「新たなマルクスの全体像を求めて」
 『情況』情況出版 1999年3月号


 1989−91年の東欧・ソ連「社会主義」体制の瓦壊は、今世紀の歴史を締め括ると同時に社会主義の歴史の 一大転機を劃する巨大事件であった。その受け止め方は諸々に分かれるが、レーニン主義を頂点とするソヴェト・ マルクス主義によって主導された20世紀マルクス主義の水準をもってしては、近・現代資本主義世界を 変革し超出することはできえないことを、否定しえない確証的事実として鮮明にしたと言えるだろう。

 第二次大戦後のわが国のマルクス主義は、かつて1956年のスターリン批判を機に一つの大きな転換を経験した。 その1956年から91年のソ連崩壊にいたるまでは、相対的に脱スターリン主義の時期、だがしかし、 西欧マルクス主義の一定の進出はあったものの、レーニン主義が依然として優勢であり続けた時期であった。 その転換は、価値基軸としてのソヴェト・マルクス主義の枠内の軸芯の移動にほかならなかった。 ところが、今日の転換において求められているのは、わが国では戦前から全一的な影響力を揮ってきた ソヴェト・マルクス主義の超克であり、それにとどまらず、更にはマルクス、エンゲルスの古典マルクス主義 そのものの相対化、のりこえでさえあろう。

 歴史的現実によってつきつけられているマルクス主義理論の抜本的な再審、再構築にどう応えるか? 原点に 立ち返り、マルクス自体に即してその思想、理論の真髄を改めて掌握しその到達地平を見極めるのは、欠かすことの できない基礎作業であるに違いない。ただ、これまでにも度々企てられてきたそれを凌駕して、新しいマルクス像を 現時点でどこまで描き出しうるであろうか? こうした自問を残しながら、『マルクス・カテゴリー事典』は 取り組まれ作成された。

 139の項目、104名の執筆者から成る事典としての最大公約数的な共通の枠組みは、ソ連「社会主義」の イデオロギー的支柱であった「マルクス=レーニン主義」の批判的克服である。この理論的基調において、 20年程前の岡崎次郎編集代表『現代マルクス=レーニン主義事典』(社会思想社、1980-81年)との質的差異は 明確である。加えて、極めて重要な特徴として、マルクス理論に限定し、従来常に一体的に扱われてきた エンゲルス理論についてはこれを除くことにした。「スターリン→レーニン→エンゲルス→マルクス」という 経路で何重もの眼鏡をとおしてつくりだされてきたマルクス像を直に見直し刷新する狙いであった。

 こうした課題に、本事典はどれくらい応えただろうか。項目によって出来栄えに差がありばらつきがあるものの、 概してかなりの程度まで成功を収めているように思われる。現時点での日本マルクス理論研究陣営の問題意識や 力量が、本事典にほぼ正確に具現されていると言ってよかろう。数多に及ぶ項目、執筆者の中には、当然ながら、 理論的な立場、方向性、見解の違いも所在する。代表的な例として、疎外論と物象化論、論理的方法と歴史的方法 といった周知の問題をめぐっての相対立する論考の併存がそうである。そうした論争の決着も含めて、 それなりのタイム・スパンで、批判にさらされながら、本事典についての評価が定まるのを俟たなければならない。

 顧みると、わが国のマルクス主義理論研究は、その流儀として、伝統的に、輸入理論すなわち外国製理論の 横流し、文献解釈主義、党派的・学派的な排他主義、などの負性を背負ってきた。本事典も、今日的現実に マルクスを生かすことに努めているとはいえ、文献解釈学の流れの中に位置しており、解釈主義的拘泥を強める 結果をもたらすかもしれない。他面、党派主義的・学派主義的排他性、閉鎖性の悪習に関しては、それの打破への 確かな歩みを印したと言えるであろう。マルクス理論をめぐって諸見解が流動しつつ併立している現況にあっては 殊に、マルクス派としての思想的、理論的多様性を尊重した共同作業の追求は、本事典の達成の一つとして 挙げられて良いだろう。

 さて、本事典では、それぞれの項目と執筆者に応じて、多彩でニュアンスの異なったマルクス像が提示されることになった。 それらを踏まえながら、マルクスの全体像の輪郭をどのように掴むべきだろうか。従前から「カール・マルクス問題」 として、哲学から未来社会構想までにおよぶ広範囲で多層的な理論構造、他方では青年期から晩年にいたるおよそ40年の 動的な理論的変遷過程を対象として、とりわけ初期マルクスと後期マルクスの関連いかんをめぐり、種々様々な論議がかわされてきた。 この論題に、わたしが執筆した項目に基づきながら、国家論、革命論、未来社会論を固有の構成要素として組み入れる 形でアプローチして、これまでとは幾らか異なった相を示してみよう。

