「ボナパルテイズムをどう捉えるか」
 2006年9月


 ボナパルティズムとは何かについて、近年、従来最も有力であったマルクス主義的説論の批判的再検討が進められ、新たな理論的研究が開かれつつある。そこで、これまでの主な代表的論議を取り上げて評註し、ボナパルティズムついての再規定にアプローチしよう。

 フランスの第2帝政・ボナパルティズムをめぐって実地に歴史的過程を追跡して著論を遺したのはマルクスであった。但し、マルクスの所論は変転しており、一番よく知られている『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年)の説論は、その第2版での一連の論点の削除が示唆するように、1860年代から基本線の訂正と転換に向かい、『フランスにおける内乱』(1871年)にいたって新たな地点を示した。その到達も、なお制限されていた。これらの論点については、拙著『マルクス、エンゲルスの国家論』「第5章 マルクスの第2帝制・ボナパルティズム論」を参観していただきたい。

 それに加えてマルクスは、ボナパルティズムの原型にあたる第1帝政について独自に分析することがついに無かった。彼の一応の達成を踏まえつつも、それらの限界を突破してボナパルティズム論を発展させることが、後世の課題とされるべきであった。

 ところが、エンゲルスはマルクスの分析を一面的に概括してボナパルティズムについて定義した。上掲書「第7章 後期エンゲルスの国家論」のなかで述べたように、「階級均衡」や「例外国家」の論点を軸にして、マルクス主義の定説とされてきたボナパルティズム論は、後期エンゲルスに特有なものであり、歴史的な事実と方法的な論理に照らして根本的な謬点を含んでいた。「階級均衡」論は、1848年2月革命の時期にブルジョア支配は頂点に達したとか、プロレタリア革命が迫っているとかいう歴史的段階ないし状況の誤認と一体であって、ブルジョア階級の発展力の過小評価、プロレタリアートの力量の誇大評価であった。「例外国家」論は、経済と国家が分離する近代においては、国家が「ある程度の自主性を得る」のは「例外」ではなく「通例」であるという歴史的な特質を見失い、近代の諸国家のなかでのボナパルティズム国家の「自主性」の特殊具体性をかえって捉えきれないのである。

 20世紀になると、総じて後期エンゲルスによるマルクス理論についての概説が、特にソヴェト・マルクス主義を通じて、定説として普及したように、ボナパルティズムに関しても、後期エンゲルスの「階級均衡」論や「例外国家」論がすっかり通説として定着し罷り通った。そうした通俗論に立脚していることでは、レーニンはもとより、コミンテルン内外の反対派も同様であった。

 1920年代にファシズムが荒れ狂い始めたなかで、ドイツ共産党反対派のA・タールハイマーは、ボナパルティズムとの共通性に着目してファシズム研究へボナパルティズム論を導入し、斬新なファシズム論を提出した。彼はファシズムとボナパルティズムの共通点と相違点を種々明らかにしたが、ボナパルティズム論のファシズム分析への適用あたって第一の論点としたのは、「階級均衡」であった。ファシズムの成立の歴史的な段階、あるいは局面、あるいは状況を「階級均衡」として分析するのは当を得ている。だが、ファシズムをボナパルティズムと共通性の多いものとして捉えるにあたって、ボナパルティズムについての「階級均衡」という通説的誤解に拠るところが大きかったのである。

 A・グラムシも、ボナパルティズムについてカエサル主義の別用語で論じている。古代ローマのカエサルとボナパルトとの類比は、すでに第1帝政の前段としての統領政の発足後に現れており、ナポレオン1世やナポレオン3世の統治は、しばしばカエサル主義と呼ばれてきた。グラムシの主な論点を検討しよう。

 第1点として、「カエサル主義は、闘争する諸勢力が破局的なしかたで均衡する、つまり闘争をつづけても共倒れになるより解決のしようがないかたちで均衡している、そのような情勢を表現している」(『グラムシ選集1』合同出版、165頁)。彼もまた「階級均衡」論を踏襲していた。

 しかし、第2点として、彼は、カエサル主義の歴史的意義について、ファシズムと共通する反動的形態としてボナパルティズムを位置づける論調が支配するなかにあって、「進歩的カエサル主義と反動的カエサル主義とがありうる」(同)と説く。「カエサルとナポレオン1世は進歩的カエサル主義の例である。ナポレオン3世とビスマルクは、反動的カエサル主義の例である」(166頁)。「進歩的カエサル主義」の存在を認めるのは、史実に基づけば当然であり、通俗説からの一つの大きな前進点であった。それでも、通俗説と同じように、ナポレオン3世とビスマルクのボナパルティズムについて「反動的」と規定している点では、それらもまた有した歴史的な革新的性格を捉え損なっていた。

