「新しい社会主義像を求めて」
 共編著『社会主義像の展相』の「序」 1993年11月


 歴史の大きな曲り角にあって、あらためて社会主義とは何かを問う。

 1989年から91年にかけての東欧諸国とソ連邦の劇的な体制崩壊によって、いわゆるソ連型社会主義の虚像は粉々にくだけちった。のみならず、社会主義全般の声望も地に墜ちた。資本主義の勝利、自由民主主義の勝利が謳歌されている。

 良かれ悪しかれ、社会主義は近・現代資本主義体制に対する最大の挑戦であったし、その理想は資本主義に取ってかわる未来社会像として歴史の行く手を照らしてきた。ところが、20世紀末の現在、その社会主義は、前世紀初葉の西ヨーロッパにおける思想、運動としての生成以来かつてなかった危機に立たされているのである。今世紀のグランド・セオリーの最たるものとも言いうる位置を占めてきた社会主義についてのパラダイム変換が、必須的に要請されている。

 瓦解したソ連邦や東欧諸国の社会主義とは、一体何だったのであろうか。いかなる社会主義であったのか。ソ連邦が社会主義のアンチ・モデルでしかないことは、もはや大方の共通認識となっていたのだが、それでもやはり「初期社会主義」ないし「現存社会主義」であったのか。または「国家社会主義」であったのか。それとも、異論として第三範疇説や「国家資本主義」説が存在してきたように、また最近「左翼開発独裁」説が台頭しているように、社会主義ではあらざるものだったのか。次第に露わになりつつあるソ連邦の実相を透察するとともに、その存続が4分の3世紀に満たなかったという事実を踏まえて、ソ連邦の歴史的存在性格を捉え返す必要がある。

 それにしても、ソ連邦などでの社会主義革命と建設の試行は、社会主義に決定的な程のダメージを与えて失敗に帰した。その経済や政治のシステムの基本的欠陥は、どこにあったのか。74年間の経験を直視して、破産の諸原因を汲みつくすことが課せられている。

 20世紀社会主義を領導してきたマルクス主義について言えば、東欧・ソ連邦革命によって崩壊し破産したのは、たんにスターリン主義なのか。レーニン主義も然りなのか。更には、マルクス、エンゲルスのマルクス主義もまたそうであるのか。

 すでに1950年代末以来のスターリン主義批判の深化と拡大のなかで、特にわが国ではスターリン主義とレーニン主義の断絶性がしきりに強調されてきた。しかし、今日では、1930年代にいびつでおぞましい「社会主義」体制を築きあげたスターリン主義にとどまらず、社会主義への過渡期について生産手段の全面的な国家所有やプロレタリアート独裁を基軸に据えたレーニン主義も歴史によって裁かれていることは、否定しえないところである。他方、いわゆるソ連型社会主義の崩壊をもって、マルクス、エンゲルスのマルクス主義の破産を断ずるのは短絡にすぎよう。

 古典マルクス主義については、旧套にとらわれない、思想的、理論的原型の掘り起こしが三たび四たび求められている。しかも、マルクス、エンゲルスは未来の青写真を描くことに慎重であり、極めて多くのことを空白のままに残していた。古典的理論を甦えらせるのは、それを超え出るためでなけれはならない。社会主義の教導理論たりうるには、マルクス主義も自らの科学革命を必要不可欠としている。

 社会主義の再生が可能だとすれば、どのような姿においてであろうか。今日の先進資本主義諸国で爛熟した経済、社会、政治、文化体制を突き抜けたその先にしかないのであれば、その革命的変革の客観的条件や主体的担い手、またプロセスをどこに見いだすか。こうした革命路線に関する諸問題は、ここでは措くとしても、計画経済や国家の死滅は根拠のない空想にすぎないという批判に、どう答えるか。計画経済についても社会主義的な自由、民主主義についても、それがどのようなシステムとして存立し、いかなる道筋を経て体制の原理たりうるか、根本から再究明しなけれはならない。