 1848年の『共産党宣言』の時期までに、唯物史観、哲学、経済学、共産主義論などにわたるマルクス思想、理論体系の骨格 が形成されるにいたったことは、ほとんど異論なく承認されるだろう。そこで、『共産党宣言』に準拠してマルクス、 エンゲルス理論を説く傾向も存在してきた。しかし、その後、1848年の諸革命のなかで挫折を体験したマルクスが、 生涯の一大転機に直面して、思想的、理論的飛躍をとげてゆき、1858年(もしくは1850年秋)を境に 新たな時点へと移り進むこと、そして経済学の批判的研究に邁進して、膨大な『資本論』第一部を築きあげたことは、再言 するまでもない。加えてまた、『経済学批判要綱』や『資本論』を初期の『経済学=哲学草稿』のより高度化されたレベルでの 継承発展として、経済学(批判)としてと同時に哲学(批判)として読み解きうるし、読み解くべきことも、 良く知られている。要するに、マルクスがマルクスとして真価を発揮したのは、『資本論』の創造的建設においてであり、 それを抜きにしてはありえない。

 こうした事柄を確認しつつ、新たに止目したいのは、国家論、革命論、未来社会論の部面での変化である。

 国家論について、1850年代初頭の『フランス革命における階級闘争』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』 のフランス国家分析には、革命切迫の主観主義的願望と不可分に、独裁概念の濫用、ボナパティズムについての誤認など、 理論的過誤が少なくない。それらの訂正を折り込み、フランス国家の特質の解明に顕著な前進を示すのは、1871年の 『フランスにおける内乱』においてである。

 革命論についても、『共産党宣言』と1864年の「国際労働者協会創立宣言」という2つの宣言文書のあいだには、 思想的、理論的な断層がある。まずもって政治権力を獲得するという政治革命路線に立ち、後進国的な永続革命の主張に 代表される前者に対して、後者は不断の改良闘争と有機的に関連づけて多方面から社会革命路線を追求し、その結節環 として政治革命を位置づける。

 国家論や革命論に関しては、フランス(それも第二共和制期の)・モデル説が、晩年のエンゲルスによって広められて すっかり定着してきた。しかしながら、この定説は、『資本論』に後続する形での国家論の構想、イギリスなどの先進国での 革命路線への新たな接近等の、成熟したマルクスの論考からは離反していよう。そうして、近代政治の最も優れた業績 ──思想史的にはベンサム、J.S.ミルの古典的な自由民主主義論、制度史的には議会制民主主義の形成──との 批判的対決、それの解体的継承を主題としえない根本的な欠陥を有している。

 更に未来社会論について、マルクスの構想をアソシエーション論として再発見し開発する最近年の研究によって 新境地が開かれつつあるが、アソシエーション構想として大枠を同じくしていても、『共産党宣言』段階から 「国際労働者協会設立宣言」や『フランスにおける内乱』段階へと、端的に共産主義社会への過渡期経済に関し、 生産と所有の全般的な国家化に代えて協同組合化、過渡期国家については中央集権制に代えて地域分権制へと、 基本路線の変更がおこなわれるなど、多大なる進展が果されている。

 ”飢餓の40年代”から経済的隆盛の第3・4半期への19世紀の歴史の発展を現実的基礎として、 理論的研究の重心移動と研究対象の転移があり、マルクスの思想的、理論的な成熟、円熟の一環として、 国家論、革命論、未来社会論での到達も得られていったのであった。ところが、従来、『資本論』関係は別にして、 後期マルクスに関する研究は、初期マルクスに関するそれの盛行とは対照的に甚だ乏しかった。マルクスが果たしえなかった テーマをエンゲルスが『家族、私有財産および国家の起源』を著わして達成したとされてきた国家論に象徴されるように、 「マルクス=エンゲルス」という一体視により、後期エンゲルス理論によって後期マルクス理論が代替されてきたからである。 ここで、「カール・マスクス問題」と「マルクス・エンゲルス問題」の絡み合いが明らかとなる。杉原四郎他編 『エンゲルスと現代』(お茶の水書房、1995年)の論文の多くから掴み取れるように、後期エンゲルスの名高い代表的 諸著作をもってマルクスの理論的代弁と見做すならば、後期マルクスの独自の達成は見失われてしまうのだ。

 いま一つ銘記しなければならないのは、国家論、革命論も、未来社会論も、マルクスが課題としながら取り組みの途上で 終らざるをえなかった論域であり、限界や空白も少なからず所在していて、むしろ彼の理論体系上の弱点を かたちづくっているということである。

 他方でのエンゲルスの全体像の再吟味ともつきあわせながら、マルクスの全体像を改めて一段と広く深く掌握していくうえでの ヒント、切り込みを、本事典から読み取ることができるだろう。

 旧套から脱することを図ってマルクスの基本理念についての新たな論究に努めた本事典が、マルクス(主義)理論研究の 新時代へと移り行く道程で研究史上の里程標となるとともに、多くの人々に道案内として役立てられて、マルクス理論の 21世紀における展開に寄与することを願っている。

(大藪 龍介)