 第3点として、「カエサル主義的解決は、カエサルなしでも、つまり偉大な『英雄的』代表人物なしでも、おこりうる」(同)という論点に止目したい。これは、1848年以後、政治や国家も大きな変化を遂げてきたなかでの、現代におけるカエサル主義の存在形態の変化に関する言述であるが、カエサルなしのカエサル主義は果たして存在しうるのかという疑問を喚起する。この問題への解答は、カエサル主義(ボナパルテイズム)とは何か、その核心の理解にかかわる。後述のようにボナパルティズムの核心を「偉大な『英雄的』代表人物」による独裁的支配として把握すると、ボナパルトなしのボナパルティズムは言葉の矛盾であり実在しえないことになろう。そうした見地からすると、グラムシはボナパルティズム論を過度に拡散させていることになる。

 続いて近年の優れた業績としてドイツのH‐U・ヴェーラーと日本の西川長夫のボナパルティズム論を取り上げるが、その前にこれまでのすべてのボナパルティズム研究に通有の大きな方法的欠陥を指摘しておく。

 マルクス以来のボナパルティズム論はフランス第2帝政を素材にして組み立てられている。しかしながら、第2帝政は第2次ボナパルティズムであり、ボナパルティズムの原型はフランス第1帝政である。第1帝政こそ、単に歴史的に最初というだけでなく、他の政治・国家体制に対するボナパルティズムとしての特質を最もよく充実して体現している。ボナパルティズムとは何かは、第1帝政を対象にしてこそ解明されるべきではないのか。そして、その歴史的段階的転化形態として第2帝政・ボナパルティズムは位置づけられよう。

 要するに、従来のボナパルティズムの理論的定義は、発祥の地フランスにおける対象的素材の面からしても、第1帝政の然るべき扱いを組み入れていないという狭隘性を免れていない。この制約はマルクスなどの革命運動の実践的立場からすればやむをえないものであったとしても、後の時代の理論的研究はそれを克服したボナパルティズムの把握を期さなければなるまい。

 別の言い方をすると、第1帝政と第2帝政とのボナパルティズムとしての相違点についてはこれから折に触れて言及するが、どちらを素材とするかによって、ボナパルティズムの理論的定義自体に多少なりと違いがでてくるのである。

 ヴェーラー「ボナパルティズムとビスマルク・レジーム」(1977年)は、ボナパルテイズム論のビスマルク・レジームへの転用を図るが、この論文のなかで、ヴェーラーは以下のような6点の特徴を挙げてボナパルティズムの性格づけをおこなっている。@、市民革命を経過した初期工業社会の支配体制。A、大きな社会諸階級間の均衡。B、カリスマ的指導者による政治的独裁、なかんずく軍隊と農民とによる支え。C、危機に瀕した支配階級から伝統的政治権力の大部分を奪い去るが、その代わりに彼らの経済的地位を保証。D、労働者層に対する社会政策的譲歩。E、進歩的、近代的諸要因と保守的、抑圧的諸要因の際立った結合を特徴とする支配技術。

 @、A、Dから明らかなように、全体として、フランスの第2帝政に即しつつボナパルテイズムの特徴づけを下している。だが、例えば@は、第1帝政を対象にするならば、上からの革命としてブルジョア革命が終結した初期資本主義社会の支配体制となるだろう。また広く第1帝政と第2帝政の双方を対象にするのであれば、上からの変革を介して興隆する資本主義社会の政治的支配体制となるだろう。

 @はまた、上からの革命・改革とボナパルティズムの連動性という不可欠の要点の位置づけが欠けていることを示している。

 Aも、第2帝政におけるブルジョアジーとプロレタリアートの階級均衡という通俗的な謬説の取り入れとして、ヴェーラーの把握の否定的な面を表わしている。

 更に考えると、第1帝政と第2帝政とでは、国家体制としては同じボナパルテイズムであっても、その社会階級的基礎関係は著しく異なっている。それに加えて、他方では、第1帝政と復古王政が示すように、基本的に同じ経済的社会階級関係であっても、その上に、異なった国家体制が存立しうる。そうだとすると、ボナパルティズムに必然的な特定の階級関係を一般的に設定すること自体を控えるべきだろう。そして、Bの後半部にあるように、第1帝政、それに第2帝政で、軍隊と農民とが特別の支柱となり、社会的支持基盤となったことを規定するにとどめるべきであろう。

