことについては、具体的に知る由もありません。大学教員の職務としての研究・教育活動を果たしながら、党派の理論活動の一環を担って色々と論文を書いていたのではないかと推測しています。それに、忌まわしい内ゲバが横行して殺人襲撃にまで狂乱化しました。すでに早く党派から離れている私でさえ危ないという忠告で身を隠したことがある程でしたから、山口君は自己防衛にさぞかし大変だったにちがいないと想像しています。  

 山口君との付き合いの再開は、83年に刊行した私の近代ブルジョア国家本質論研究の著書に対する批判的論評が党派の機関紙・誌に連続的に載ったのをきっかけにした、彼からの通信でした。そして、大学に職を得た私が上京した際に会って意見交換し議論するようになりました。
 初めのうちは、新左翼党派運動もまた破綻したという判断を下すにいたっていた私とはかなり大きなずれがありました。しかし、内ゲバ、それに国鉄民営化に伴う労働組合組織再編の問題での党派の対応への批判では一致しており、次第に共鳴しあうことが多くなっていきました。山口君は独自に、党派組織の権威主義的実情に対して執拗に内部批判を重ねていたようです。亡くなられた対馬忠行さんの業績に関する書も、この頃出したと記憶しています。

 80年代末からの東欧革命・ソ連の崩壊の大変動を経た90年代になって、山口君は党派からも自由になり、自分の思い通りの活動に励めるようになったようでした。現代中国についての研究を進めたし、社会主義理論学会に加わって事務局長を務めたり、『季報唯物論研究』で日中哲学交流に貢献したりして、活躍しました。大変に良かったと思います。私とも2冊程の書で共に論文を発表しました。

 癌に罹ったことが判明してからの、特に専門医からも見放されたほど病が重くなってからの山口君の闘病は、すごいものでした。若かりし頃の人となりを知っている私から見ると、いかにも彼らしい粘り強さでした。
 昨年の夏、京都での研究会で同席し、帰りしなには鞍馬寺を一緒に訪れましたが、このときには、驚くほど元気でした。今年4月までメールのやりとりはありましたが、その日京都駅で語らいあって別れたのが、最後の顔合わせになりました。

 顧みると、40年程前、福岡で新左翼党派運動創出の闘いを中心的に担った大学同期生が5名いましたが、その後の運動の盛衰に左右されながら、それぞれの生涯を歩んできたことになります。1人は、安保闘争時に中央に出て社学同委員長として最先端で活躍し、後に判明した右翼からの全学連への資金供与問題で運動から離脱していきました。その後を案じますが、消息は風の便りで聞くだけです。1人は、党派活動への専従を続けて後には中央組織に移りました。それはそれでよしとすべきですが、ただ、数年前に癌で亡くなったとのことでした。いま1人は、高校教師になって運動を担っていましたが、内ゲバ襲撃を受け、居合わせた仲間は殺され、彼は重傷で一命を取りとめたものの、県教委に首を切られるという悲惨な出来事に出くわしました。やがて運動から離れて、転々と職を変え今でも老後の生活のために働いています。それに、山口君と私です。5人のなかでは、山口君は比較的に恵まれた状態で過ごしたように思っています。

 体制変革の夢を追う革命運動においてそれこそ無数に積み重ねられてきた、峻厳な歴史のほんの一齣にすぎませんが、歴史の力はあまりにも巨大で、私たちの力は―仮に新左翼運動の総体をとったとしても―、余りにも小さかったと言わざるをえません。時代の真底の動向と発展可能性を見抜き、歴史を新たに創ることの至難さを、人生を通しての自己体験として痛切に実感させられます。

 いま一つ、山口君に関連しては、政治と学問、政治的党派と理論的研究という、古くからの問題に思いをいたさざるをえません。政治への学問の従属、政治的党派による理論的研究活動の統制という20世紀マルクス主義に顕著だった弊害を批判しながら、新左翼党派も同じ轍を踏んでいました。山口君もこの問題に直面してきたことでしょう。

 彼にはやはり研究者が似合っていたと思われるので、一貫して追求する基本的テーマを定め、じっくり腰を据え相当の歳月をかけて集中的に研究することができなかったことが惜しまれてなりません。

(大藪 龍介)