 他面では、エコロジーやフェミニズム、エスニシティ、南北間題などを組み入れることなしに、社会主義の新生について語りえないことは、とうに明らかだ。例えば、エコロジーについて、地球上に広大な開発の余地が残されていて、科学技術の発展にも全幅の信頼が寄せられており、近代産業の無尽蔵な生産力の発達が想定されたマルクスの時代とは異なって、地球大の環境破壊や原子力の脅威により、自然が許容する経済成長の限界が逃れられない問題としてつきつけられている。フェミニズムやエスニシティを取ってみても、旧来の社会主義のビジョンに重大な変更を迫らずにはいない。歴史が要求しているのは、古い殻を打ち破り、変動する世界に開かれた社会主義像である。

 しかしながら、崩壊したのはソ連型社会主義であって社会主義そのものではない、またスターリン主義ないしレーニン主義であってマルクス主義自体ではない、ということですますことができるかどうか。最近のある有力な説諭によれば、古典マルクス主義のそれを含めて、社会主義は国家社会主義としてしか現存しえず、ソ連邦などの国家社会主義が終焉したことは社会主義そのものの終りだという。こうした批判にも、謙虚に耳を傾けるべきだろう。

 そうであれば、社会主義の新生か、それとも社会主義とも異なる原理に基づく新しい社会か。そこまで視野を広げて、認識を多面的に農かにし弾力性のある構想を鍛えてゆく姿勢をとりたい。

 いかなる理念も輝きを失い、理想へのこだわりが冷笑される昨今の風潮は、時流として更に強まるであろう。だが、資本主義世界システムに不可避的な貧富の懸隔、労働者大衆の失業や生活苦、万物の商品化、社会的退廃、人間疎外、政治的抑圧、戦争、民族的・人種的差別や性差別、等々は、不断に解放と変革への志向と闘争を生みださずにはおかない。そして、人間の全面的解放を目指し、近・現代の支配=隷属諸関係を超える新世界を創りだすことは、人びとの大いなる夢としてありつづけるにちがいない。流行としての社会主義でも流行としての反社会主義でもなく、21世紀以降につながる、もっと広く深い歴史的射程で、人間解放の道標たる社会主義について思索を重ねる必要がある。

 社会主義像の抜本的な反省、新構築によって未来を切り拓くために力を尽すことは、至難な道であるが、今日の時代に生きてなんらかの形で社会主義にコミットしてきた者が、まずもって果すべき歴史的な責務であろう。

 本書は、フォーラム90Sの1992年度研究集会の「社会主義像の再構想」分科会(12月6日、於東京大学)を基にした報告集である。当分科会は、以下のような構成であった。

 司会 加藤哲郎、松富弘志、志摩玲介
 経済の部報告
   伊藤誠「集権的計画経済の問題点」
   山口勇「社会主義的経済メカニズム創造の可能性」
   村岡到「レーニンにおける「価値法則」の不在」
 政治の部報告
   阿曾正浩「ロシア10月革命像の再検討 1917〜1921」
   大藪龍介「議会制民主主義を超えるもの」
   桐谷仁「ラディカルな民主主義としての社会主義?」
   片桐薫「社会主義と自由」

 一書にまとめるに際し、報告者に加えて司会者も所論を表明することにした。なお、報告者のなかから論文執筆辞退があったため、関係者以外から、田畑稔さんに急拠寄稿をお願いした。また、本書の出版には、世界書院の尽力をいただいた。

 本書の諸論文それぞれの独自な論点追求が、再生ないし新生社会主義像を描出して一つのアンサンブルをなしているとは言えない。しかし、社会主義の可能性と現実性の再発見こそ、各論文に通底する共通のモチーフである。それに、現在的に必要なのは、フォーラム90Sがこれからの時代にふさわしい、多くの個性の新たな形での協力と協働の場を目指しているように、種々様々な立場、観点からの率直で大胆な問題提起であり、それをめぐっての誠実な論争である。ささやかであっても真摯な、理論的模索と実践的苦闘の無数の営為なしに、歴史の試練に耐えて社会主義の新地平が築かれることはありえまい。

 人生の一時期に社会主義に情熱を燃やした人は多いし、社会主義になお希望を抱いている人も少なくない。本書が、社会主義に様々な想いをめぐらせている人達のあいだでの対話の道を開く一助となることを願っている。加えて、多くの類書が公表されているなかにあって、これからの社会主義像を照射する視点が本書のなかにいささかでも含まれているとすれば、望外の喜びである。

(大藪 龍介)