 Bの前半部のカリスマ的指導者の規定は、ヴェーバーの支配の社会学の摂取を介してのヴェーラーの積極的な寄与として評価される。『ブリュメール18日』のマルクスは、ナポレオン3世を卑小な人物として戯画化したが、すでにグラムシは「カエサル」について「偉大な『英雄的』代表人物」と表現していた。

 Cについても、後期エンゲルスを原典とする通俗説の影響が覗われ、誤りとは言えないとしても、核心的な事態を捉えていない。近代における経済的支配(階級)と政治的支配(階級)の分化という歴史的に独自な特質を押さえたうえで分析するならば、ボナパルティズム国家の出現は、支配階級全体の入れ替わりではなく、政治的支配階級の入れ替わりである。その政治的支配階級の入れ替わりが、イギリスの議会主義的君主政や議会制民主主義の国家にあっては政権を担当する政治的党派の交替として進行する。ところが、フランスの第1帝政、第2帝政の成立では、既存の政治的党派の放逐とナポレオン1世、3世とその郎党の登場という劇的な姿をとり特異な形で政権交替が起き、それが国家体制の転換の原動力となったのである。経済的に支配するブルジョア階級については、その内部で金融資本家、商業資本家、産業資本家や大土地所有者などの諸集団の相互関係に一定の変化が生じるとしても、旧新の入れ替わりがあるわけではない。資本主義経済は順調な発達過程にあるのである。

 右の問題について説明を重ねると、政治的危機が深刻化し破局を迎えて、経済的に支配するブルジョア階級とその議会的代表であった政治的党派との関係も行き詰まって崩壊し、政治的支配のトップの座は新規の人物(集団)、ナポレオン(郎党)によって担われことになる。とともに、経済的に支配する階級と政治的支配諸集団との関係も再編成される。経済的に支配するブルジョア階級の側からすると、従前の議会的代表部隊を見捨てて、新たな代表部隊としてのナポレオンとその郎党に政治的危局からの脱出と政治的に安定した支配を託するのである。

 以上、主な点について論評した。ヴェーラーは、依然として、後期エンゲルスを源泉としたボナパルティズム概念の通説を前提として受け入れている。なお、ボナパルティズム概念のドイツ帝国への転用はマルクス、エンゲルス以来の伝統として定説となっているが、その是非についてあらためての検討を要する。ドイツ帝国の国家体制は、ボナパルティズムに類似しているが、それとはまた別のものとして新たな規定を与えるのが適切であるとも考えられるからである。

 西川長夫は、近代フランス史の実証的研究に基づいて、ボナパルティズムの通説をのりこえた研究を開拓している。「ボナパルティズムの原理と形態」(河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』岩波書店、1977年、所収、後に西川『フランスの近代とボナパルティズム』岩波書店、1984年に収録)では、第2帝政についての表題に関する歴史的な研究、考察をおこない、そのまとめとして、第2帝政・ボナパルティズムを次の4点から特徴づけている。   

 @「デモクラシー」として、「単に専制的な独裁体制ではなく、人民主権の発現形態である人民投票と普通選挙によって裏付けられた『民主的・人民的』独裁体制」、A「官僚制度」として、「独裁は、第1帝政以来の発達した官僚制度に依拠」「なかでも知事と警察」、B「産業主義」として、「国家権力の指導と介入による産業と経済のめざましい発展」、C「ナショナリズム」として、「熱烈なナショナリズム」、その三つの側面をなす「経済的なナショナリズム」「独立的ナショナリズム」「膨張的ナショナリズム」。

 @について、これまでほぼ定説として繰り返されてきた反動的体制という性格づけを斥けて、「『民主的・人民的』」性格を前面に出し、従前の把握との際立った相違を打ち出している。確かに、第2帝政は、最先進的で議会制民主主義の母国となるイギリスにも先んじて、普通選挙を確立した最初の体制であった。と同時に、そこでの普通選挙や民主主義は、制度的な操作によって、農民や労働者などの人民大衆を取り込んで国家的に統合するブルジョア的統治の一システムであることを露わにしたのであった。西川の規定は、権威と自由、強権支配と民主主義の両面の制度的合成を指摘しつつ自由、民主主義のみせかせ性を力説してきた説論とは反対に、第2帝政の人民的基盤を強調しすぎているとも言えるが、ボナパルティズムの歴史的性格の見直しを更に一段と進める意義をもとう。

 しかし、「独裁(的個人統治)」について、言及はあるが、「デモクラシー」や「官僚制度」ほどには重要視されず、独立の項目として扱われていない。これは、ボナパルティズムの特徴づけとしては欠点であろう。但し、ナポレオン3世の第2帝政ではなくナポレオン1世の第1帝政についてであれば、「独裁(的個人統治)」がもっと強く前面に出されるのかもしれない。関連して言及すると、第1帝政と第2帝政とでは、独裁者のカリスマ性、自由主義が占める比重、諸階級、諸党派の政治的成熟や国家権力機構の拡充の度合い、のそれぞれの差からして、「独裁」としても一定の相違があり、前者を独裁とすれば後者は準独裁と言うことができるだろう。

 Aでは、これまで広く認められてきた特徴である官僚制的統治を確認し、更に立ち入って知事と警察が重要な役割を果たしたことを明らかにしている。加えて、軍隊の役割の重要性の相対的低下という第1帝政と比べての変化を指摘している。これを摂取すれば、ボナパルティズムにおける軍事的、官僚的支配の主力に関して、第1帝政は軍隊と知事、第2帝政は知事と警察というふうになろう。

 Bについて、第2帝政時代における産業資本主義の飛躍的発展は顕著な歴史的事実であって、今では公知の事柄である。マルクスが『ブリュメール18日』でのボナパルティズム分析の基本線を『内乱』において変更するにいたったのも、第2帝政の‘産業帝国’としての躍進の歴史的現実を眼前にしたからであった。ただ、エンゲルス以来行き渡ってきた通俗的概念からすると看過ないし軽視されてきた事柄である。

 Cも、ややもとすると重視することを欠いてきた事柄の位置づけの提示であり、積極的な意義をもつ。しかも、ナショナリズムについての諸側面の解析は、開拓的な貢献であろう。

 西川は本論文での立論をボナパルティズムの定義への道程での仮説と断っている。上の特徴づけもそのようなものとして受けとめられなければならない。それとともに、歴史研究をなおざりにして理論的な構築や規定に走ってはならないと戒めている。この戒めは大変に重い。筆者(大藪)にとっては特にそうである。

 それでも、上述来の歴史的概観と先行理論の検討に基づいて、あえて、ボナパルティズムの諸特徴を列記して、その全体的な輪郭を示す形で、さしあたっての再定義を試みよう。その際、既述のように、ボナパルティズムの原型と見做す第1帝政を直接の対象とする。第2帝政・ボナパルティズムについては、この特徴づけに一定の変更を加えなければならない。

 @、上からの革命としてブルジョア革命が終結したのを承けて、自由主義的な革命の原理と成果の継承と定着を図った初期資本主義社会の政治的支配体制。

 A、カリスマ的統治者の独裁。ナポレオン体制あるいはナポレオン帝国と呼称されるように、革命の嵐のなかから皇帝へとのしあがったナポレオンが、カリスマ的指導者として、権威、権力を集中して独裁的に統治した。

 B、国民投票による直接の支持に正当性の基礎をおく。なによりも国民投票―4度実施―として、加えて地方選挙人総会での投票として、国民の政治参加を保障していた。独裁的統治は、国民投票で圧倒的に支持され、国民大衆の信任に立脚していた。

 C、主柱としての中央集権的な軍事機構と官僚制的行政機構。軍隊と知事を主力として、中央集権的で強大な軍事的、行政的機構を備える国民国家を構築した。

 D、政府権力の議会権力に対する絶対的な優越という国家権力の機構的編制。皇帝および元老院の政府に対して、議会は、国民代表権力としては第二次的であり、立法権力としては添え物的であり、微力であった。

 E、社会的基盤としての軍隊、農民の熱狂的支持。

 F、上からの資本主義化の推進。

 G、対外戦争の勝利による栄光。国民の圧倒的多数は、戦勝、征服に歓喜し、軍事的ナショナリズムが高揚した。ナポレオンの統治は、なによりも対外戦争の勝利、帝国の形成によって成功し、戦争の敗北、帝国の崩壊によって終焉した。

 こうして、ボナパルティズムについて、カリスマ的指導者による、軍事的、官僚的国民国家を構築し、資本主義社会の発展を上から推進する、人民投票的支持に立脚した独裁的統治、と定義しておこう。

 大薮龍介